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2016年9月18日日曜日

陸軍中央はノモンハン戦闘後の1940年に「ノモンハン事件研究委員会」を設置して研究しているが、この失敗に学んだとは思えない代物だったという。
ソ連はこのノモンハン戦闘を検証し、その後の対日戦に備えて、モンゴルの広大な草原に要塞を作っていたことが2009年から始まった調査で明らかになった。
2015年6月11日付の朝日新聞夕刊に、長大な対戦車壕跡の空撮が出ている。
ノモンハンの戦いの後、日本が攻めてくることを本気でソ連は怖れて、壕を掘り、基地を建設し、軍用鉄道を敷いたのが分かった。
鉄道はシベリア横断鉄道のソ連領の東端ボルジャ駅から南下してチョイバルサンに向かい、そこからさらに東に進んで満州国との国境手前まで400キロ以上に渡って結ばれていた。
ノモンハンの戦いの最中、鉄道はポルジャまでしか通っておらず、ソ連軍は日本の3倍以上の兵力、武器、物資をトラックで戦場まで730キロを輸送している。
この調査で1942年6月6日付で、スターリンからモンゴル当局宛てに「チョイバルサンから国境までの鉄道建設の調査を年内に追えよ」という指示があったことが、モンゴル防衛研究所の資料から分かった。
つまり、この軍用鉄道の建設は1942年以降ということになる。
関東軍参謀で作戦主任の服部卓四郎と、同じく作戦参謀の辻政信は、陸軍大学で服部が辻の一期先輩にあたるが、二人とも恩賜の軍刀組と呼ばれる成績優秀者で稀にみる秀才だったという。
服部と辻二人が、ノモンハン事件を主導して日本を太平洋戦争へと駆り立てたのに呼応して、ノモンハンでの戦闘が第二次世界大戦の始まりだったとする『ノモンハン1939』という本がある。
原著は2012年にアメリカでで出版され、著者は米国議会図書館議会調査局の専門調査員の経験があり、ロシアの資料保管所を当り、さらにモンゴルでの現地取材や日本語文献にも目を通して書いたという。
この本で特に注目されているのは、ノモンハンでの戦いと独ソ不可侵条約の関係で、ジューコフ軍司令官が200機を超える爆撃機でハルハ河越えの大攻勢をかけたのが8月20日で、その日から24日にかけてノモンハンの戦いがピークに達している。
それと同じ頃に、独ソ不可侵条約が8月23日に調印されている。
これで英仏とソ連の二正面作戦を回避することに成功したヒトラーは、その一週間後、ポーランドに侵攻を開始し、第二次世界大戦が始まるのである。
9月17日にはソ連軍もポーランドとの国境を越える。
独ソ不可侵条約の秘密合意事項として、ソ連もポーランドに侵攻かると約束していたからである。
ノモンハンでの停戦合意が日本と試練との間で成立したのが9月15日だから、スターリンは後顧の憂いを断って、ヒトラーとの約束を果たしたことになる。
スターリンとしても、目の前にはヒトラーが迫り、東方では日本の関東軍がちょっかいを出していて、しかもその日独が軍事同盟を結ぼうとしているという状況にあって、何としても二正面作戦を避け、ノモンハンでの戦いに早くケリをつけたかったのである。

ノモンハン 1939――第二次世界大戦の知られざる始点

『満ソ国境紛争処理要綱』が1939年に関東軍の正式な命令として各部隊に示達された。
東京の参謀本部の「侵されても侵さない」という国境警備の方針に反して、『満ソ国境紛争処理要綱』では、国境を越えて来た敵を殲滅するために、こちらも国境外へ兵を進めてよい、さらには国境が明確でない地域では防衛司令官が自主的に国境線を認定したほうが紛争防止に役立つという、明らかに挑発ととれるこの要綱を書いたのは、関東軍の作戦参謀・辻政信だった。
辻は終戦をタイのバンコクで迎え、戦犯指定から逃れるため、僧侶になりすまし中国やベトナムに潜伏する。
1950年になって戦犯にならずに済むことが分かると、逃亡時代を振り返って『潜行三千里』を出版し、これが爆発的に売れた。
自己弁護に徹した本ではあるが、痛快な冒険ストーリーで面白いことは面白い。
それで選挙に出馬して、衆議院議員に当選してしまう。
