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2016年9月23日金曜日

関東軍総司令部と極東ソ連軍総司令部との直接交渉の会見は、ソ満国境近くの興凱湖の南にある小さな村、ジャリコーヴォにつくられた丸太小屋の中で行われた。
日本側の出席者は、秦彦三関東軍総参謀長、瀬島龍三参謀、通訳としてハルビン総領事の宮川舩夫。
ソ連側はワシレフスキー総司令官、メレツコフ第一極東方面軍司令官、ノヴィコフ極東空軍司令官、コマシェフ太平洋艦隊司令官、その他幕僚数名だった。
ここには国際法の専門家が存在しなかった。
日清・日露戦争、第一次世界大戦と、それまでの日本の戦争では、すべて国際法学者がついて行って、戦争終結に関する交渉をしている。
旅順攻囲戦の時にも、ロシアのスデッセル将軍から届いた文書が間違いなく降伏文書がどうか、国際法の学者が読んでいる。
ところが、太平洋戦争では、関東軍総司令にも、南方軍総司令にも、どこにも国際法学者は存在しなかった。
外交文書では、双方の代表団が顔を合わせると同時に、全権委任状を示して、お互いにそれが友好であるかを確認して、協議に気入る。このようにして、国際法的な拘束力があることを確認する。
ジャリコーヴォの会見では、日本側に全権を委任されたという証拠になるものは無く、軍人同士の交渉でしかなかった。
つまり、暫定的に戦闘を止めるという停戦協定でしかなく、降伏ではないので、武装解除もしないので、また戦闘が始まる場合もあった。
これを恒久的なものにするには、お互いの政府を代表する人間が交渉して文書にする必要があった。
ちなみに、この会見で瀬島龍三が満州に残った日本兵を労働力として使ってもよいとソ連に申し出たという疑惑も、背軸が日本側の代表ではなかったことから、否定されるのである。
終戦時の日本が錯覚したのは、降伏後に直ぐにマッカーサーが最高指揮権を持つと信じ込んでいた事である。
正式にマッカーサーが連合軍最高司令官になるのは、日本が降伏文書に調印した9月2日になってからだった。
当時の外務省も、後からスターリンもポツダム宣言に署名したのだから、マッカーサーにはソ連側をも拘束する権限があると誤解していたようである。
8月21日頃、満州で攻撃を続けてくるソ連軍に対して、すでに天皇の大命が発せられたのだから即時攻撃停止をソ連軍に要請してほしいと、外務省はマッカーサーに必死の訴えの電報を打っている。
関東軍総司令官の山田乙三は、満州国大使も兼任しており、極東ソ連軍総司令部に、16日に戦闘行動停止を申し入れている。
関東軍の通信網はソ連の猛攻でずたずたになっていたので、新京のラジオ放送を通じて呼びかけたという説もあるくらいだった。
そのせいか、ソ連側からの回答がきたのが17日夜だった。
結局、関東軍総司令部が極東ソ連軍との直接交渉を持てたのは、それから2日後の8月19日午後3時半になってからだった。