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2015年5月30日土曜日

キリスト教神学は、営業用の神学と専門家の神学と、ハッキリと分かれている。
同志社では、営業用の方は営業用の顔で牧師になる連中に教えている。
専門家用の方はどうなっているかというと、天国に神様がいるなどという事をストレートに信じている人は、たぶんいない。
信じていないことをどうやって信じているように見せかけるかとか、あるいはその神がどういうものかということをやる。
『資本論』をいきなり読むのは辛い。
『賃金・価格・利潤』は、マルクスが労働者相手に、既に『資本論』の論理ができあがっているところで講演をしているので、比較的わかりやすい。
『賃金と資本』という本もあるが、これはまだマルクスの考えがあまり固まっていなかった時に書かれている。
ただ、今の版はエンゲルスが加筆しているので、論理の崩れはそれほどない。
『経済学批判』も途中まで書いて挫折してしまった本だが、面白い。
『資本論』は『経済学批判』の続編を書くつもりで準備しているうちに、体系編成から作り直す必要を感じて、書き直したものである。

賃労働と資本/賃金・価格・利潤 (光文社古典新訳文庫)

自分の宗教の為に命を捧げるという決意をして、そのために本当に死んでもいいと思うようになると、人の命を奪うことに対するハードルが低くなる。
だから大量殺人というのは、「人類救済計画」が立っていないとできない。
マルチン・ルターがドイツ農民戦争の時に、「農民をできるだけ早く殺せ」と言った。なぜならば権力に反抗することは悪であり、罪を犯すことなので「そうすると魂が汚れてしまう。こういうことをこの農民たちが続けていると、死んだあと、復活ができなくなる。今殺せば、魂はそれほど汚れていないから、助けるチャンスがあるから、だからできるだけ早く殺せ」と言いいながら、これが愛の実践だとして、アジったのである。
オウム真理教の「ポア」の理屈と同じである。
「ポア」とは「高いステージに上げる」という意味で、松本智津夫はそれを殺害するという意味で使っていた。
アメリカの原爆投下の理論にも通じる。本土決戦によって失惚れる日本人の命が救われるから、原爆投下は人道的だとアメリカでは説明された。
大量殺人の思想というのは、憎いから人を殺してやるというのではなく、まず大義なり理念に自分が命を捧げ、その後、人類の大救済計画や被害者のミニマム化といった理論になる。
『資本論』が刊行されるより前、1840年代にはマルクスは『経済学=哲学手稿』を書き、それがマルクスとエンゲルスの『ドイツ・イデオロギー』になっていった。
マルクス主義が形成される過程においては、マルクスとエンゲルスと別にもう一人モーゼス・ヘスという立役者がいた。
この3人によって、マルクス主義はできたのである。
1848年の『共産党宣言』の事典で、モーゼス・ヘスは同じ陣営にいたが、1870年代になるとヘスはユダヤ人の国家をパレスチナに建てようとするシオニズム運動の理論家となり、結局そのヘスの流れからテオドール・ヘルツルが出てきて、イスラエルの建国に繋がっていく。
つまり、マルクスの流れは、マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンという形で70数年間、ソビエト体制を作る源泉となった流れと、もう一つの流れはイスラエルの建国に繋がった流れがあった。
イスラエルは小国だが、アメリカに強い影響を与え、未だに国際秩序の混乱の原因になる国家を作ったというのも、根っこはマルクスなのである。
結局、未だにマルクスの思想が社会を動かしているのである。
資本主義を解析すると、資本の動きというのは、最終的に3つしかない。
①「商人資本形式」お金を持っている人が、どこか違う土地から何か珍しい物を買ってきて、買った値段よりも高くして売るという形式。
②「金貸資本形式」この資本はそれ自体は自立した仕組みではなく、間に商人資本が入り、貸主が商人にお金を貸付け、商人は商売をしてお金を増やして、その一部を利子として返すという形式。
③「産業資本形式」労働力と生産手段を合わせて、商品をなるべく安く生産し、なるべく高く売るという形式。
マルクスの『資本論』で重要なのは、結局価値を作りでしているのは労働力だけなんだという「労働価値説」である。
マルクス経済学の考え方は、「労働力商品化」という形で説明した方が、整合的に世の中を説明できるというもの。
日本はマルクス主義先進国だった。
相当早い段階で『資本論』も訳されており、戦前に国家社会主義者の高畠素之が『資本論』を完訳した。
それ以外にも3つくらい訳の試みがあった。
戦後には4つの完訳がされている。
更に言うと、コミュニズムという英語を共産主義という感じに訳したのは日本である。
それがのちに、中国に輸入された。中国共産党の「共産」とは日本語なのである。
「赤旗」に一昔前は、「万国のプロレタリアート団結せよ」「万国の被抑圧民族団結せよ」というスローガンが書いてあった。
でもこれは、本来一緒にはできないスローガンである。
被抑圧民族の資本家は「プロレタリアート団結せよ」と言うならば、打倒対象となる。
そこで階級の問題と民族の問題が相反する局面があるという問題が出てくる。
論理的に考えたら有り得ないはずの事を一緒にして、なんとなく納得してしまったのである。
『資本論』を読むべき最大のポイントは何かというと、目に見えないが確実に存在する資本の力を見極めるということである。
資本はお金ではない。
例えば、会社で働いている時間においては、一人一人の労働力は商品化されている。だから上司の言う事には従わないといけない。
ところが、終業後に上司から飲みに誘われても、労働外強制だから行く必要はない。
