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2014年12月11日木曜日

1992年施行の暴力団対策法で、指定暴力団を定め、不当贈与要求や用心棒要求などの暴力的要求行為を規制した結果、成果を挙げつつも法律の限界が見えてきており、暴力団のマフィア化現象が起きてしまった。
平成19年版『警察白書』によると、全国の暴力団組員は準構成員を含め8万5000人で、過去10年間殆ど減っていない。
半分が山口組系で、次の住吉会、稲川会と合わせると全体の7割を占め、寡頭体制となっている。
暴力団対策法は、暴力団の存在を否定するものではなく、存在を認め、その上で用心棒や地上げ、交通事故示談交渉への介入などの経済行為に対して、中止命令を出す法律である。
しかし、この法律では殺傷事件などで実行犯が逮捕されても、上層幹部の使用者責任が追求されることは無い。
欧米・韓国・台湾・中国には、暴力団禁止法があり、組織犯罪集団を作ったり参加を呼びかけたり、組員になったりすること自体が犯罪になると法律で定められている。
伝統的な国体のありようは、14世紀の北畠親房の著作『神皇正統記』に既に書かれている。
日本歴史上、天皇制が崩壊し、皇祖皇宗の伝統が途切れてしまう危険が2度あった。
1回目は南北朝時代で、2回目は第二次大戦の敗戦時だった。
『神皇正統記』は、戦前の陸軍中野学校でテキストとして使用された書物だが、日本という国家の原理を、当時の世界、インド(天竺)や中国(震旦)と比較することによって明らかにしている。
北畠親房は、日本は天皇をいただく神の国であり、内在性の中に超越性があるから、自己の原理を他者に押しつけない、宗教や文化について多元主義、寛容の精神を持っていると説いている。
北畠は敵対する権力者の足利尊氏のことを「法もなく徳もなき盗人」と堂々と本の中に書いているのに、尊氏は『神皇正統記』を焚書にしなかった。
殺し合いをしている相手側が書いた書物であっても尊重すべきは尊重すべしと、尊氏側にも寛容の精神があったのである。
日露戦争開戦時、元老の伊藤博文はすぐに知米派の金子堅太郎(日本法律学校初代校長)をアメリカ、つまり第三国に派遣して、終戦時の調停工作に当たらせ、それがその後のポーツマス条約につながる。
明治の政治家は戦争に当たって、まず先に終戦を考えたのである。
東京裁判では、政治家と軍政の軍人中心に裁かれ、軍令の軍人は殆ど裁かれなかった。
軍令を裁くと天皇まで行き着くからである。
アメリカは占領統治の困難さを考え、天皇を戦犯にしたくなかったのである。
軍令とは、大日本帝国憲法体制下にあった法形式の一つで、内閣や議会を通さず、天皇が陸軍と海軍を統帥するため制定された。
憲法に定めはないが、1907年に軍令第1号によって導入され、立法において軍部の統帥権独立を表すものとして1945年まで存続した。