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2016年12月10日土曜日

日本の輸出を牽引する自動車産業は、日本軍によって育てられたといっても過言ではない。
太平洋戦争当時から、日本は自動車の製造台数や保有台数という点では世界有数の国だった。
日本軍が自動車製造に取り組み始めたタイミングは世界的にみても非常に早かった。
ガソリン自動車は明治3(1879)年にドイツで発明され、明治41(1908)年に米フォードがT型フォードを製造したから本格的に普及した。
日本軍はその2年後の明治43(1919)年に大阪砲兵工廠で試作が始まり、翌44(1911)年には2台のトラックが完成している。
これは「甲型自動貨車」と名付けられシベリア出兵には23台が派遣されている。
その後、大正14(1925)年に日本フォードが日本で製造販売を開始し、昭和2(1927年にはGMも日本上陸を果たし、日本自動車メーカーは壊滅的な打撃を受ける。
これに対して、陸軍が危機感を持ち昭和11(1936)年に自動車製造事業法を制定した。
「国の許可を受けた事業者しか自動車製造販売をしてはならない」という法律で、許可を受ける条件には「日本国に籍のある会社」という項目があった。
この自動車製造事業法で、許可を受けた会社とは、トヨタ自動車、日産自動車、ディーゼル自動車(現、いすゞ)であり、この3社は戦時中の軍用車両の製造を独占した。
他にも軽自動車に強い富士重工も、その前進は中島飛行機という戦闘機メーカーである。
日本が戦後、貿易立国として飛躍できたのは、ユダヤ商人の働きが大きかった。
ソニーや松下電器のアメリカ大陸での輸入代理店となったのは、ベンジャミン・フィッショフというユダヤ人だった。
ベンジャミンは「杉原ビザ」で救われたユダヤ難民の一人であり、戦時中は上海で過ごし、戦後、アメリカへ渡り、日本への恩返しをする役目を担ったのである。
世界で初めてトランジスタ・ラジオの実用化に成功したが、町工場程度の規模しかなかったソニーに、ベンジャミンは、その製品の取引を申し出た。
また、三菱、日立、古河電工などの海外での販売代理店を担ったのは、ショウル・ネヘミア・アイゼンバーグというユダヤ人だった。
ショウルは、1940年に難民として日本に辿り着き、戦後は日本を拠点に貿易業を営んだ。
他にもブラザーを始めとする未進製品もユダヤ人の手によって世界に紹介された。
1970年、日本製未進の卸売り業者は16社あったが、そのうち15社がユダヤ人経営者だったという。
カメラなどの精密機械の販売もユダヤ商人が担っていた。
1970年当時、アメリカでの日本精密機械を扱う卸売り業者の9割以上がユダヤ系企業だった。
戦後の日本は、GHQの指導のおかげで素早く復興できた事は間違いないが、事実の本質からはかなり外れている。
GHQは当初、日本をすぐに復興させようとは考えておらず、二度とアメリカと戦争ができない国にする事が占領政策のテーマだった。
GHQは日本に対し世紀産業を廃止するだけでなく、重工業の復興や船舶の保有にも制限をつけ、日本の生産能力を国内需要に応じる範囲に抑えようとしていた。
日本の賠償を決めるために来日したポーレー賠償使節団は、賠償の一部として日本の重工業の使節を盗難アジアに移設する立案をしている。
日本の鋼材の生産設備は、戦災の被害を殆ど受けておらず、敗戦時にも戦前の水準の1100万トンの生産能力があった。
この設備のうち900万トン分を移設し、日本国内の生産能力を200万トンに減らす計画だった。
ポーレー賠償使節団は、日本の生産能力を昭和5(1930)年の水準の3分の1に抑えることになっていた。
つまり日本は戦前の3分の1の生活水準しか与えない予定だったのである。
しかし、このアメリカの厳しい占領政策は、昭和21(1946)年に始まる冷戦により緩和する。
昭和22(1947)年には、日本の賠償をポーレー案の30%程度に削減し、GHQが賠償のために没収していた日本の貴金属1億3700万ドルを外貨準備として返還した。
こうしてみると、もしGHQが終戦直後に日本の貿易を封鎖せず、賠償も求めなければ、日本はもっと早く復興した可能性が高かった。
アメリカは日米開戦前に、日本の経済力や資源備蓄などから計算して、「日本の戦争継続能力は1年もない」と踏んでいたという。
財務長官の特別補佐官ハリー・デクスター・ホワイトは、日本の石油の備蓄は1年以内に底をつくと算出した。
ちなみに、ハリーはハル・ノートの起草者とされ、日米開戦の鍵を握る重要人物である。
しかし、このアメリカの想定に反して、太平洋戦争は4年近くも続く。
日本はアメリカが予想していた「国家経済の崩壊」より前に、国家総動員法により統制経済を構築し、経済の混乱を防いでいたからである。
誤算はアメリカだけではなく、日本側もこれほど戦争が長引くとは想定していなかった。
企画院の「対米戦争における影響の良そう」は3年分しか策定されていなかった。
企画院は外交、軍事、財政経済などの重要政策の企画立案をする官庁で、昭和12(1937)年に内閣の直属機関として設置され、各省庁、陸海軍からエリートが出向していた。
