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2018年2月5日月曜日

アメリカは前科者の入国に厳しい。
アメリカでは、永遠に逮捕歴が残るので、ESTAというビザ免除プログラムが最大のネックとなる。
渡米する場合は、アメリカのB-1ビザ(商用)かB-2ビザ(旅行)を1年のうち何度渡米しても良いようにマルチエントリーを毎年取り続ける必要がある。
間違ってシングルエントリーにすると1回きりしか使えない。
カナダとオーストラリアもESTAのようなシステム採用しているので注意が必要である。
欧州も近い将来ESTAのようなシステムが始まるという。
日本は緩くて、刑期満了から10年経つと刑の言い渡しが効力を失う。
法務省がデータ消去をするとは思えないが、タテマエ上は一旦、前科が消えることになる。
執行猶予つきの懲役刑を言い渡された人は、執行猶予が終わった瞬間に刑の言い渡しが効力を失う。
実刑を受けた人は、刑期満了から10年後に刑の言い渡しが効力を失う。
全国の刑務所が定員オーバー気味になり、PFI方式で半世紀ぶりに刑務所が新設されることになり、2007年に喜連川刑務所が作られた。
ここの食事はエームサービスという三井物件の子会社が請け負っているが、コスト削減をしつつも法務省のガイドラインに従って栄養価を確保しているため、安い豚肉か鶏肉の入れ替わりで、やたらと大豆ばかり使用されるという。
刑務所のメニューは減塩だから、刑務所で一番うまいのはレトルト食品だという。
大王製紙の井川会長は、佐藤優氏からこうアドバイスを受けたという。
「井川さん、裁判官にとっては、自分の年収よりも大きいカネに関わった人間は全員悪人ですから。
裁判官は国家公務員の中では結構沢山もらってる方たけど、それでもせいぜい年収3000万円くらいが上限でしょ。
井川さんの年収には全然届かないから、井川さんは極悪人に見えるんですよ。
しかも巨額のカネをバクチに使ったなんて聞いたら、返してようが返してなかろうが、関係ない。
だから裁判で何を言われようが、こう思うしかないんですよ。
「悪かった。悪かった(運が悪かった)」
実刑判決が予想される人にとっては、拘置所にいた方がいいという考え方もある。
国策捜査の被害者だった佐藤優氏は執行猶予つき有罪判決をもらえが、執行猶予がつかない可能性も十分あった。
だったら、ある程度自由がきく拘置所で踏ん張って、本を読みまくった方が時間を有効活用できる。
拘置所で過ごした未決勾留分の日数は、刑期から差し引かれるからである。
大王製紙の井川会長が東京拘置所に入った時に、ホリエモンからのフカフカの座布団の差し入れが、本当に有り難かったという。
東京拘置所は夜には暖房が入るが、朝10時以降は暖房が切れ、昼間はかなり寒くなり、昼食を食べ終える午後1時が一番寒いという。
拘置所の差し入れには、「綿入れ袢纏(はんてん)」も喜ばれるという。
東京拘置所にいめ未決囚はまだ犯罪者と決まったわけではないので、刑務所とは違い服装が自由なだという。
拘置所は外部からの差し入れがかなり自由に認められ、中からも買い物ができる。
独房の中にいる人間がいかに孤独か分かっている上級者は、花を差し入れてくれるという。
ホリエモンに、K-1創設者の石井和義館長から花が毎日差し入れてくれたという。
明治41年(1908年)に制定された監獄法という古い法律が廃止され、2006年に刑事収容施設及び被収容者などの処遇に関する法律という新しい法律に変わった。
これは、2002年に名古屋刑務所で、刑務官が受刑者を革手錠で縛り上げて死なせ、名古屋地検特捜部が刑務官5人を逮捕した事件をきっかけに、司法制度改革が大きく進み、100年ぶりに変わった。
それまでは拘置所では1日3冊までしか差し入れが認められなかったが、本の冊数制限が撤廃された。
ライブドア事件の時に、堀江貴文は特捜検察から何をどこまで立件されるのか全然予想がつかなかったという。
弁護士からは「強制わいせつとか、全然別の事件で攻められるかもしれない」と言われ、実際に「堀江貴文に関係する700人の女性リスト」が作られたという。