辻の最期は謎に包まれており、参議院議員に鞍替えして在任中の1961年にラオスで行方不明になっている。
反米的な態度でアジア政治に階級の恐れがあるとCIAが暗殺したという説から、中国共産党による拉致説まで、様々な憶測がされた。
辻の信奉者だった朝枝中佐によると、辻は中国潜伏中に蒋介石に匿われて重慶にいたという。
その時の体験談は『潜行三千里』にも書かれているが、その時期に黄金の三角地帯と呼ばれるタイ・ラオス・ミャンマーが国境を接する山岳地帯でアヘンを仕入れて、かなりの量を隠匿していたという。
謎の失踪を遂げた年に、辻はそれを取りに行き、回収して中国で売り、日本での選挙資金にするつもりだったようである。
ところが預けていた相手が代替わりしていたため、トラブルに巻き込まれたというが、真偽のほどは分からない。

潜行三千里 新書版

昭和の歴史を考えるとき、ノモンハン事件というのは、決定的な事件だった。
試練崩壊後、外交文書や共産党の文書が公開され、ベールに包まれていた歴史が、徐々に明らかになってきている。
この戦闘の死傷者数は、これまではソ連側の1万人に対して、日本側は1万8千から1万9千という数字が一般的だったが、2000年頃に出て来た数字によるとソ連側は2万5千人と日本より多い死傷者だった事が分かった。
日本ではノモンハン「事件」という呼称が一般的だが、1939年にモンゴルと満州国の国境紛争を発端に起きたこの争いは、事実上、それぞれを支配下に置くソ連と日本とが、真正面からぶつかった「戦争」だった。
ノモンハン事件は、日本軍にとって、まさに日露戦争以来の大戦争であり、日本軍はこの戦いで初めて近代戦を経験した。
戦車戦でも航空戦でもソ連の近代兵器を前に、手も足も出なかった。日露戦争以来34年間も日本陸軍は近代戦を戦ったことのない軍隊だった。
モスクワのフランス大使館の前に、汚い扉がついて倉庫のような建物があるという。
モスクワ健康センターという名称だが、実際にはブレジネフ時代から続いている長寿研究所であり、いかに政治指導部を長生きさせるかを研究しているという。
彼ら医師は全て軍医である。
毎年新型インフルエンザが流行ると、それが自然変異の範囲内で起きたのか、人為的につくられたウイルスなのかをまず確認するという。
インフルエンザひとつをとっても、彼らは生物兵器である可能性を常に頭にいれて対応している。
731部隊の情報のうち、アメリカに流れたものは、朝鮮戦争で使われたといわれている。
ソ連崩壊後に、埋もれていた資料の公開が始まっており、これから新しい「歴史戦」が始まる可能性がある。
昭和史の「逆襲」を受けないためにも、我々国民ひとり一人が、自国の歴史に向き合うことが求められている。
1948年に起きた帝銀事件にも、731部隊の影がちらつくという。
帝銀事件とは、東京都豊島区の帝国銀行椎名町支店に、都の衛星課員を装った男が現れ、赤痢の消毒の前に予防薬を飲んでもらうと言って、光陰に青酸カリ用カキを飲ませ、死者12名を出した事件である。
松本清張は、犯人は石井部隊の生き残りであったと推理小説『小説帝銀事件』を書いた後、小説では誰も信じないからとノンフィクションで書き改めた『日本の黒い霧』に、
帝銀事件に使用された毒物は、検事側が云うような単純な青酸カリではなかった。
それは旧陸軍関係者が製造していた毒物と思われる可能性が高い。そして、それは旧日本軍の研究していた秘密兵器であり、その業績は当時のGHQが九研関係者、731部隊帰還者の留用によって秘密裡に研究されていたことに、我々の考えは突き当たる。
と書いている。
九研とは、陸軍の秘密兵器を開発研究する第九陸軍技術研究所で、通称「登戸研究所」と呼ばれていた。
犯人とされた平沢貞通は冤罪だったが、真犯人はついに特定できなかった。

日本の黒い霧

風船爆弾は、1944年11月から翌1945年4月にかけて、約9000個が放球され、そのうち1割が北米大陸に到着したいとう。
ボヤ程度の森林火災が2件、ワシントン州ハンフォードにあった原子爆弾製造工場の電線に落ち、電流が一時的に中断したという記録がある。
全工場の原子炉の安全装置の引き金が引かれて、全能力回復まで3日を要したと言われている。
