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2017年10月7日土曜日

日本では小泉純一郎内閣が経済財政諮問会議を作って、官邸主導を打ち出したあたりから、物事を国会で話し合って決めるのではなく、少数の民間委員で決め、国会は後から承認するだけ、という手法が目立ってきている。
選挙の洗礼も資格試験も受けていない、総理と個人的な関係があるだけの民間人が、国の政治的意思決定に関与しており、これは民主主義の原則からすれば、おかしい構造である。
このような民主主義てきな統制が失われているのは、世界的な傾向でもある。
例えば、トランプ大統領の娘イヴァンカは、次期大統領の娘というだけで、公的なステータスも守秘義務も一切ないのに、日本の内閣総理大臣との会談にずっと同席していて、キーパーソンの役割を果たした。
日本は2009年にソマリア沖の海賊対処で派遣する海上自衛隊の拠点となるジブチとの間で「ジブチ共和国における日本国の自衛隊等の地位に関する日本国政府とジブチ共和国政府との間の書簡」を交わしている。
これは日米地位協定でアメリカが有利な以上に、日本が有利な地位協定であり、裁判権どころか警察権まで完全に日本側にあった。
日米地位協定の問題は、基地が極端に集中している沖縄の問題である。
なぜそうなったかといえば、そもそも1951年のサンフランシスコ講和条約で、南西諸島(北緯29度以南の琉球諸島・大東諸島など)・南方諸島(小笠原諸島・西之島など)・沖ノ鳥島・南鳥島をアメリカ信託統治領とすると期目、沖縄を日本の外に出すことになったからである。
しかし、実際には信託統治はされず、事実として米軍によって支配されていた。
『ワシントン・ポイスト』紙が1990年3月27日付で報じた、「ビンのふた」という話がある。
在日米海兵隊のスタックポール司令官(当時は少将)が「もし米軍が日本から撤退したら、日本はすでに相当な能力を持つ軍事力をさらに強化するだろう。だれも日本の再軍備を望んでいない。だからわれわれはビンのふたなのだ」と発言した。
在日米軍は、日本を押さえつけて軍国主義化を防ぐためにいるという。
また、イスラエルの諜報機関の幹部は、「日本のおもちゃ屋に行けば、未だに全世界を敵に回して戦った時代の零戦や戦艦大和のプラモデルを置かれている。それらのプラモデルがあるうちはねアメリカは警戒心を緩めない」と話しているという。
おもちゃ屋のプラモデル売り場に行けば、その国の軍事的な雰囲気がどうかが分かるのである。
米軍海兵隊普天間飛行場の移設問題は、1996年4月に橋本龍太郎首相とモンデール駐日大使との間で日米合意した。
橋本総理、小渕総理の時に野仲広務らが沖縄全島を歩いて説得し、沖縄は県内移設を一度了承してている。
しかし、キャンプ・シュワブ内で滑走路を延長し、それを軍民共用にして10~15年後に返還するという話であり、辺野古埋め立ては了承していなかった。
米軍基地内ならば知事の許可も必要なく、抗議のしようもなかったからである。
これは鈴木宗男と比嘉鉄也がまとめた話だった。
鈴木宗男が中川一郎の秘書だった時に、名護市議会議員だった比嘉がサトウキビ価格の問題で陳情に来たが、役人に追い返されてしまい、その陳情を鈴木が通したことへの恩返しだった。
なぜ辺野古を埋め立て立てることになったかというと、鈴木が永田町からいなくなったからで、いつの間にか埋め立て利権を求める人が入ってきて話が広がってしまった。
辺野古問題は埋め立て利権そのもので、辺野古に決まった後も、滑走路がズルズルと沖にせり出して、多くの砂利を使う計画に変わっていった。
世界各地で勃興している「ナショナリズム」は現代世界をとらえる非常に重要なキーワードである。
しかし、日本では「民族主義」「国民主義」「国家主義」「国粋主義」など様々に訳されてしまい、混乱してしまう。
『民族とナショナリズム』を著したイギリスの社会人類学者アーネスト・ゲルナーは、ナショナリズムを「政治的な単位と文化的・民族的な単位を一致させよとする思想や運動」と定義している。
政治的な単位とは、「国家」だが、国は歴史的に常にあったわけでは無く、狩猟採取社会の段階では国はなかった。
産業社会の段階には必ず国があるが、それは産業を成立させるには人々に公教育が必要となり、それができるのは国だけだからである。
文化的・民族的な単位とは、「民族」であり、文化を共有し、我々は同じ民族だと信じる人々の集団である。
