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2015年6月19日金曜日

日本は実質GDPではアメリカ、中国に次ぐ世界第3位だが、予算規模では歳入・歳出ともに中国を上回る世界第2位となっている。
予算額はドイツ、フランス、イギリスをかなり上回っているが、GDP比でいうとヨーロッパ諸国をかなり下回っておいる。
つまり、税負担と社会保障負担の国民所得に対する比率である「国民負担率」は、アメリカに次いで日本は小さな政府を維持しているのである。
<世界各国の国家予算規模ランキング2012年>
         歳入        歳出
アメリカ   2兆4650億ドル   3兆6490億ドル
日本     2兆250億ドル     2兆5700億ドル
中国     1兆8389億ドル   2兆310億ドル
ドイツ    1兆5110億ドル   1兆5110億ドル
フランス   1兆3410億ドル   1兆4580億ドル
イギリス     9959億ドル    1兆1830億ドル
イタリア     9566億ドル    1兆140億ドル
ブラジル    9114億ドル     8466億ドル
カナダ     6793億ドル     7468億ドル
オーストラリア 5163億ドル     5283億ドル
スペイン    4851億ドル     5843億ドル
ロシア     4130億ドル     4140億ドル
オランダ    3474億ドル     3866億ドル
サウジアラビア 3143億ドル     2363億ドル
ノルウェー   2829億ドル     2067億ドル
各省庁の予算を査定するのが財務省の主計局であり、主計局が典型的なエリートコースとなっている。
主計局で予算案の作成に直接携わるのは主査(課長補佐クラス)以下が多く、主計局長と3人の次長(部長クラス)、11人の主計官(課長クラス)は予算案の根回しに時間を割かれている。
主計官のもとには、主査が2~3人ついていて、主計官を補佐している。
この「主計官」「主査」という役職は、主計局独特の名称で、地部署では課長、課長補佐と呼ばれている。
そもそも「主計」という名称は、大昔の律令時代から使われており、国家財政の予算・決算・監査を担当した部署である「主計寮」に由来する。
かつての大蔵省という名称も、大宝律令(701年)以来、1300年もの長い期間使われてきたものだった。
財務省は人員的に本省1万5331人、国税庁5万6194人で計7万1525人と大所帯である。
経済産業省8161人、外務省5757人、総務省5245人を大きく上回る。
国税庁はその下に11の国税局と1つの国税事務所を抱え、さらにその下に全国524の税務署を従えている。
また、財務省の地方支分部局として財務局10ヶ所、税関8ヶ所がある。
全国の税関職員数は8600人で、財務省職員で唯一征服を着用し、階級章を付け、拳銃の携帯と使用権がある。
しかし、実際は行政職の国家公務員で、財務事務官や財務技官として扱われる。
このように財務省は本省と国税庁を合わせて7万1535人とは別に、地方支分部局と税関にも1万3300人がいる巨大な組織である。
外務省にも在外公館、経産省にも経済産業局などの地方支分部局があるが、それらを全て含めても外務省は6千人、経産省も1万人程度である。
日本の行政組織は1府11省、復興庁、会計検査院、内閣官房、内閣法制局、人事院から更生されている。
このうちキャリア試験合格者に人気があるのは、財務省、経済産業省、外務省、総務省で有り、試験の成績優秀者のトップグループを採用するのもこの4省である。
キャリア官僚は明治時代から「エリート」として扱われてきた。
1888(明治21)年に実施された「公開競争試験」がその原点で、これが現在、キャリア官僚の登竜門である「国家公務員採用総合職試験」に引き継がれている。
伊藤博文が1885(明治18)年の内閣制度発足時に、官僚の採用と昇進は試験によるという原則を含む「官紀五章」を打ち出し、上級官僚には大学で法学教育を修了した学生に別枠の国家試験を課し、一定の見習い期間を経たうえで世紀の官吏に採用するというシステムを築いた。
