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2016年8月11日木曜日

近衛文麿は公家の頂点である五摂家筆頭の当主であり、貴族院議長も務め、早くから首相候補とされていた。
東京帝国大学に入学後、当時の著名なマルクス経済学者の河上肇に直接師事するために教徒帝国大学に再入学している。
昭和8年にはブレーン組織として昭和研究会を創設し、主催者には近衛の京都帝大時代の友人だった後藤隆之助が引き受けている。
戦前の首相には全体最適を考えて適切な歯止めをかける権限がなかった。
大日本帝国憲法においては、「国務各大臣は天皇を輔弼(ほひつ。助言によって天皇の統治を助ける)し其の責に任ず」とされ、総理大臣には特段の規定はなく、天皇の前では各国務大臣と全く同格だったのである。
権力が集中しすぎると独裁者になってしまうが、戦前日本の問題はむしろ権限が分散しすぎた点にある。
日支事変では、停戦の機会が全くなかったわけでは無かった。
昭和12年11月に入り、広田弘毅外相が、駐中国ドイツ大使のトラウトマンに仲介を要請し、「トラウトマン和平工作」を始めている。
この交渉には蒋介石も乗ってきた話が前に進み出した時に、交渉が進んでいる間に少しでも領土を取ろうという日本の軍隊の悪い癖が出て、大急ぎで南京を攻めてしまった。
ちなみに日露戦争の時もポーツマスで話し合いが始まったとたんに、慌てて樺太を取りに行っている。
日本政府は南京陥落で勢いづき、和平条件を厳しく再提示し、期限付きの回答を蒋介石に求めた。
ところが返事がなかなか来ず、年が明けて昭和13年1月に「日本の条件は範囲が広すぎるからもっと詳細な内容が知りたい」と申し入れがあったにも関わらず、広田外相は「中国側に誠意なしとの結論」としてこれを拒否してしまうのである。
後に公開された蒋介石の日記によると、蒋介石はその時丁度、高熱を出して倒れていて動けないほどで、返事の出しようが無かったという。
問題なのは、そのことを日本の外務省は知っていたという。
そして、ひの後直ぐに、近衛首相が「爾後国民政府を対手とせず」と声明を出し、和平の機会を自ら完全に放棄してしまうのである。
この日中戦争の根本的な問題は、そもそも戦争の目的が無かったことである。
近衛首相は、途中で「日本は東亜新秩序の建設を目指す」と言い始めるが、その中身は、友好親善であり、経済連携であり、防共だった。
これらが本来の目的であるらば、戦争をする必要などない。
目的がないから、出口戦略も描けなかったのである。
1937(昭和12)年7月、盧溝橋で始まった戦闘が上海に飛び火して一挙に事変が拡大したが、日本政府は首都を占領すれば戦争は終了すると安易に考えていた。
この戦争を日本政府は正規の戦争ではなく、「事変」という形に留めおき、事変だから国際法を守ろうという意思が軍部にも働かなかった。
「事変」とせざるを得なかった事情もあった。
宣戦布告をした上での戦争となると、アメリカの中立法にひっかかってしまうからである。
1935年、アメリカは戦争状態に入った国への武器や軍需物資の輸出を禁ずるという法律を制定した。
これに引っかかると、アメリカから物資が入らなくなり、戦争遂行上、不利益益を被ることとなり、これは蒋介石の国民党政府も同様であり、両者の利害が一致して、双方とも宣戦布告をせずに「事変」という形になったのである。
満州事変の後、国際連盟は英国のリットン卿を委員長とする調査団を派遣し、「リットン報告書」が出されたが、その報告書を素直に読むと、日本に多くの助け舟を出していることに驚くという。
アメリカの歴史家ヘレン・ミアーズは『アメリカの鏡・日本』の中で、「調査団が集めた事実を証拠として使えば、日本は中国を世界平和を乱した罪で告発できる」とまで言っている。
報告書では、満州を特殊地域にして日本の影響かにおいても良い、という結論だったにも関わらず、当時の日本人はこの報告書に猛反発した挙句に、国際連盟で満州撤兵の対日勧告が採択されとしまい、1933年2月には日本代表の松岡洋右は退場してしまった。
当時の新聞は各紙とも論説委員がリットン報告書を読み込む作業をして、その結果「これは日本に対して理解を示している」という感想を漏らしている。
ところが、社説ではどこも徹底的に批判した。
なぜならば、当時のメディアの論調は、満州事変も賛成、満州国にも賛成で、一度世論を沸騰させてしまうと、今度は世論に縛られてしまったのである。

1931(昭和6)年12月の世界大恐慌の嵐のさなかに、蔵相が井上準之助から高橋是清に代わり、二・二六事件で凶弾に倒れるまでの5年間、高橋財政時の成長率は7%と圧倒的なパフォーマンスだった。
しかし、評価が難しいのは、高橋蔵相時代に軍事予算が急増し、昭和8年が65%、昭和9年が58%と、国家予算の半分以上を占め、軍事大国への道を後押ししたともいえる。
つまり、軍事予算が公共投資的な役割を果たしたのである。
近年、高橋財政とアベノミクスの共通点が指摘される。
高橋は短期的には金融リフレ政策を行い、円安を放置して、軍拡で需要を生み出し、長期的には構造改革に取り組もうとしていた。
確かに現在の行き詰まり状態に似ているが、高橋は大恐慌の板でから立ち上がると、直ぐに財政再建に着手し、昭和11年度予算で軍部と激しくぶつかるのである。
そして、昭和11年度予算では軍事費を45.7%まで縮小したことが、二・二六事件で高橋が狙われた遠因であったことは間違いない。
軍縮は軍令(作戦)と軍政(予算、人員)と絡んでしまうので、非常に厳しい政策なのである。
人類史上初めての総力戦となった第一次世界大戦では、日本はアジアで局地戦に参加したり、輸送船団の護衛をしたりして、死傷者も陸海軍合わせて500人ほどだったにも関わらず、ドイツの南太平洋の委任統治領や青島をもらえた。
国際連盟にしても、もう二度と総力戦は繰り返さない、という痛烈な反省から生まれたし、1928年のパリ条約では戦争の非合法化まで決められ、戦争のルールが根本的に変わったのである。
しかし、日本国内では不戦条約の第一条に、戦争の放棄を「人民の名に於いて厳粛に宣言する」とある記述に対して、人民とは何だ、大日本帝国憲法の天皇大権(開戦権、条約締結権)に反すると、大騒ぎをしたという。
先にあるよに、日本は総力戦というものを理解していなかったのである。
総力戦とは、国の全ての力を注ぎ込む戦いだから、最後はGDPが大きい方が勝利する。
だから苦戦淑で一定の歯止めをかけないと、圧倒的な国力を持つアメリカに対抗することは難しいと分かるはずであった。
1921年にワシントン軍縮会議で、軍艦の保有制限が決められたが、日米のGDP比からすると、対米6割というのはむしろ破格の扱いだった。
もし軍縮条約を締結せずに、もとの構想通り八八艦隊(戦艦、巡洋艦、各8隻を中心とする艦隊)を編成した場合、その維持に国家予算の3分の1を必要とする計算になったという。