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2012年11月21日水曜日

平安時代には、804年に遣唐使として唐に渡った最澄と空海が帰国し、最澄は806年に比叡山延暦寺で天台宗を開き、空海は816年に高野山金剛峰寺で真言宗を開いた。

最澄が天台宗を開いた当時、戒律を授ける国家公認の戒壇院は東大寺など日本に3ヶ所しかなく、仏教の僧侶は国家資格だった。
最澄は奈良時代以来の体制に改革を唱え続けた結果、死後7日目に比叡山に公認の戒壇院が設けられ、奈良仏教と独立した組織として僧侶の養成が可能となった。

その結果、平安時代から鎌倉時代にかけて、比叡山は多くの名僧を輩出した。

浄土宗の開祖 法然
浄土真宗の開祖 親鸞(法然の弟子)
臨済宗の開祖 栄西
曹洞宗の開祖 道元
日蓮宗の開祖 日蓮
538年に百済の聖明王からの使により、仏像や経典が欽明天皇へ公式に伝えられた。

6世紀後半に、蘇我馬子により日本最初の寺院となる法興寺(現在の飛鳥寺)を建立した。本尊の飛鳥大仏は日本で最初に作られたブッダの像である。

752年には聖武天皇により、全国各地に建てた国分寺の総本山として東大寺が建立され、日本で初めて戒壇院が設けられた。
戒壇院とは出家して正式な僧侶になる際に、厳しい戒律を授ける為の施設で、それまでは日本には戒律を授ける資格を持つ僧侶がいなかった。
そこで聖武天皇は鑑真を迎え、天皇自らを含め約400人が戒律ほ授かり、日本で正式に僧侶になることができるようになった。
数千巻ある仏教のお経のうち、ブッダが説いた言葉は一部で多くは、ブッダの弟子を自称する僧侶や仏教学者が書き綴っている。

7世紀の唐の時代に、玄奘三蔵(三蔵法師)が世界最古の大学とされるナーランダ僧院で本場の仏教を学び、16年後にインドから長安に持ち帰ったお経の数は657部だった。
ブッダは教えを文字で残さず、全て対面で教えを説いていた為、ブッダの死後に弟子たちがブッダの説法をまとめていった。
その中で、ブッダ時代のルールを守るべきとする保守派(上座部)と、時代に合わせてルールを変えていくべきとする改革派(大衆部)の二つに分裂していく。
上座部はスリランカに伝わり上座部仏教となり、大衆部は大乗仏教となり、1世紀頃にインドからシルクロードを通じて中国へ伝わり、朝鮮半島を経て538年頃に日本に伝わった。
仏教では、なぜ四十九日の供養だけ盛大に行うのか?

仏教が生まれたインドでは輪廻転生が信じられている。
お経によると、人は亡くなると7日目には三途の川に到達し、その後7日ごとに裁判を受けるとされている。
だから7日ごとに法事を営み、よい裁きが得られるよう供養する。
ちなみに閻魔大王は5回目の裁判を担当する。
7回目の四十九日は最後の裁判となり、浄土に行けるのかが、この日の裁判で決まるので、皆で傍聴席からお経を読んで声援を送る必要がある。
チベット仏教は、中国仏教のフィルターを経ていないこともあり、インド仏教の源流に近い。