一方で、政府が求める官僚の卵を育成するために、1888(明治19)年に「帝国大学令」によって帝国大学、のちの東京帝国大学が設立され、帝大の卒業生は無試験で官僚に採用された。
公開競争試験が始まって6年後の1894(明治27)年に「高等文官試験」に引き継がれてからは、東京帝大の卒業生も試験をうけて官僚になる仕組みになった。
高等文官試験は1929(昭和4)年の高等試験令以後は「高等試験」が正式名称となり、第二次大戦後は国家公務員試験として受け継がれた。
こうした官僚システムを支えたのが、官僚育成のために設立された旧七帝国大学だった。1886(明治19)年に帝国大学(東京帝国大学)が設立されてから、京都帝大(明治30年)、東北帝大(明治40年)、九州帝大(明治44年)、北海道帝大(大正7年)、大阪帝大(昭和6年)、名古屋帝大(昭和14年)が設立された。
こうした帝大の下にハ旧制高等学校が、さらにその下に旧制中学が設立された。
そして、一中(現日比谷高校)から一高(現東京大学)、そして大蔵省というのが典型的なエリート官僚のコースとなった。
現在も財務省には「大蔵一中会」という日比谷高校のOB会があり、年2回集まって食事をしている。
ちなみに、財務省のキャリア官僚の殆どが東大出身なので「東大会」というのはない。
精神分析のフロイトが最後に書い『モーセと一神教』という本がある。
精神分析の権威が、なぜ宗教の本を書いたのか不思議に思うが、フロイトはユダヤ人であり、ユダヤ教を開始したのはモーセだからである。
この本では心理学的、社会学的、歴史学的に仮説を立てて、論理的に分析しており、仮説とは何かという点を学べる本である。
フロイトはこの本で、「モーセはユダヤ人ではなくエジプト人だ」というとてつもない仮説を立てた。
旧約聖書の「出エジプト記」は、モーセがユダヤ人を連れてエジプトを脱出する物語だが、なぜエジプトに住み続けられなかったかというと、一神教を信じたからである。
エジプトはアニミズム信仰であり、一神教とは相容れなかった。
しかしアメンヘテプ4世という王が水頭症にかかり、幻覚をみることで一神教に目覚め、首都をアマルナという地方に移した事に端を発する。
そのアマルナにはユダヤ人が大勢住んでいて、アテン神という唯一清を信仰するようになったアメンヘテプ4世が一神教の教えを広めた。。。。
というように、仮説が仮説を生み、話がどんどん展開されていく。
つまり、アメンヘテプ4世が水頭症でなかったら、ユダヤ教は生まれず、キリスト教も生まれず、イスラム教も生まれなかった、と一神教が地球上に存在しなかったかもしれないという歴史の根幹を揺るがす仮説なのである。
戦争の9割は一神教対多神教、または一神教対一神教であり、多神教同士の戦争は殆どない。
一神教が誕生しなかったら世界はどうなっていたのだろうか。

モーセと一神教 (ちくま学芸文庫)

読書家の評論家として有名な松岡正剛氏は、まさしく「知の巨人」である。
1冊の本を紹介する中で「〇〇の本ではこういっていた」という具合に、10冊くらいの本がさらりと出てくる。
他に『日経サイエンス』で連載している森山和道氏の書評も面白い。
彼は元々NHKのディレクターだったが、本を読む時間がないという理由でNHKを辞めたという。
おそらく日本で最も科学書を読んでいる人である。

1974年にフランスのブルターニュ半島のテレビ塔が過激派によって爆破され、その後1年間にわたり、この地方にあった130万台のテレビが見られなくなったという事件があった。
その1年間で、この地方で起きた変化として、みんなが本を読むようになり、本屋の収入が増え、子供は外で遊ぶようになったので健康になった。
村の人々のコミュニケーションも増え、親密になったという。
支配者階級は、読んでいる本や雑誌が明らかに一般人とは異なる。
欧米の支配者階級は『ロンドン・エコノミスト』という「経済誌の世界最高峰」と言われている経済誌を間違いなく読んでいる。
『フォーサイト』がIQ120レベルの人向けの雑誌であるのに対して、『ロンドン・エコノミスト』はIQ180レベルの読者を対象にしている言われている。
書かれている内容は、ズバリ「いかに人を支配するか」ということである。
『ロンドン・エコノミスト』の読者は、世界人口の0.2%で、この0.2%に富は集中している。