もちろん、アメリカの資料では、すぐさま復旧したとなっている。
風船爆弾は千葉の一宮や茨城の大津から放球しているが、北海道の根室から飛ばしていれば、もっと多く北米大陸に届いていたはずだが、失敗してカムチャッカ半島に落ちる可能性があり、ソ連参戦の口実を与えてしまう恐れを避けるため、太平洋側から放球したと思われる。
風船爆弾はもともと、対ソ戦に備えて、宣伝ビラを撒くために開発されたものだった。
実際に風船に最近爆弾を載せる計画を準備していた証拠として、風船爆弾研究の協力者として、陸軍気象部や中央気象台の技師たちと並んで、内藤良一中佐が加わっていた事が分かっている。
内藤良一は、軍医学校防疫研究室の責任者で、この内藤の富号作戦部隊における任務は、「経度信管」の研究だという。
信管であれば、爆弾の信管が破裂するかどうかという問題だから第八技術研究所の担当であり、陸軍医学校の人間が担当するのは筋違いであった。
この内藤良一というのは、731部隊長の石井四郎の直属の部下位゛、戦後にミドリ十字の社長となる人物であった。
つまり、風船爆弾に最近兵器を載せるための準備を、この内藤中佐が研究担当としてやっていた可能性は高いと思われる。
もしも風船爆弾をアメリカに飛ばして細菌高下はを行っていれば、アメリカ軍は、硫黄島と沖縄で毒ガスを使用した可能性は高く、日本人は滅亡させられていたかもしれない。
1944年9月26日に、風船爆弾によるアメリカ本土攻撃を任務とする気球部隊を編制している。
風船爆弾による攻撃を富(ふ)号作戦と呼び、部隊は参謀総長の直属だった。
そして、11月3日の明治節の早朝を持って攻撃を開始するという作成計画が決定されたが、それに普通の爆弾を搭載するのか細菌爆弾を搭載するのかは決まっていなかった。
1944年10月25日の『昭和天皇実録』には、風船攻撃を天皇を裁可したことは書かれているが、風船爆弾に細菌爆弾を載せたかどうかは、書かれていない。
しかし、侍従武官を通して陸軍中央部に、天皇にして大元帥のお言葉として「殺戮用最近は使用してはならない。国際的信義は大切にしたい」と伝えられたという。
つまり、戦後に鬼畜にも劣るとの汚名を、日本人は子々孫々まで残す可能性があった計画を思いとどまらせた天皇のもう一つの聖断だったということである。
多摩霊園の第五区一種18側に、精魂塔というものがある。
名前も何も刻まれていない塔だが、戦後になって731部隊の生き残りが建てた慰霊塔である。
ハバロフロスク裁判で、柄澤少佐は刑が決まり(矯正労働20年)、1956年に日ソ共同宣言で恩赦となってにも関わらず、自死してしまう。
一方、矯正労働25年の刑を受けた川島少将は生き残って日本へ戻ってきている。
ここで行われる慰霊祭に、日本に帰ってきた川島少将は時々参加していたという。
731部隊の他のメンバーに、ハバロフスク裁判でソ連に秘密をしゃべったと攻められた際に、「俺は悪い事はしていない。天の命令によってやったとは言っていないんだから」と言い返していたという。
確かに『ハバロフスク公判書類』を読む限り、天皇が作戦を認可してことには触れられていない。
人生は長いが、親子で過ごせる時間は本当はすごく短い。
後から思うと親と子供が一緒にいられるのは、人生のほんのひと時なのである。
人生の大切な時間だった事を、子供が大人になってから気づくのである。
驚くべきことに、1950年に出版された『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件に関スル公判書類』についての論文が、2009年になって発表されている。
掲載さけたのは、「国際法・国際関係雑誌」というベラルーシ外務省に近い所から出ているクオリティの高い学術雑誌である。
ベラルーシはロシアの事実上の同盟国であり、この2009年の論文は天皇の戦犯追加を想起させる内容となっている。
しかも奇妙なことに、この論文の著者がベラルーシにあるヴィテブスク大学の歴史学科上級講師が書いており、論文を審査したのはベラルーシ国立大学になっている。
旧ソ連諸国の特徴として、得体のしれない誰かが研究している時には、大体が秘密警察がやっていると考えてよく、ベラルーシに731部隊関連の文献がある訳ではなく、組織的な背景がなければこうした論文は書けない。
