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2015年2月2日月曜日

梶山 季之のルポ『彼らが成功する瞬間』(1963年発表)に、後に企業家として成功した経営者達が関東大震災の直後に、どのように行動したかが書かれている。
本田技研を創業した本田宗一郎は、震災の時は17歳で、アート商会という本郷の自動車修理工場に小僧として住み込みで働いていた。
震災後、彼はハンドルを握る嬉しさも手伝い、オンボロのサイドカーに板橋方面に避難する人を集めて料金を取り、その金で農家から米や野菜を買って都心に運ぶアルバイトを始めた。
そして10ヶ月後には芝浦の工場で焼け残った30台の車をスクラップ同様の値段で買い取り、更生車を作ることに乗り出した。
焼けてナマになった車でもバラバラに分解して、使えそうな部品を選んで組み立てると立派な自動車になる。
何と更生車のフォードが震災前の2倍の値段で売れたという。
味の素の創業者、鈴木三郎助は震災当時、伊香保で療養していた。
東京が大地震で壊滅したと知ると、すぐに汽車に乗って東京を目指した。
普通列車に乗り、高輪の自宅にたどり着いたのは東京が朱く燃え上がっている夜中だった。
川崎の工場も京橋の店も燃えて消えていた。
あるだけの現金を用意すると、彼はすぐに大阪へ社員を派遣し、鴻池組と交渉し、船を1隻チャーターさせ、材木、セメント等の資材と大工、左官を大阪で調達して、急きょ東京へ運ばせた。
この震災の時に、焼け残った原料の小麦粉を大量に放出したことによって、「味の素の原料はヘビの粉」というデマ説を一掃し、震災後の物価高の中、味の素という便利な調味料があることを市民に知らせれたのである。
他にも、帝国ホテルの犬丸徹三社長は、震災直後に厳重な防火体制をとって火災を防ぎ、日比谷周辺の主要な建物がほぼ消失した中で営業を継続し、建物の一部を新聞社、通信社、外国大使館に提供してブランドイメージを更に高めた。
講談社の創始者である野間清治は、「大正大震災大火災」と名付けた画報を10日間で編集し、校正を済ませて10月1日に出版した。
これが大当たりとなり、娯楽雑誌「キング」の創刊資金を作り、出版界の雄として基礎を築いた。
ホテルニューオータニの創立者である大谷米太郎は、震災直後に50銭て均一の廉価な食堂をつくり大繁盛させて、消失してしまった本業の鉄工所(のちの大谷重工業)の再建資金に充てた。
相場の神様的な存在となった山種証券の創業者の山崎種二は、震災時、深川の米問屋の番頭だった。
火の海になった近辺を見て、店が焼けることを予測し、蔵にあった米の一部を店の前の堀に係留していた傳馬船に乗せて当面の食糧を確保した。
そして、小切手、現金、帳簿を信頼できる船頭に預け、店員とともに月島へ逃げた。
結果、店は全焼したが、人的な被害はゼロで、速やかに営業を再開することができた。
その後、震災のショックで商売への意欲を失った主人から、暖簾を受け継いだ。
2008年9月15日のリーマンショックから、6年が経つのにヘッジファンドの情報開示は進まず、各ファンドがどのような金融商品を保有しているしか分からない。
更に、ヘッジファンドの資金量は、リーマンショック以前より大きくなっている。
2014年5月時点で、ヘッジファンドの運用資金は日本円に換算して210兆円あり、200兆円程度だったリーマンシヨック前の水準を上回っている。
仕手(して)、あるいは仕手筋(してすじ)とは、人為的に作った相場で短期間に大きな利益を得ることを目的に、公開市場(株式、商品先物、外国為替等)で大量に投機的売買を行う者のことをいうが、この仕手とは、能で主役を演じるシテ方が由来になっている。