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2017年7月20日木曜日

戦時中に満州に行った青年たちの中に、小澤開作がいる。
満州青年聯盟や満州国協和会の血清に関わる人物である。
1935年に満州の奉天市で生まれた開作の三男が指揮者の小澤征爾である。
開作が親交のあった板垣征四郎の「征」と石原莞爾の「爾」の字を取って「征爾」と名付けられたのである。
2011年3月11日に東日本大震災が起こった後、6月28日に東京電力の株主総会が行われた。
午前10時から始まって、午後4時まで休みなく、6時間ぶっ続けで行われた。
議長を務めたのが71歳だった勝俣恒久会長だった。
株主からは休憩動議が出たが却下された。
株主総会が伸びると大変なことになるからだった。
一日延びたら議案書を再度刷り直して、再招集しなければならない。
東京電力の檀上の役員全員が紙おむつを穿いていたという。
それだけの覚悟で、全役員が臨んだのいうわけである。
紙おむつを強制されることに疑問を持って、「途中で退席したい」と言おうものなら、東京電力の役員は務まらないのである。
日立グループには、百年近い歴史を有する「自衛消防隊」があり、3つのアカを消すという。
1つ目は思想的アカを消し、2つ目は赤字を消し、3つ目は本当の火を消すのだという。
日本全国で村がかなり残っているのは福島県と長野県である。
佐藤栄佐久が福島県知事であり、田中康夫が長野県知事だった時に、国は目の前に合併特例債というニンジンをぶら下げた。
この「合併したら優遇する」という合併特例債に地方自治体の首長は群がっていった。
東日本大震災では、合併して行政区画が大きくなった自治体ほど、被災状況の把握が遅れたという。
平成の大合併によって、大きくなったために住民の状況把握が遅れたのである。
把握できない以上、当然、救援物資が届くのも遅れた。
中江兆民の本名は中江篤介という。
兆民は号であり、「億兆の民」という意味であり、「平民」であるという意味だった。
つまり「民に寄り添う」という人だった。
田中正造は、足尾銅山鉱毒事件で政府要人と結託した古河財閥を攻撃し続けた。
古河財閥の領袖、古河市兵衛の義理の息子は陸奥宗光だった。
田中正造が天皇に直訴した1901年に、古河市兵衛の妻であるタメは、田中の演説を聞いて、自分の旦那がこんな酷い事ことをしていたのかとショックを受けて、東京神田橋から入水自殺している。
古河財閥系の企業で、現在も残っているは、古河鉱業、富士電機、富士通、日本軽金属、横浜ゴム、朝日生命などがある。
ちなみに、富士電機や富士通の「富士」の名称の由来は、古河がドイツのジーメンスと技術提携した際に、古河の「フ」とジーメンスの「ジ」を組み合わせた商標である。
「国家の言いなりにならない」という意思を表すのに、手っ取り早いのは「勲章の拒否」である。
勲章は、例えば銀行の経営者は財務省に申請し、電力会社の経営者は経済産業省に申請する。
学校の先生は文部科学省に申請する。
そこで霞が関が審査して、勲章をランク付けが決められるのである。
その結果、勲章を貰いたいエライ人達は、霞が関にモノが言えなくなるのである。
松永安左エ門とその弟子、木川田一隆は叙勲を拒否した。
木川田の弟子、平岩外四は経団連会長に就任し、勲一等旭日大綬章を貰らってしまった。
ちなみに、それより上の勲一等旭日桐花大綬章を受賞したのが、「三本指の首相」で有名になった宇野宗佑である。
東海大学を創立した松前重義は、戦前、逓信省公務局長だったが、アメリカに技術力で遠く及ばないと悟り、中野正剛とともに東條内閣打倒を画策し、その結果、二等兵として南方戦線に送られた経歴を持つ。
親ソ派の社会党衆議院議員でもあり、江田三郎の離党をバックアップしたとも言われている。
田中角栄が凄いのは、心配りである。
角栄が先方に呼ばれて運転手付きの車が迎えに来た時に、角栄は必ずその運転手に心付けを渡したという。
早坂茂三に対し、角栄から問いかけがあった。
「お前なら、どう渡す? いつ渡す?」
早坂が、「乗った時に後ろから渡せばよいでしょう」と答えると、角栄は「バカ!」と即答し、「それじゃあ俺が見てるたろう。そうじゃないんだ」と言った。
車が先方に着くと、まず角栄が降りて視線は角栄に集まる。
運転手がドアを開けて、角栄が下りる。
角栄が歩いて行ったら視線は、みんなそっちに行く。
残されたのは早坂と運転手だけになる。
「その時にスッと手元に渡すんだ、受け取る方もお金だと、屈折するものがある。その屈折をなるべく少なくする形で渡すんだ」
心付けを渡す際の、この過剰とも思える気遣いに対して、感心するほかない。
こういった心付けを拒否する人がいる。
そういった人に角栄はこう続けたという。
「君にやるんじゃないんだ。君が部下と飲む時にな」
これで、受け取り易くなるという。
これは塾や学校で教わることはできない一つの知恵である。
徳間康快が映画『敦煌』を日中合作で制作したのは1988年だったが、部下からカネがかかりすぎて元が取れないと止められたという。
その時に徳間は
「中国から儲けちゃいかん。日本人はさんざん悪い事をとんだから」
「心配するな。カネは銀行にいくらでもある」
「借金取りは墓場までは来ない」