それがクオリティの高い学術雑誌に載るということは、何かに使うための材料だと考えられる。
つまり、731部隊の問題が、現在のロシアの引き出しに入っているということで、日露関係に何か問題が生じた場合、「細菌兵器に関する日本の責任はこういう学術論文で明らかになっている」と、ロシアの新聞やテレビで報じる事ができ、いつでも反日プロパガンダを展開できるのである。
731部隊の問題は終わっておらず、南京事件は戦争の問題だが、731部隊は人体実験に関する問題だから、ヨーロッパ人が生理的な嫌悪感を抱き、ナチスと一緒にされてしまう時限爆弾のような危険性を抱えている。
731部隊の関東軍における担当参謀は、昭和天皇の従兄弟にあたる武田宮恒徳(つねよし)王だった。
竹田宮とは言わずに「宮田参謀」と偽名を使っていたので、一般には皇族だとは知られていない。
ソ連としては、「宮田参謀」を捕まえて731部隊について追及したかったはずだが、日本陸軍側も万が一そんな事態になっては大変だということで、1945年7月初めに人事異動で「宮田参謀」を東京へ呼び戻し、代わりに大本営参謀だった瀬島隆三中佐を配置した。
もし「宮田参謀」が、8月まで満州に残ってソ連軍に捕らえられていたら、とんでもない騒ぎになっていた。
ソ連は1950年の時点で、ハバロフスク裁判をベースに、外交口上書を作成し、アメリカやイギリスに配っている。
そのことは1950年2月3日のソ連共産党機関紙の「プラウダ」に掲載されており、さらにこの裁判の結果明らかになった戦犯の筆頭として、「裕仁」の名が挙がっている。
バクテリア戦、細菌戦に備えた第731部隊ならびにその支部を満州に創設することについての秘密指令を出したとして、戦犯第一号と書かれている。
二番目が石井四郎、三番目が北野政次(元731部隊長)、四番目は若松有次郎(終戦時の関東軍軍馬防疫廠長)、この4名が国際戦犯だとしてソ連が口上書を出している。
東京裁判は1948年11月に判決言い渡しが終わっているので、ソ連は天皇を含めた4人へ、追加で旋盤に指名するというものだった。
アメリカ側が情報を握って石井四郎を囲っていたから、ソ連はこういう手段に訴えたのである。
731部隊に関しては、終戦後もよく実態がつかめていなかった。
理由は、ソ連が満州に侵攻してきた時に、真っ先に証拠を完全に隠滅して逃げたのが、この731部隊だったからである。
大本営からの命令で、ハルビン郊外の平房にあった研究施設を徹底的に爆破し、書類などの証拠を全て焼却した。
その命令を伝えた朝枝繁春・大本営参謀(陸軍中佐)は、1945年8月9日にソ連軍が侵攻してきたとき、大本営作戦部の特命を帯びて、満州の長春に飛び、7312部隊を主導していた石井四郎(陸軍軍医中将)を読んで、天皇が関与している証拠を残さないため、どこをどう爆破すればいいかを詳細に教えたと、インタビューに答えている。
朝枝中佐は、「俺が戦後の天皇を救った」とまで豪語していたという。
石井四郎も人体実験に関与していた者にかん口令をしき、日本に帰ってきた彼らは戦犯で起訴されることは無かった。
731部隊の秘密を握る人間が、GHQに協力したからだとされている。
東京裁判で731部隊関係者を戦犯に指名しない代わりに、彼らから情報を引き出したことは、アメリカ側の記録が開示されて明らかになっている。
この点について詳しい経緯は、『731』に書かれている。

731―石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く (新潮文庫)

終戦後の1949年に、ソ連のハバロフスクで731部隊を追及する裁判が行われた。
この公判の記録が『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件に関スル公判書類』という本である。
いわゆるハバロフスク裁判で、1945年8月9日のソ連の満州侵攻によって、逃げ遅れて捕虜となった日本の軍人のうち、関東軍司令官の山田乙三や731部隊で細菌製造部長だった川島清、同班長だった柄澤十三夫ら12人がソ連の秘密裁判にかけられ、有罪となっている。