その企画院が「戦争は長くても3年」と考えていたのである。
日本はドイツがイギリスとソ連を降伏させると想定して、勝ち馬に乗るつもりで英米に宣戦布告したのである。
昭和16(1941)年7月24日に、日本はフランスのヴィシー政府から無理やり同意を取り付け、南インドシナに進駐を開始した。
南部仏印は軍需物資となる生ゴム生産の90%、錫生産の60%を占めており、日本が押さえれば、アメリカとしても打撃が大きいため、アメリカは一気に対日戦争に向かうことになる。
日本の南部仏印進駐会社の2日後、アメリカは日本に対し「在米資産の凍結」を実施し、イギリス、オランダもアメリカに同調した。
この資産凍結は、日本経済を破綻させるほど凄まじい威力があり、事実上の宣戦布告に近い。
資産凍結とは、アメリカにある日本人の資産が取り上げられるというようなレベルではなく、日本が国債貿易から締め出されることを意味していた。
当時のアメリカ・ドルは事実上、世界で唯一の国際通貨であり、当時の日本にとって唯一の国債通貨だった。
このドルが、在米資産凍結によって使えなくなり、世界貿易における代金の支払いができなくなったのである。
そして、「日本の在米資産凍結」によって、横浜正金銀行ニューヨーク支店が危機的状況となってしまった。
横浜正金銀行は戦前の日本の外国為替業務を一手に引き受けていた「国策銀行」である。
横浜正金銀行は、日本がドル建てで発行した公債の引き受けなどを行っており、昭和16(1941)年末までに、公債の利払いと償還金として850万ドルを支払わねばならなかった。
しかし、横浜正金銀行は600万ドルの手持ち資金しかなかった。
昭和16(1941)年10月24日、米国務次官補から「横浜正金銀行のニューヨーク支店は破綻。凍結している日本の保有ドルは恒久的に封鎖する」と伝えられた。
横浜正金銀行ニューヨーク支店の破綻が決定的になった時、日本は「日米開戦」を決断するのである。
この1週間後の11月1日、大本営政府連絡会議により「日米開戦」が事実上決定する。
日本が満州事変を起こして満州国をつくり、日中の戦闘が中国全土に拡大しても、アメリカは当初、抗議はするもそれ程強硬な姿勢はみせていなかった。
戦前の日本とアメリカは経済的に深いつながりがあった。
第一次大戦終結から第二次大戦開始までの間、日本の最大の輸出相手はアメリカであり、日本の輸出全体の4割をアメリカが占めていた。
アメリカにとっても、カナダ、イギリスに次いで、日本は三番目の輸出相手だった。
アメリカの日本への輸出は、中国への輸出の22倍もあり、当時アメリカ領だったフィリピンへの輸出と比べても3倍あった。
日本は、アメリカにとって、満州よりも日本の方が遥かに大事な市場だったため、満州のことではアメリカは戦争までしてこないという計算があった。
しかし、昭和13(1938)年11月に日本が世界に向けて発した「東亜新秩序」により、英米と結んできた中国における協定を全て反故にし、「東アジアでは日本が中心になって、新しい秩序を建設する」と宣言した事を、きっかけにアメリカは日本に対して強硬姿勢を取るようになった。
翌年の昭和14年(1939)年7月、アメリカは日本との通商航海条約の破棄を通告すると共に、蒋介石の国民党へ積極的な支援を開始するここになる。
昭和2年の長者番付では、1位から8位までを三菱、三井の一族で占められていた。
岩崎久彌は430万円もの年収があった。
当時の大卒の初任給が50円、労働者の日給が1~2円だったので、一般庶民の1万倍近い収入を得ていたことになる。
現在のサラリーマンの平均年収を500万円とすると、1万倍というと500億円の年収に相当する。
2004年の長者番付1位が30億円程度の年収なので、その15倍以上となる。
しかも当時は、所得税率が一律8%だったので、財閥の一族は雪だるま式に私財が蓄積されていた。
〇昭和2年の長者番付
1位 岩崎久彌(三菱合資社長)    430万9千円
2位 三井八郎右衛門(三井合名社長) 399万2千円
3位 三井源右衛門(三井合名重役)  180万5千円
4位 三井元之助(三井鉱山社長)   178万3千円
5位 三井高精(三井銀行重役)    172万9千円
昭和初期の農家の経済基盤は非常に脆弱で、世界恐慌で農村は大打撃を受けた。
昭和5年当時の物価は20~30%下落し、米は半値以下、繭は3分の1以下になった。
昭和7年当時、農家の1戸平均の借金は840円で、農家平均年収723円を上回っていた。
さらに昭和9年には東北地方では冷害による不作で、農村はまた大打撃を受けた。
昭和6年の山形県最上郡西小国村の調査では、村内の15歳から24歳までの未婚女性467名のうち、23%にあたる110人が家族によって身売りを強いられたという。
警視庁の調べによると、昭和4年の1年間だけで、東京に売られたきた少女は6130人だった。
農村が貧しい生活を余儀なくされる一方で、一部の財閥が巨大な富を独り占めしていた。
終戦時、三井、三菱、住友、安田の4大財閥だけで、全国の会社払込資本金の49.7%を占めており、資産額ではさらに高い比率を占めていたとされる。