という名ゼリフを吐くという、実に人間のスケールが大きい人だった。
徳間書店の創業者・徳間康快は破天荒な人だった。
凄まじいエビソードがある。
戦後の音楽プロデ―サーとして代表的人物の一人に長田暁二という人がいた。
キングレコードの童謡担当ディレクターを振り出しに、流行歌から民謡、クラシックまで何でも手掛け、その後ポリドールの学芸部長を経て、徳間音楽工業の常務へ徳間からヘッドハンティングされた。
1981年の夏のある日、長田は徳間に呼ばれたところ、喪服が用意されており、「これを着て神戸まで新幹線で行ってこい」と言われた。
山口組三代目組長の田岡一雄の葬儀に代理出席してこい、という話だった。
さすがにヤクザのイベントに徳間本人は行けないが、徳間は田岡への思いがあった。
そして「これを持っていけ」と徳間から封筒を渡され、新幹線で新姫路駅から車で葬儀場まで行き、受付で封筒を差し出した。
中には1億円の小切手が入っていたという。
香典1億円のお陰で、長田の席は最上席となった。
隣が美空ひばりで、その隣が鶴田浩二、田端義夫、高倉健と並んでいた。
徳間書店から「アサヒ芸能」という週刊誌が出ているが、ヤクザの業界内雑誌のような性格も有している。
ヤクザから、「アサヒ芸能」編集部に電話で「今度、俺は若頭取補佐になれるだろうか」という情報確認もあり、編集部の方が組の事情に詳しかったりするという。
だから徳間としては、「儲けさせてもらいました」という、ある種のお返しの1億円だったのであろう。
政権交代が容易であり、二大政党制にとって都合のよい「小選挙区制」は1つの選挙区から1人の議員を選出する一人区制である。
51%の票を取った人が当選し、49%では落選してしまう。
つまり、49%の票は切り捨てされてしまう制度なのである。
さらに問題なのは、60%を取った人が当選し、40%を取った人が落選した場合、その時の投票率が50%だったら、全体の30%しか票を取っていない人が、全体の100%の支持を得たような顔をするというのが、小選挙区制度なのである。
昔からファシズム元区だといわれてきた選挙スタイルなのである。
1991年1月から2月にかけて、青森県知事選挙が行われた。
青森には六ケ所村があるから、原発推進派と反対派、そしていつの時代にも一時凍結派がいる。
一時凍結派が、当時はまだ現役のプロレスラーであり参議院議員だったアントニオ猪木に、150万円を出して応援演説に来てもらおうとした。
それを聞いた原発推進派は焦り、支援団体で電力会社の集まりである「電気事業連合会(電事連)」に相談し、アントニオ猪木に「推進派の応援に来てくれ」と依頼した。
するとアントニオ猪木は、「分かった」と言って、慌てて150万円を一時凍結派に返し、推進派の応援に駆け付けたという。
推進派から貰った金額は150万円より高いのは想像できる。
驚くのが、猪木が推進派から実際に貰ったのは1億円だったという。
アントニオ猪木の公設第一秘書をしていた佐藤久美子が著書『議員秘書、捨身の告白』(講談社)に、このエビソードについてしっかりと書いている。
ジャーナリストだった石橋湛山は、「東洋経済」(1922年2月11日号)に、『山形有朋という巨悪-生ける老害が死んだ時、「死もまた社会奉仕」』という記事を書いている。
保利茂は、官房長官や自民党幹事長を務め、大番頭として佐藤栄作の長期政権を支えた。
ニクソン大統領時代に、日本はアメリカと中国は敵対していると思い込んでいたが、アメリカが日本の頭越しに中後区と友好関係を築いてしまった。
日本はシヨックを受けたが、巻き返しを図ったのが保利茂だった。
保利茂は佐藤栄作の大番頭だったが、本当の大番頭は親分の言う通りに動くわけではない。
保利は中国の周恩来首相に「保利書簡」を送ろうと考えたが、中国は「佐藤反動政権」と批判している状況なので、正規ルートで手紙が届く訳がなかった。
そこで保利は、当時の東京都知事でった美濃部亮吉が中国を公式訪問するという話を聞きつけ、ツテをたどって書簡を美濃部に托したという。(1971年11月10日のことだった)
周恩来に届いた「保利書簡」には、「北京政府が中国の合法的政府であり、台湾は中国国民の領土だとの認識に立って、政府間交渉の道を開きたい」と書かれていた。
つまり、日本は中国を正統な政権だと認め、台湾を切り捨てる方向に舵を切る事を認めたのである。
表向きには、周恩来は非公式なものであると、この「保利書簡」をはじいた素振りをするが、この書簡は後に田中角栄がアメリカの先手を打って日中国交正常化(1972年9月29日)を果たす布石となる。
このエピソードが凄いのは、保利が美濃部に手紙を渡し、「保守反動政権」の保利の手紙を持って、美濃部が中国に渡ったという、両者の知恵である。
1971年に二期目の都知事選挙で、美濃部は「ストップ・ザ・佐藤」というスローガンを掲げて当選しているが、その佐藤の大番頭の保利の手紙を仲介しているのである。
保利は「私の手紙を持って行くことによって、あなたが困った立場になりませんか」と美濃部本人に確認したという。
すると美濃部は、「自分は非難されるかもしれませんが、日本が中国と国交を結ぶということは、立場の違いを超えて大事だと思います」と答えたという。
この二人の政治家は、ともに二枚腰、三枚腰の懐の深さを持っていた。