この本は1950年にモスクワの外国語出版所から発行されている。
この出版社は現在、プログレス出版所という名前に代わっているが、ここから出ている本には、英語版や中国語版はあるのにロシア語版だけがない本が多くある。
つまり、対外的な宣伝用の本を出す出版社ということである。
この本にはロシア語版はあるが、おそらく少部数で、むしろ大量に刷ったのは日本語版だったと言われている。
つまり日本人に読ませるために、わざわざ作ったという事になる。
これを読んだ日本人は、戦争中に日本軍がいかに非人道的な行為をしていたかを知ることになる。
ソ連は、公判記録という資料集を日本語で出すことによって、日本でどういう波紋が引き起こされるかを予測していたと思われる。
しかし実際には、この本が出ても日本では関心を呼ばなかった。
のちに森村誠一の『悪魔の飽食』(初版1981年)が出るまで、日本人は731部隊のことをあまり知らなかった。
細菌戦に使う生物兵器を研究開発していた関東軍の731部隊は、正式名称を「関東軍防疫水部本部」といい、別名、加茂部隊、石井部隊とも呼ばれ、満州を活動拠点にしていた。
その731部隊に関する記録が2014年4月になって、中国吉林省の人民出版社から出た。もともと2001年に『「七三一部隊」罪行鉄証』として出していたものの復刻版という。
吉林省の公文書館には、いわゆる「南京大虐殺」に関するものなど、旧日本軍に関する資料が多く残っていて、731部隊に関する資料もその一部だということである。
この新しく出た731部隊の本は、関東軍の憲兵隊の記録だという。
731部隊は開発したペスト菌やこれら金の効果を試すのに、主にスパイ容疑で捕まえたソ連や中国、朝鮮の人々を人体実験に使っていた。
彼らを捕らえてハルビンに集め、そこからハルビン郊外の731部隊の研究所まで移送したのが関東軍の憲兵隊だった。
憲兵隊は被験者を「マルタ(丸太)」という隠語で呼び、国籍、原籍、出生地、本名、工作名などの記録を付けていた。
そして、ハルビンから731部隊に送ることを「特別移送」、略して「特移送」と呼んでいた。
吉林省人民出版社から出されたのは、この「特移送」の記録に基づくものだという。
最初の出版から10年以上も経って、なぜ2014年に再びこの記録を公にしたのか、中国に何か秘められた意図があると思われる。
元号とは「年につける称号」のことである。
わが国では元号について法制化がされており、この法律は本文二項しかない短いものであるが、高くにはない日本の特徴が端的に示されている。
法律第四十三号
元号法
1 元号は、政令で定める。
2 元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。
附則
1 この法律は、公布の日から施行する。
2 昭和の元号は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする。
昭和は意味の上では二つに分かれる。
昭和の前半は、あの戦争に敗北するまでで、大日本帝国という名称の帝国だった。
あの戦争に敗北した日本国は、建前の上では、自由、民主主義、市場経済や人権など先進国との基本的価値観を共有する新しい国ななった。
しかし、現行の日本国憲法が大日本帝国憲法の改正手続きによって、成立していること象徴的なように、あの戦争の前と後の日本には、明らかな連続性が存在する。
物量や情報力などでは、国家の方が圧倒的に有利なのに「イスラム国」のような集団は、命を武器にできるという点で強い。
こういう「非対称の戦争」が現在始まっている。
その意味で、天皇のために死ぬことさえ厭わなかった大日本帝国の戦争は、時代を先取りしていたと言えなくもない。
「イスラム国」においては、日本の玉砕戦とか特攻が、標準的な戦い方なのである。
玉砕や特攻といった当時を支配していた「精神力」による戦争は、現代の我々も直面している問題として、検証し直さなくてはならない。
政治家が、ほんの短い失言映像から失脚した時は、いずれも「プロの映像」が基にはなってるが、それをネットに再掲載して、あっという間に世の中全体に広げるのは無名の市井の人々である。
