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2017年9月11日月曜日

小泉政権時の郵政民営化にはAIG(Amerian International Group)という保険会社の影があった。
AIGは世界130ヵ国以上で展開する世界企業で、1919年に上海で創業された。
第一次世界大戦後、アイスクリームの行商をしていたユダヤ系アメリカ人のコーネリアス・バンダ―・スターは、一山当てようと上海に渡り、当時誰も思いつかなかった「中国人に保険を売る」という字業を始め、成功させる。
日本の保険業界というのは、アメリカの企業が勢力を持っており、その中で最も強いのはAIGである。
AIGは戦前に上海で創業していたこともあり、戦後すぐに日本に進出している。
しかし、日本市場で業績がなかなか拡大しないため、AIGは日本政府に対して保険業界の市場開放を迫るだけにとどまらず、日本の保険市場でアメリカ企業だけに特別の恩恵を与えるように働きかけた。
その結果、信じがたいことだが、日本の保険事業のある分野において、アメリカ企業が独占的な権益を与えられる。
生命保険、損害保険以外の分野、いわゆる「第三分野」と言われる侵害保険やがん保険が該当する。
この分野では日本の保険会社は参入できないという日米双方の申し合わせがあった。
がん保険から日本企業は締め出されていたのである。
その後、日本企業が第三分野に参入できるようになったのは2001年のことだった。
そして日本の生命保険の中で最大のシェアを持つ郵便局の簡易保険の縮小を狙い、1990年代の日米協議の中で、保険は最優先課題となり、2004年秋という期限をつけて、日本に対する保険市場の改善を要求してきたのである。
このため、小泉政権は大急ぎで郵政民営化を推し進めたともみられる。
1998年に長期信用銀行が破綻したが、その再生の際に多額の税金をアメリカ企業に持ち逃げされてしまった。
長銀は1998年に破綻し一時国有化された。
そして2000年3月にアメリカの企業、外国銀行の集合体である「ニューLTCBパートナーズ」に、わずか1200億円で買収された。
日本政府は不良債権は引き継がないで良い、という条件で長銀をLTCBに売却した。
長銀には4兆円という公的資金が導入されている。
公的資金導入と言うのは、投資家にとってはまたとない儲け話となる。
公的資金が導入される会社はボロボロだからタダ当然だが、多額の公的資金が注ぎ込まれれば。それだけで企業価値は上がる。
新生銀行として2004年に東証一部に上場を果たし、LTCBは1000億円以上の莫大な利益を得ている。
しかも、LTCBには日本の税金が課せられていない。
LTCBというのは法人ではなく投資組合であり、税金は課せられないからである。
これが日本の組合であれば、組合員に課税されるが、LTCBの場合は、組合員が外国企業だったので日本で税金はかからなかった。
日本政府はLTCBに対して、日本の税金を献納したようなものだった。
現在のアメリカはGDPの2割が金融部門が占め、金融立国である。
日本の金融部門はGDPの6%、英吉利10%前後であり、アメリカの金融部門がいかに突出しているかが分かる。
金融と言うのは産業の潤滑油であり、補助的な役割を担うはずだが、アメリカでは主役なってしまっている。
第二次世界大戦までアメリカは、世界の工場であり、世界の農場でもあった。モノづくり大国だったのである。
そのアメリカが金融大国へシフトしたのは1990年代初めで、貿易赤字と財政赤字の双子の赤字に悩まされ、ドル安政策を採っていたが、いくらドルを下げても競争力を失ったアメリカの産業手は輸出が伸びなかった。
そこでアメリカはドル高政策に転換し、金融部門を強化することにした。
多くの金融商品を開発し、高いドルを維持することで、世界中から投資をアメリカに呼び込み、貿易赤字を投資マネーで補うようになるのである。
日本で自動車が本格的に普及したのは戦後だと思われがちだが、日本は戦前から自動車大国だった。
特に日本陸軍は自動車の導入に力を入れており、トラックの生産台数はアメリカに次いで世界2位になっていた。
日本に初めて自動車が入ってきたのは1899年で、皇太子(のちの大正天皇)のご成婚祝いにアメリカの日系移民からプレゼントされた。
ただ、運転できる者がおらず、試運転の時にブレーキの捜査を誤って、三宅坂のお堀に落ちてしまい、日本最初の自動車事故として記録されている。
東京に初めてタクシーが走ったのは1912年で数寄屋橋タクシーという会社が2台で、新橋駅~上野駅間を往復するだけだった。
その後タクシーは増え続け、関東大震災があった1923年頃には東京市内に500台程が足吏、1932年には1万台を超えていた。
これらの日本のタクシーで使われていた車は殆どがアメリカ車だった。
アメリカ商務省の発表によると2016年のアメリカの対日貿易赤字は、689億ドル(7兆7000億円)である。
そのうち自動車関連が526億ドルと、アメリカの対日貿易赤字の8割が自動車関連となっている。
戦後の日本で占領政策を行っていたGHQは、当初、日本をすぐに復興させようとは考えていなかった。
そのためGHQは日本に対して兵器産業を廃止させ、重工業の復興や船舶の保有にも制限を設けた。
日本の重工業の生産能力は、国内需要に応じる範囲に抑えることにされていた。
しかもその基準値は1930年のレベルの3分の1とされていた。
さらにGHQは日本の重工業の施設を東南アジア諸国に戦争賠償として移設するという計画まで立てていた。
日本の鋼材の生産整備は戦災を殆ど受けておらず、敗戦時にも戦前の水準である1100万トンの生産能力があった。
その設備のうち、900万トンを東南アジア諸国に移設し、日本に残されるのは200万トン分にする、という予定だったという。
もしこれが実行されていれば、日本の戦後復興は大幅に遅れていたはずである。
アメリカ軍は終戦後しばらく日本に駐留したが、この駐留経費は日本が負担することになっていた。
1953年の参議院の国会答弁書によると47億ドル(当時の日本円換算で5100億円)にも及んでいる。
1953年時点の日本の゜国家予算が1兆円だったので、年間国家予算の半分が駐留経費ということになる。
しかも47億ドルの駐留経費には朝鮮戦争での国連軍の経費も入っていた。
日本は朝鮮戦争の特需によつて経済が回復したとされるが、朝鮮戦争の特需は直接的なものが10億ドル、間接的なもので36億ドルとされている。
つまり、日本がアメリカに支払った駐留経費の方が、朝鮮戦争の特需で得られた経済的恩恵よりも大きかったのである。
第二次世界大戦後、日本は連合国側に対して、かなり大きな賠償金を払っている。
サンフランシスコ講和条約により、日本が戦争終結前に持っていた対外資産は全て没収され、捕虜などの補償にあてる事が決められた。
この対外資産の没収額が大きく、外務省の試算によると、当時の金額で3800億円となっている。
1945年の日本の国家予算が235億円だったので、16年分強ということになる。
対外資産というと日本が植民地にしていた地域の資産というイメージがあるが、この中には日本が貿易の決済のためにアメリカの銀行に置いていた資産も含まれていた。
また朝鮮にあった資産の多くは、朝鮮戦争の時に国連軍が使用した。つまりアメリカ軍に分捕られたのである。
それ以外にも戦後の日本はアメリカに対して様々な形で賠償金のようなものを支払わされている。