0.2%の支配層が、残りの99.8%の人達を経済支配するために、社会情勢を読み解き、政治の動きをとらえ、最新の経済ネタを仕入れているのである。
日本は『ロンドン・エコノミスト』が最も売れない国であり、日本のエリートは意識が低い。
なぜr>gが格差拡大ほ引き起こすのか、ピケティの理論の概念を整理しておく。
資本収益率rとは、資本から得た所得の比率、つまり所有している資本から、どれだけの所得を得たかということである。
これに対するGDP成長率gとは、言い換えれば所得成長率、つまり全国民の所得が前年からどれくらい増えているかというこどある。
GDP成長率とは定義上、所得成長率と同じだが、これには資本から得た所得も労働から得た所得も含まれる。
割合としては労働所得が7割、資本所得が3割程度なので、GDP成長率は労働所得の伸び率と大差はないと理解してもよい。
つまり、gは労働所得の伸び率を表す指標として使用されている。
一方、資本収益率rは資本所得の伸び率を表す指標として使用されている。
GDP成長率のうち、どれくらいが資本所得かというのは分からないが、資本収益率の増減は、資本所得の増減を表すからである。
尚、資本には公的資本も含まれるが、民間資本が占める割合の方が圧倒的に多いので、ここでいう資本所得とは民間資本の所得と理解してよい。
本来ならば、GDPを資本所得と労働所得に分けて、それぞれの伸び率を比較するのが一番わかりやすいが、そのようなデータは取れないので、gを労働所得の伸び率、資本収益率rを資本所得の伸び率と見なしているのである。
資本収益とは、資本家のものであり、一部のトップ層のものとなる。
従って資本収益率rの方がGDP成長率gより大きくなるほど、トップ層はより豊になり、ボトム層はより貧しくなる、という図式となり、格差拡大となるのである。
「格差拡大」という多くの人が何となく感じていたこと、経済学者の間では既に共通認識だったことを、ピケティは膨大なデータを整理することで、明らかにしたのである。
日本で相続税が導入されたのは1950年で、日露そして戦争の戦費調達が目的だった。
最高税率は相続によって異なり13~14%だった。
その後、最高税率は1940年に33~49%へ引き上げられ、戦後はシャウプ勧告によって1950年に90%となった。
そして1952年に70%下げられ、1975年に75%に引き上げられるまで最高税率70%は長く維持された。
1988年に再び70%に下げられた後、2003年には50%まで下がり、2015年に55%へ引き上げられた。
21世紀は、経済のグローバル化に伴い国家間の税制競争が激化し、税金の高い国から資本が流出し、資本への課税は次第になくなると考えられる。
その為、ピケティは資本にかけられる平均税率を次のように仮定している。
1913年~2012年は30%
2012年~2050年は10%
2050年~2100年は0%
この仮定により、1923年~2010年には資本収益率rより成長率gが勝っていたのが、税率の急速な低下によって、2012年~2050年には再び逆転し、その差は益々広がると予測している。
この予測の結果、ピケティはノーベル経済学賞受賞者であるクズネッツの「資本主義の初期段階では格差が拡大するが、一定のレベルを超えれば、経済成長に伴って格差が縮小する」という理論を覆した。
ピケティの推計に従えば、成長率gが資本収益率rより高かったのは、戦争と恐慌という有事が関わった時期の一時的現象でしかなく、平時においては常にr>gとなり、放っておけば格差は拡大し続けると結論づけた。
ピケティは『21世紀の資本』で、「世界的な税引後資本収益率と経済成長率 古代から20100年」のグラフで、世界規模でみた資本収益率rと成長率gの、古代ゼロ年からの推計と2100年までの予測を示している。
資本収益率「r」とは、資本から得た所得の資本に占める比率である。
ピケティは、歴史的事実として、資本収益率rは常に成長率gより大きい(r>g)という不等式が成り立つと主張している。
古代から17世紀までの成長率は極めて低く、0.1~0.2%しかない。
一方、多くの伝統農耕社会においては、資本所得は土地からのものだったはずであり、その収益率は4~5%、もっと厳しい推定を採用したとしても2~3%と推定される。