一度ネットに流出してしまった「不都合な」写真や映像は、例えサイト運営業者に依頼して一時的に消せたとしても、「消した」という行為が興味を引いて、またすぐに別の誰かが映像を投稿し、無限に繰り返され、消す事は不可能となる。
ある政治家の問題になりそうな言動や行動を映した写真や動画は、その政治家を快く思っていない人々や敵対する勢力によってコレクションされている。
政治家にとって、もはやプライバシーの余地はなく、これまで分析の対象でしかなかったネットの書き込みや映像が、政治の正念場である「選挙の武器」にもなるのが、ネット選挙時代なのである。
いきなり、自分だけ或は少数の人だけが知っている情報を振りかざして、人々に是非を問いかけても、言いたい事は伝わらない。
人々は報道を見て、同僚や家族と話しをして、新聞やネットの開設やコラムを読んで、はじめて自分の中に情報を収めることができ、「良い、悪い」など情報の評価についてもイメージが固まる。
この段階で初めて、訴えかけが有効に働く。
つまり、それを支持するか支持しないかは別として、世論は「前提となる事実を知っているから、支持するか批判するかに動く」のである。
だから、世論を動かすためには、腰を据えて情報評価をすることに意味がでてくる。
世論調査の政党支持率は、自民党についても民主党についても、常に上振れがちなのは「日経」「テレビ朝日」「日本テレビ」の3社調査で、逆に常に下に振れがちなのは「時事通信」「毎日新聞」の2社の調査結果という。
よって、テレビならばNHK、通信社は共同通信、新聞は読売新聞の各社が、最も平均に近いため、その3社ほひとつの平気な的世論調査結果として、注視していけばよい。
ネットの良いところは、リアルタイムを見逃しても、いつでも視聴が可能な点である。
ネットではとにかく蓄積効果が大事で、結果的に積み上った再生回数が、他のメディアを圧倒する結果を生むこともある。
朝の4時台から8時台の各局の報道を見れば、その日のキーワードがつかめる。つまり「世論は朝つくられる」のである。
基本的に午前中までのニュースは、その日の前日に起こった出来事を報じる。
突発的な大事件を除いて、当日のニュースが流れ始めるのは16時以後の夕方のニュース枠だが、夕方のニュースはテーマを絞ったり時間をかけて取材したりした特集的な内容に重点が置かれる。
本当の意味で当日のニュースがしっかり入ってくるのはNHKの19時の「ニュース7」からで、次いでNHKの21時の「ニュースウォッチ9」が入り、22台の「報道ステーション」から民放にスイッチする。
23時台のTBSの「NEWS23」や日テレの「NEWS ZERO」などへ続き一日の報道が終わる。
夜のニュース番組は、最新ネタを入れつつも、まとまりきってはいない。
日本の民放テレビ局は新聞社の系列にあり、各新聞社は報道協定によって午前1時半が一応原則の最終締め切りとして横並びになっているからである。
つまり、朝4時台からの報道に、じつは前日の全ては収斂するのである。
愛はプライスレスと言われるが、間接的な方法で愛の値段を算定した結果がある。
2010年にアクサ生命が働くアラサー・アラフォーの独身女性(25~44歳)600人を対象に実施した調査である。
この調査で、結婚相手の男性に求める年収について、理想年収は552万2千円だった。この年収は男性ビジネスマンの平均収入533万円とほぼ一致している。
次に、「心から哀切相手が現れたとします。その男性の年収が、理想の年収から最低いくらまで減っても結婚することができますか」と尋ねた時の年収は平均で270万5千円という結果だった。
つまり、理想の年収と愛するなら許せる年収の差額となる281万7000円が、女性が評価した1年間の「愛の値段」と解釈できる。
この調査では、アラサー(25~34歳)とアラフォー(35~44歳)に分けた愛の値段も算定しており、アラサー女性の愛の値段は252万2千円、アラフォー女性の愛の値段は311万3千円と、アラフォー女性の方が高くなっている。
