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2016年12月7日水曜日

金・銀が「貨幣」として世界的に認識されるようになったのは、近代になってからのことである。
それ以前は、必ずしも世界のどこでも貨幣として使用されていた訳では無い。
韓国では近代に入っても物々交換もしくは銅銭での商取引をしており、日清戦争の頃でも金銀の貨幣は使用されておらず、日本軍は現地での物資調達に苦労している。
戦国時代の日本でもまだ金銀は貨幣としては流通していなかった中、織田信長が金や銀を高額の貨幣として設定した。
永禄12(1569)年3月16日に、信長は京都、大阪、奈良の近畿地区で、追加に関して次の発令をしている。
・今後、米を通過として使ってはならない。
・糸、薬10斤以上、箪笥10棹以上、茶碗100個以上の高額取引には金銀を使うこと。
・中国からの輸入品などの取引にも金銀を使うこと。
・金銀がない場合は、良質の銅銭を使うこと。
・金10両に対して、銅銭は15貫目で交換すること。
・銀10両に対して、銅銭は2貫目で交換すること。
これは、日本の中央政権として初めて金、銀を通過として使用することを決めた法令(金銀通貨使用令)だった。
金と銀、銅銭の交換価値が明確に定められており、これも史上初めての試みだった。
金銀を高額通貨として流通させることで、銅銭の不足を解消し、安土桃山時代から日本の物流が急に活性化し商取引が活発となった。
またこの法令は、その後の日本の金融システムに大きな影響を与え、江戸時代には信長の通貨政策を手直しした金銀銅の三貨制が取られ、幕末まで続いた。
江戸時代の三貨制度は、欧米諸国の金融システムとは金銀の交換比率が若干違っただけで、基本的な仕組みは変わらなかったので、明治維新以降も欧米の金融システムにスムーズに適応することが可能だった。
室町時代から戦国時代にかけて、日本の試算の多くは寺社が所有していた。
例えば、永正5(1508)年、管領の細川高国は、日本中の「大金持ち団体」に対して、通貨に関する新しい命令「撰銭令」を出している。
撰銭令とは、欠けたり焼けたりした粗悪銭の取扱いについて定めた法で、この撰銭令を8つの団体に発布することで、全国の経済に影響をお及ぼそうとしたのである。
この戦国時代の「八大財閥」ともいえる団体は次の8つだった。
大山崎(自治都市)
細川高国
堺(自由都市)
山門使節
青蓮院
興福寺
比叡山三塔
大内義興
この八大財閥のうち、実に4つ(山門使節、青蓮院、興福寺、比叡山三塔)が寺社関連だった。
しかも、4つの寺社関連のうち、山門使節、青蓮院、比叡山三塔は比叡山関連である。
つまり比叡山は、日本の八大財閥のうち3つを占める日本最大の財閥だったのである。

2016年12月6日火曜日

戦国以前、日本有数の港だった兵庫湊には、北関と南関という2つの税関があり、そのうち北関の税関台帳が残っている。
この税関台帳によると、積み荷の1%が関税として徴収されていたという。
ちなみに、上杉謙信は、柏崎と直江港という2つの港から関税収入だけで、年間4万貫を得ていたという。
4万貫というと、だいたい30万石の大名の収入に匹敵する。
つまり、上杉謙信は、実際の領地に加え、30万石の副収入を持っていたのである。
ポルトガルとの貿易は、当時の戦国大名にとっては非常に魅力的なものだった。
当時の日本とポルトガル防疫の取引額は、1570年代から1630年までに290万~440万クルサドに達していたという。
20クルサドが一人の1年間の生活費とされていたので、「20クルサド=米2石」とすると、29万石から44万石の貿易額があっとことになる。
年貢率4割とすると、100万石の大名の1年分の年貢収入に匹敵するほどの額となった。
フランシスコ・ザビエルは、イエズス会に日本布教の許可を取り付け、ゴアで1年間を過ごし、日本へ行く準備をした。
その際に、ポルトガル国王から1000クルサド以上の援助を受けている。もちろんポルトガルの通貨は日本では通用しないので、その分の商品を積んでいった。
宣教師の記録によると、1年課んの生活費は20クルサドだったとされ、1000クルサドとは50人分の生活費が賄えたことになる。
ザビエルの日本滞在の2年間に、各地で布教し協会設立をしても、表に困ることがなかったのは、この援助のおかげであった。
天徳2(958)年の乾元大宝を最後に、朝廷は銭の鋳造をやめてしまった。
銅不足が原因とされている。
そして、10世紀末には銭の流通が非常に少なくなり、その後150年間に渡って貨幣は流通していなかったという。
なぜかと言うと、土地売買の記録から銭の使用の記載が消えており、米や布を貨幣の代わりに使っていたと思われる。
しかし、九安6(1150)年に、土地売買の記録に再び銭の記録が出てくることから、この頃に銭の流通が再開したと考えられる。
中国から「宋銭」が大量に輸入されたからである。
学問の神様として名高い大宰府天満宮は菅原道真の霊を慰めるために建てられた。
菅原道真は貴族としては名門の出ではないにもかかわらず、230年間でわずか65人しか合格しなかったいう最高国家試験「文章得業生」に合格し、讃岐守などの重要ポストに就き、当時の宇多天皇の信頼を得て、右大臣にまで上り詰めている。
しかし、その直後に無実の罪を着せられ、大宰権帥(大宰府の副指令長官)に左遷され、京都に戻ることなく大宰府で死んでしまう。
この菅原道真の失脚は、古代史の謎の一つとなっている。
実は菅原道真は「寛平、延喜の改革」と呼ばれる国制改革を実行しようとしたことで、有力貴族から反発を受け失脚したという。