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2016年10月14日金曜日

「三国志」には、歴史としての「三国志」と、小説としての「三国志」の2つがある。
歴史の方は、陳寿の『三国志』によって魏が正統であるという立場をとり、小説の方は羅漢中の『三国志演義』によって蜀が正統という立場を取っている。
ちなみに、『三国志演義』の「演義」とは、「義を押し広める」という意味で、南宋の朱子が体系化した朱子学の影響を受けている。
朱子は諸葛亮を信奉しており、蜀を「季漢」と呼んでいた。
だから、文学部に入って、歴史としての三国志を学びたい場合は、史学科で陳寿の『三国志』を勉強し、小説としての三国志を学びたい場合は、中国文学科で『三国志演義」を勉強することになる。
西晋の歴史家である陳寿が、「三国時代の魏こそが後漢を受け継ぎ、魏から正統を受け継ぎ、それが正しいから西晋も正統である」ということを訴える目的で歴史を書いたのが、『三国志』である。
一方、蜀の劉備玄徳は、「中山靖王劉勝の子孫」と称していたが、実際にはどこの馬の骨が分からない人物だった。
なぜならば、中山靖王劉勝には息子が120人存在し、随分世代を重ねており、劉備くらいの血の濃さを持つ子孫は、30万人くらいいることになり、漢王室の一族でも何でもなかったからである。
それを、「漢王室の一族と称せ」とアドバイスし、前漢・後漢という国家を継承させ、「季漢(季は末っ子の意味)」と名乗らせたのが、諸葛亮孔明だった。
しかし、歴史には「季漢」という国家名は残っていない。
それは、陳寿が魏を正統とした『三国志』が正史となった為で、陳寿はあえて地域名である「蜀」とし、「魏書・呉書・蜀書」として『三国志』を書いたからである。