さらに、調査対象の女性に、結婚で「莫大な資産」と「理想的な結婚」のどちらか一方が手に入るならどちらを望むかを尋ねたところ、「莫大な資産」(33.5%)より「理想的な結婚」(66.5%)を望んでいることが分かった。
今後、先進国では男性人口の高齢化が進展していく。
国際連合の将来人口推計(2015年)によって、先進国の男性人口全体に占める65歳以上人口の比率をみると、1980年は8.7%だったのが、2020年には15.7%、2050年には23.6%、20100年には27.9%にも達する。
あと85年後には、先進国の男性の10人に3人は高齢者になってしまう。
日本では、子供夫婦が親と同居する一番大きな理由は、親の財産に目をつけているからで、愛情ではないということが、大阪大学のチャールズ・ユウジ・ホリオカ氏の論文(2008年9月)で明らかになっている。
同論文のアンケート調査の結果によると、妻の親から遺産をもらえると思っている夫の22.48%は妻の親と同居しているか、将来同居する予定であるが、妻の親から遺産が貰えないと思っている場合は同居もしくは同居の予定の割合が、だったの8.03%に過ぎなかった。(回答者数は約2000人)
同様に、夫の親から遺産を貰えると思っている妻の46.17%は夫の親と同居しているか、将来同居する予定であるが、夫の親から遺産が貰えないと思っている場合は同居もしくは同居の予定の割合が19.79%に過ぎなかった。(回答者数は約2000人)
もちろん、なんの見返りがなくても親の老後の面倒を見る子供夫婦はいるが、その割合は小さいということである。
現在、日本国内のED治療薬の市場規模は100億円程度と推定される。
ED治療薬には、使用年齢の上限は設定されておらず、20歳以上であれば、何歳であろうと服用可能である。
ED治療薬については、大量のニセモノが出回っており、偽バイアグラの主な供給基地は、中国・インド・北朝鮮となっている。
ED治療薬は、本来は医師の処方箋がないと入手できないが、個人使用目的で1ヶ月間使用する量であれば、例外的に個人輸入が認められており、この制度を悪用してコドン輸入代行業を装い、二セモノを輸入販売している。
世界保健機関(WTO)によると、ED治療薬を中心としたニセモノ薬品の貿易取引額は、最大で3兆1500億円に上ると推計している。
「老いらくの恋」という言葉は、歌人の川田順の長詩の一節、「墓場に近き老いらくの、恋は怖るる何もなし」に由来する。
妻を亡くしていた川田順は63歳の時に、京都大学経済学部教授・中川与之助夫人で、歌人の鈴鹿俊子(36歳)と出会って情熱的な恋愛を経験する。
川田の自殺未遂など紆余曲折を経て、最後に二人は結婚するが、この時り恋愛経験を詠んだ一連の短歌の中の一つが「墓場に近き老いらくの」だった。
川田が「老いらくの恋」を経験した1940年代は老人の恋愛は極めて例外的なものだったので、この恋愛騒動は「老いらくの恋事件」とし呼ばれて、世間を大いににぎわせた。
最近、全国の繁華街で「ぼったくり」の被害に遭う人が増加傾向にある。
国民生活センターのデータベースで「外食における価格・料金」についての相談件数をみると、年々増加傾向にあることが分かる。
2009年度は616件だったが、2014年度には1241件まで増加している。
犯罪の暗数調査(被害の申告率)や1件たいりの被害金額を基に2014年度の年間被害金額を推計すると全国で10億円に上ったとみられる。
東京都は2000年に全国初の「ぼったくり防止条例」を制定し、北海道や大阪、福岡などの一部で同様の条例を施行しているが、飲食店の競争激化に伴い、最近になってぼったくりの被害が増えているという。
また、ぼったくり防止条例は、店が客引きを利用することを禁じているものの、最近の客引きは、店との雇用関係がない専門業者が多く、約引きに店との関係を否認されると、責任の所在が不明確となり指導ができなくなるという。
2013年9月に新宿区が客引き防止条例を施行したが、この条例では客引き行為に対する罰則規定がないため、ぼったくり専門の客引きを防止する高価は弱いというのが実情である。
相模ゴム工業が2013年1月に実施した大規模調査によると、30代男性の同低率は9.5%、40代は3.7%、50代は1.5%、60代は0.5%となっている。