この国と民族を一致させるのがナショナリズムだから、近代以降、国が国民を一つにまとめる方向で強調されてきた。
この意味でのナショナリズムは「国家主義」となる。
沖縄の人々が、本土と我々は異なるので沖縄でまとまろうとする運動をすれば、このナショナリズムは「民族主義」となる。
逆に、それを阻止して沖縄を日本に留めようという運動は「国家主義」である。
公明党やその支持母体である創価学会の教義からすると、首相の靖国参拝は許容できる範囲を超えている。
創価学会初代会長の牧口常三郎は、「伊勢神宮に神様はいない。天照大神はおらず、鬼神がいる」と言っている。
その発言一発で不敬罪と治安維持法違反となった。
創価学会員は、稲荷神社など行かない。
お稲荷さんに日々お参りして拝むと、拝んだ対象に自分が似てきて、キツネみたいに跳ねたり、キツネみたいにズルくなってしまう。
御利益をそういう場所に求めて拝んではならない、と創価学会は教えている。
創価学会のドクトリンからすると、雄国神社で拝んだら、鬼神が乗り移ってしまうことになる。
現在の日米安全保障や日米同盟の基本的な枠組みは、トランプ大統領が何を言おうとも崩れない。
これは皇室典範の改正問題と絡んでくる問題で、戦後日本の国体、戦後のこの国を日本国たらしめているものは、日米同盟と結びつく形で成立しているからである。
国体護持などというときの「国体」とは、天皇を中心とする秩序の意味だが、別に戦前だけではなく今日も存在する。
太平洋戦争でアメリカに敗れた日本は、アメリカ的なものを受け入れ、新憲法をつくり、象徴天皇という新しい氏住む手を掲げた。
つまり現在の天皇という存在とアメリカという存在は一体といえる。
というこは、日本が自主国防体制を築いて軍事的に自立すれば、皇統の危機、国体の危機につながる恐れがある。
陸軍の暴走によって日本は国体の危機に瀕した。
このことは、皇室にも日本の指導層にも、二度と繰り返してはならないとDNAに植え付けられている。
だから安倍政権の言う「戦後レジュームの脱却」的なものに対して、皇室は常に冷ややかなのである。
現天皇の次男である秋篠宮が、次女の佳子さまをなぜICUに入れたのかを考えると理解できる。
ICUはGHQ最高司令官マッカーサーが募金委員長、昭和天皇の弟の高松宮が日本のヘッドとなって1953年に設立された。
環境のよい郊外で、少数精鋭の授業をするアメリカ型のリベラルアーツ・カレッジにならったキリスト教プロテスタンティズムの大学で、アメリカ流のキリスト教的な価値観や自由、民主主義やディスカッションを重視している。
まさに戦後国体にふさわしい、そういうものを皇室を担う名字のない人達が、受け継いでいくのである。
佳子さまのICU進学は、皇室の戦後国体に対する忠誠の証と言える。
「戦後レジュームからの脱却」と言いながら、安倍政権が実際にやろうとしているのは「戦後レジュームの完成」である。
オーストラリアは、アメリカの世界戦略のなかの一部を占める形てに、自前の安全保障を取っている。
小さいながら一つの大陸ではあるが、オーストラリア軍は、総兵力5万8000人しかおらず、人手不足で潜水艦が動かないという話もあり、米軍と一体でないとどうにもならなのが現実である。
アメリカから軍事的にも経済的にも自立している国は、ロシアと中国を除くと、北朝鮮、イラン、他にはアフリカの名前も知らない国くらいである。
つまり、アメリカに従属しているという事は、一流国の証なのである。
アメリカが相手もしてくれなく国というのは、よくない存在になってしまう。
グローバル化の時代には、自由に行き来するものの価格、つまり通信費や労働者の賃金が世界一律へと収斂していく。
東京でアジアの人達が働く店の賃金は、彼らの水準まで落ち、日本人が同じしことをしても賃金は同じとなり、これが格差拡大の原因となる。
アベノミクスでマネー供給量をいくら物価を2%に上げることすらできないのは、この格差拡大によるデフレが一因である。
反知性主義とは客観性や実証性を軽視または無視し、感覚や感情を基準として自分の欲するように物事を判断することである。
ホーフスタッターというアメリカの歴史家が著書『アメリカの藩知性主義』(1963年)で唱えた概念で、もともとは「知的ではなく教養に欠けた大衆は、知的権威やインテリのエリート層に導かれるべきだ」と言う考え方に異議を申し立て、民主主義を称揚する言葉だった。