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2015年6月19日金曜日

日本で相続税が導入されたのは1950年で、日露そして戦争の戦費調達が目的だった。
最高税率は相続によって異なり13~14%だった。
その後、最高税率は1940年に33~49%へ引き上げられ、戦後はシャウプ勧告によって1950年に90%となった。
そして1952年に70%下げられ、1975年に75%に引き上げられるまで最高税率70%は長く維持された。
1988年に再び70%に下げられた後、2003年には50%まで下がり、2015年に55%へ引き上げられた。
21世紀は、経済のグローバル化に伴い国家間の税制競争が激化し、税金の高い国から資本が流出し、資本への課税は次第になくなると考えられる。
その為、ピケティは資本にかけられる平均税率を次のように仮定している。
1913年~2012年は30%
2012年~2050年は10%
2050年~2100年は0%
この仮定により、1923年~2010年には資本収益率rより成長率gが勝っていたのが、税率の急速な低下によって、2012年~2050年には再び逆転し、その差は益々広がると予測している。
この予測の結果、ピケティはノーベル経済学賞受賞者であるクズネッツの「資本主義の初期段階では格差が拡大するが、一定のレベルを超えれば、経済成長に伴って格差が縮小する」という理論を覆した。
ピケティの推計に従えば、成長率gが資本収益率rより高かったのは、戦争と恐慌という有事が関わった時期の一時的現象でしかなく、平時においては常にr>gとなり、放っておけば格差は拡大し続けると結論づけた。
ピケティは『21世紀の資本』で、「世界的な税引後資本収益率と経済成長率 古代から20100年」のグラフで、世界規模でみた資本収益率rと成長率gの、古代ゼロ年からの推計と2100年までの予測を示している。
資本収益率「r」とは、資本から得た所得の資本に占める比率である。
ピケティは、歴史的事実として、資本収益率rは常に成長率gより大きい(r>g)という不等式が成り立つと主張している。
古代から17世紀までの成長率は極めて低く、0.1~0.2%しかない。
一方、多くの伝統農耕社会においては、資本所得は土地からのものだったはずであり、その収益率は4~5%、もっと厳しい推定を採用したとしても2~3%と推定される。
つまり、古代から17世紀の社会では、rはgの10~30倍であり、r>gが圧倒的な規模で示されている。
新興経済国のトップ1%の所得比率は、1910年から1950年の間について、最高でアルゼンチンの26%、最低でもインドの10%と、所得格差が非常に大きかった。
その後急激に下がり、1980年には4~10%にまで下落したが、1980年代以降に再び上昇し、2010年代初頭には11~20%まで上昇している。
新興国では、経済成長を急ぐ一方で、税制度が確立していない事が大きい。
国の社会保障制度などの格差防止体制が、経済成長率に追いついていないため、より不平等な社会となりやすい。
所得格差の広がりは、日本では高齢化によって説明できる。
若い時には、所得格差はなく初任給は同じだが、個々人の努力によって所得に差が出てくる。
高齢化社会では、国全体で起こる事となり、高齢者の割合が高まるほど、社会全体では所得格差が広まるのである。
ピケティの『21世紀の資本』の中で「ヨーロッパの民間資本と公的資本1870ー2010年」というグラフで、ドイツ、フランス、イギリスの民間資本と公的資本の推移が示されている。
推移は1年の国民所得に対する資本の比率で示されており、この比率をピケティは「資本/所得比率」と言っている。
これは国内の資本総額が、その年の国民所得の何年分になるかという比率である。
3カ国の民間資本は20世紀前半から所得比で大きく減少している。
1910年には国民所得の600~700%だったのが、1920年には250~450%まで落ち、更に1950年には200~300%にまで落ちている。
つまり、1910年から1950年の間に400%も減少したことになる。
この大幅な減少は、戦争による物理的な損害も関係しているが、それ以上に二度の世界大戦が財政と政治に与えた影響の方が大きく、外国資本の損失と国民の貯蓄率の低さが原因であった。
外国資本の減少の理由として、革命による収用と非植民地化ブロセスにあった。
革命による収用とは、ロシアに融資していたヨーロッパの資本家の資本がロシア革命によって焦付いた事を示している。
また植民地化プロセスとは、それまで植民地の利権で儲けていたヨーロッパの資産家が収入源を失った事を示している。
例えば、1869年にフランスとエジプトの出資で開通したスエズ運河は、この投資でエジプトは財政破綻に陥り、イギリスに保有株を譲渡し、エジプトはイギリスの保護国となった。
1956年にエジプトのナセル大統領がスエズ運河を国有化するまで、フランスとイギリスの資産家は配当と利用料を得ていた。
地上戦による住民の被害としては日本最大となった沖縄戦の正確な被害の全貌は分かっていない。
沖縄県が非公開としていた戦没者の死亡日と場所が特定できている82074人の調査記録を解析した結果、住民の被害がどのように増えていったのか、その推移が明らかとなった。
日米の戦闘が事実上決着した後に、4万6千人もの住民が亡くなっていた。
1945年4月1日の午前8時30分に、10万発を越すの艦砲射撃の援護で米
軍54万人が沖縄に上陸を開始した。
現地守備隊の日本軍32軍は、大本営より持久戦を求められたため、限られた兵力を首里にあった司令部周辺に固めた為、米軍上陸地点は無防備だった。
住民の死亡者数は4月末時点で13800人となり、首里を巡る攻防があった5月20日までの1ヶ月で新たに21600人が犠牲になっていた。
その多くが沖縄戦の直前に「防衛召集」という制度で軍に動員されていた。
防衛召集とは、戦時に現地の住民を軍に組み込み兵力を補う制度で、14才以上の男子中学生も対象なっていた。
沖縄では2万2千人以上が、軍に防衛召集され、沖縄本島の守備隊の2割に当たる数だった。
その背景には、沖縄戦の半年前に大本営が第32連隊
から本島の3つの師団のうち第9師団を除き、台湾防衛に回す決定をした為、32軍は防衛召集で兵力を補うしかなかった。
5月31日に首里の日本司令部が陥落し、事実上は戦闘の決着がついた後から1ヶ月の間で住民の犠牲者の6割に当たる46042人の住民が犠牲になっていた。
特に日本軍の組織的戦闘が終わる6月23日(牛島満司令官が自決)までの1週間の中で、6月20日には1日で5502人の住民が犠牲となっていた。
沖縄戦の戦没者20万人のうち3千人以上の遺骨が見つかっていない。