総務省『国政調査報告』をもとに、これを人数に換算してみると、30代の童貞男性は34.8万人、40代は7.8万人、50代は1.9万人、60代は0.4万人と、日本には童貞の男性が45万人いると想定できる。
不倫の実態については、女性週刊誌などが頻繁にアンケート調査の結果を発表しているが、どれもサンプル数が少ない。
しかし、相模ゴム工業の調査は全国1万4100人を対象に、1都道府県300名、性・年代別に均等割付でサンプルを抽出しており、統計データの精度は高い。
2013年1月に相模ゴム工業が実施した調査によると、現在進行形で浮気や不倫をしている40代の既婚男性は全体の26%、50代は28.9%、60代は23.8%となっている。
この浮気・不倫率と総務省『国政調査報告』(2010年)の年齢別人口から、不倫している既婚男性の実数を換算すると、40代が147.5万人、50代が175.5万人、60代が170万人となり、不倫している中高年男性は日本全体で493万人と推定できる。
胸が大きい女性は、浪費する傾向が強いという。
中国のアリババが、ビックデータを使って、女性客の購入したブラジャーのサイズと消費金額との関係を分析した結果によると、
オンラインショッビングで「高額消費」をしている人の割合はBカップの女性が7%に留まるのに対して、Cカップの女性は17%、Dカップの女性は24%、Eカップの女性は33%に達したという。
不倫は景気とも密接な関係があると言われており、一般的な傾向として、不景気になると不倫をする男女が増加しやすい。
英国の既婚者向け出会い系サイト「IllicitEncounters.com」が2009年12月に明らかにした情報によると、2008年9月のリーマン・ショックをきっかけに英国の金融関係者が不倫に走るケースが増え、同サイトの会員数38万人のうち2万人が金融関係者になっていると明らかにした。

同サイトによると、金融関係者の不倫が増えた理由として、金融関係者が公私ともに強いストレスを受けていることを挙げている。
ストレスが溜まり、精神的な癒しを求めて不倫に走ってしまうと分析している。
同サイトが金融関係で働く男女600人以上に不倫に走る理由を聞いたところ、1番の理由は「愛されていると感じるため」だった。
総合探偵社のMRが2014年6月に『不倫が終わるとき』というレポートを発表しており、その結果から不倫の継続期間は短い事が分かった。
不倫経験がある既婚男女100名を対象にアンケート調査を実施したところ、「不倫関係が何年続いたか」という質問に対して、殆どが゛2年以内」と回答している。
中でも「1年以内」という人が全体の半数以上を占めていた。
また「不倫関係が終わるきっかけや出来事があったかどうか」の質問には、「あった」「なかった」ともに50%ずつという回答だった。
「あった」と答えた人の具体的なきっかけは、「妻夫にバレた」「妻に子供ができた」「転勤・転居」などの外的要因が多かった。
一方。「なかった」と答えた人に多かったのは「自責」「罪悪感」「冷めた」などメンタル面での理由だった。
フジテレビ系列で2014年7月から9月にかけて放送され、平均視聴率13.9%という高視聴率を獲得したドラマ『昼顔~平日午後3時の恋人たち~』は、上戸彩が不倫落ちる平凡な主婦を演じて波紋を呼んだ。
そして、この番組のアンケート調査の結果も衝撃的だった。
『昼顔』の公式サイトにアンケートコーナーがあり、その集計結果を見ると「不倫は絶対に許せない」の質問に対して、総計16万1193件の回答が寄せられ、「そう思う」は32%、「そうは思わない」が47%と、不倫容認派が7割弱を占めた。
また、「身近に不倫している(したことがある)人がいる」の質問に対して、総計14万9088件の回答が寄せられ、そのうち70%が「いる」と回答した。
さらに「パートナー以外の異性にときめいとことがある」の質問に対して、総計14万1438件の回答が寄せられ、80%が「ある」と回答していた。
不倫ドラマの視聴者を対象に実施したアンケート調査なので、バイアスが働いている可能性は高いことを考慮しても、集計結果の数字は高い。