つまり、古代から17世紀の社会では、rはgの10~30倍であり、r>gが圧倒的な規模で示されている。
新興経済国のトップ1%の所得比率は、1910年から1950年の間について、最高でアルゼンチンの26%、最低でもインドの10%と、所得格差が非常に大きかった。
その後急激に下がり、1980年には4~10%にまで下落したが、1980年代以降に再び上昇し、2010年代初頭には11~20%まで上昇している。
新興国では、経済成長を急ぐ一方で、税制度が確立していない事が大きい。
国の社会保障制度などの格差防止体制が、経済成長率に追いついていないため、より不平等な社会となりやすい。
所得格差の広がりは、日本では高齢化によって説明できる。
若い時には、所得格差はなく初任給は同じだが、個々人の努力によって所得に差が出てくる。
高齢化社会では、国全体で起こる事となり、高齢者の割合が高まるほど、社会全体では所得格差が広まるのである。
ピケティの『21世紀の資本』の中で「ヨーロッパの民間資本と公的資本1870ー2010年」というグラフで、ドイツ、フランス、イギリスの民間資本と公的資本の推移が示されている。
推移は1年の国民所得に対する資本の比率で示されており、この比率をピケティは「資本/所得比率」と言っている。
これは国内の資本総額が、その年の国民所得の何年分になるかという比率である。
3カ国の民間資本は20世紀前半から所得比で大きく減少している。
1910年には国民所得の600~700%だったのが、1920年には250~450%まで落ち、更に1950年には200~300%にまで落ちている。
つまり、1910年から1950年の間に400%も減少したことになる。
この大幅な減少は、戦争による物理的な損害も関係しているが、それ以上に二度の世界大戦が財政と政治に与えた影響の方が大きく、外国資本の損失と国民の貯蓄率の低さが原因であった。
外国資本の減少の理由として、革命による収用と非植民地化ブロセスにあった。
革命による収用とは、ロシアに融資していたヨーロッパの資本家の資本がロシア革命によって焦付いた事を示している。
また植民地化プロセスとは、それまで植民地の利権で儲けていたヨーロッパの資産家が収入源を失った事を示している。
例えば、1869年にフランスとエジプトの出資で開通したスエズ運河は、この投資でエジプトは財政破綻に陥り、イギリスに保有株を譲渡し、エジプトはイギリスの保護国となった。
1956年にエジプトのナセル大統領がスエズ運河を国有化するまで、フランスとイギリスの資産家は配当と利用料を得ていた。
地上戦による住民の被害としては日本最大となった沖縄戦の正確な被害の全貌は分かっていない。
沖縄県が非公開としていた戦没者の死亡日と場所が特定できている82074人の調査記録を解析した結果、住民の被害がどのように増えていったのか、その推移が明らかとなった。
日米の戦闘が事実上決着した後に、4万6千人もの住民が亡くなっていた。
1945年4月1日の午前8時30分に、10万発を越すの艦砲射撃の援護で米
軍54万人が沖縄に上陸を開始した。
現地守備隊の日本軍32軍は、大本営より持久戦を求められたため、限られた兵力を首里にあった司令部周辺に固めた為、米軍上陸地点は無防備だった。
住民の死亡者数は4月末時点で13800人となり、首里を巡る攻防があった5月20日までの1ヶ月で新たに21600人が犠牲になっていた。
その多くが沖縄戦の直前に「防衛召集」という制度で軍に動員されていた。
防衛召集とは、戦時に現地の住民を軍に組み込み兵力を補う制度で、14才以上の男子中学生も対象なっていた。
沖縄では2万2千人以上が、軍に防衛召集され、沖縄本島の守備隊の2割に当たる数だった。
その背景には、沖縄戦の半年前に大本営が第32連隊
から本島の3つの師団のうち第9師団を除き、台湾防衛に回す決定をした為、32軍は防衛召集で兵力を補うしかなかった。
5月31日に首里の日本司令部が陥落し、事実上は戦闘の決着がついた後から1ヶ月の間で住民の犠牲者の6割に当たる46042人の住民が犠牲になっていた。
特に日本軍の組織的戦闘が終わる6月23日(牛島満司令官が自決)までの1週間の中で、6月20日には1日で5502人の住民が犠牲となっていた。
沖縄戦の戦没者20万人のうち3千人以上の遺骨が見つかっていない。