資本は必ずしもお金ではなく、ある時は商品であり、別の時は労働力であるといった運動体であり、目に見えないものなのである。
親に相当な資金力がないと、子供は高い教育が受けれなくなってきている。
例えば、早稲田大学の高等学院には、石神井校(東京都練馬区)と本庄校(埼玉県本庄市)があり、授業料が年間100万円かかる。
東京から通うとすれば本庄高等学院はかなり遠いが、石神井より少し偏差値が低い。
早稲田大学の全学部への推薦のメリットを考えて、東京から本庄に新幹線で通っている生徒が結構いて、定期代が年間70万円かかっている。
高校の3年間で500万円を準備できれば、早稲田大学への入学の切符が得られるのである。
教育では格差がはっきり出てきている。
高学歴の子供は高収入の家に育ち、そうでない所は、そもそも大学には行けないという、教育格差が固定化しつつある。
最近、都道府県別による大学進学率が発表されて、進学率が最低の鹿児島県は32.1%、最高の東京都では72.5%と40ポイントの差がある。
この20年で最上位と最下位の差は2倍になった。
モスクワ大学の経済学部には、「資本主義経済学」と「社会主義経済学」という2つの学科がある。
不思議な事に、資本主義経済学科はマルクス経済学なのである。
要するに資本主義は矛盾をはらんでいるから、それは崩壊するものなんだという、スターリン主義的な経済学である。
生産力と生産関係の矛盾で、生産力がこれだけ増えてくると、そこから過剰生産による恐慌が起きて、豊富に物がある中での貧乏が起きる。それに対して労働者が怒って爆発して革命が起きるという考え方である。
資本主義経済学科で学んだ連中は、地方大学の教員になり、『資本論』を教える。
一方、社会主義経済学科は、新古典派総合で、エリートになる連中が通っている。
サミュエルソンをベースにしていて、そのうちシカゴ学派が強くなってきた。
既に生産力の私有が無くなった社会において、ブルジョワ経済学を弁証法的に社会主義経済を建設するために活用するという立場で、完全に近代経済学である。
これを勉強した連中がゴスプラン(国家計画委員会)とかゴススナブ(国家供給委員会)に行くのである。
ソ連が崩壊してすぐに、シカゴ学派の新自由主義的な経済政策に転換できたのは、ソビエト時代に崩壊する40年前から、計画経済と言いながら、実際には新古典派総合でモデルを立てていたからである。
『資本論』を読むと、この社会の構造の限界が分かる。
『資本論』は、世の中にいつくかある役に立つ思想の一つである。
『資本論』を読んだことがあるか、あるいはある時『資本論』と真剣に対峙しようと思ったことがある人間は、左翼か右翼かは関係なく、物事を突き放して見ることができる。
マルクスは資本家見習いになる人を想定して、資本主義というのはこういうからくりになっているよ、ということで『資本論』を書いている。
一応、近代以降の理性を前提として理屈を組み立てていけば、資本主義というシステムが分かるのである。
ピケティの『21世紀の資本』で問題なのは、自分の力で変えるという発想が少ない点である。
今後も税金を徴収することで、国家に再分配してもらおう、国家にお願いするという発想なのである。
これはある種のエリート主義で、代表制なのである。
『資本論』の賃金論は、内部留保とは関係ない。賃金の額は分配ではなく、生産の段階で決まっている。
賃金というのは、
①1ヶ月働いて、次の1ヶ月も働けるだけのエネルギーが出てくるように家を借りて、食べ物や服を買って、レジャーも少しする。
②家族を養い、次の世代の労働力を生産する。
これらの欲望を満たす商品サービスを得るための価格で決まるからである。
つまり女性労働とも関係し、女性の社会進出というのは、女性の権利であるとか女性を活用するとかだけではなく、それによって男性労働者の賃金を下げることができるから女性を活用するというのが、資本主義の論理なのである。
また、③さまざまな技術革新が起きると、それに合わせて自分で学習しなければならない。
その為の費用も全部入っているというのが、賃金論だから、会社が物凄く儲かってもそれを労働者に還元しないというのが、『資本権』の論理なのである。
個々の資本に任せておくと、②と③の要素を無視して、①の要素である自分り労働力の再生産を満たすだけのギリギリの所まで賃金が下がってしまうのである。
そうなるとシステムとしての資本主義の再生産が出来なくなってしまう。
ピケティはマルクスの『資本論』を理解していない。
特に「労働力の商品化」の概念を全く分かっていない。
佐藤優氏との対談で、「賃金がどのように決まるかということに関しては、結局分からない」と答えている。
ピケティは、賃金を分配論で考えており、『資本論』の論理だとアウトである。
『資本論』では賃金は生産論で決まる。
ちなみに、共産党は企業の内部留保が多くなれば賃金が上がると考えている。
だから共産党と関係の深い全労連は、「企業の内部留保が増えているのだから、その分を賃上げに回せ」と主張している。
しかし、内部留保というのは、企業が投資をして資本を増やして行くために必要なお金であって、賃金はその前の段階で決まってしまっている。
しかし、安倍総理が全労連の主張に乗っかる形で、経団連に賃金を上げさせた。
これは実はムッソリーニと同じやり方で、イタリア・ファシズムの経済理論と同じなのである。
日本のピケティ・ブームには2つの理由がある。
最初、日本では『21世紀の資本』ではなく、『21世紀の資本論』と紹介され、「資本論」世代の郷愁を呼び起こした。
1980年代までは殆どの大学でマルクス経済学の講義があった。
2番目は、格差を扱っているということで、安倍政権に対して非常に不問をもっている人達がピケティに仮託して、安倍政権批判を語りたいという思いがあった。
この2つによってブームが起きた側面があるので、直接的にピケティの理論とは関係が低いところがある。