携帯電話の番号とか連絡先か名刺など、700人分もリストアップされて、誰とヤッたとか、こいつとはヤッていないとか、そんなことまで調べられていたという。
大王製紙の井川会長が任意の取り調べを受けていた逮捕直前に、佐藤優氏に相談したという。
その時に佐藤氏は、「いい弁護士が2人いますよ」と紹介してくれた。
1人は光市母子殺害事件を起こした少年の弁護を担当した人権派で有名な安田好弘弁護士。
もう1人は佐藤氏の裁判を担当した大室征男弁護士だった。
いずれも刑事裁判に強いことで有名な弁護士で、井川会長は大室弁護士にお願いしたという。
大室弁護士の働きにより、逮捕日に配慮をしてもらえたという。
大正製紙は毎年「エリエール レディスオープン」というゴルフ大会を主催していて、2011年11月18~20日に大会を控えていた。
ある日、任意の取り調べが終わるときに「次回は11月22日に来てください」と言われた。
大室弁護士からは「11月22日ですか。その日に逮捕されると覚悟しておいてくたさい」と言われ、案の定その日に逮捕されたという。
東京地検特捜部には、独自捜査ができる「特殊・直告斑」、脱税事件や国税局、証券取引等監視委員会、公正取引委員会から告発を受けて動く「財政・経済班」というチームがある。
ライブドアの堀江貴文は、「財政・経済班」の副部長が取り調べを担当し、その副部長に「堀江、東京地検特捜部の副部長が出てきて取り調べをやるって、お前は30代なのにすげえ大物なんだよ」と言われたという。
また大王製紙の井川意高が取り調べを受けた時には、「井川さん、これが桜田門(警視庁)の取り調べだったら大変だよ。桜田門の連中は、酷い暴言なんていくらでも吐く。やっぱり井川さんは犯罪者としてもエリートなんですよ。留置所にぶち込まれて、所轄で調べられるのが一番下でしょ。次が本庁。次が東京地検。次は特捜なんだけど、大阪だの名古屋だの田舎の特捜もある。その上の東京地検特捜部に調べられるのは、エリート中のエリートだけなんですよ」と褒められた゛、全然嬉しく無かったという。
大王製紙の創業家三代目の井川意高会長が、2010年から2011年にかけて、カジノでの使用目的で子会社から総額106億8000万円もの資金を借入れ特別背任容疑で、2011年11月に東京地検特捜部に逮捕された事件があった。
出入金の額が巨額だったため、検査官は「与党の大物政治家への闇献金」だと勢い込んでいたという。
井川は取り調べの後半で、検察官に「もうホント勘弁てくださいよ。1円単位までカネの出入りを全部調べたけど、笑っちゃいましたよ。あなた百億円ものカネのうち99%を全部バクチに使ているじゃないですか。残りの1%は飲食と女の子のために使ったって、我々はホントガッカリしましたよ」と言われたという。
国際社会で活動していく上で、欠かせないのがキリスト教の本流に対する理解である。
仕事に役立ち、かつ現在の社会の基本にあるのはプロテスタンティズムである。
エリートは世俗化されたかたちであれ、プロテスタンティズムの論理に基づいて思考し、行動している。
プロテンタンティズム、なかんずくカルバン派は、人は生まれる前から救われる人は選ばれていて、天国のノートに名前が載っていると考える。
同時に生まれる前から、滅びに至る人も天国のノートに記されているが、そのことは我々は知ることはできない。
現実の生活において様々な試練があるが、自分は選ばれている人間だという確信を持っているから、どんな試練も乗り切ることができ、最終的には「これでよかったんだ」という人生を歩むことができると考える。
だからプロテスタントの人たちは、どんな逆境に遭ってもそれは神の試練であって救われることが前提となっているので、逆境に強い。
金融をはじめビジネスの世界で成功している人には、このような刷り込みがある事を知っておくべきである。
ただ、この論理は裏返すと、自分たちは絶対に正しくて革命は成就するから一時的な試練も勝利のためだという革マル派、中核派の人たちの発想にも通じる。
こういう目的論的な強力なエネルギーはプロテスタンティズムから出てくる。
世の中にはそういう思考の鋳型があるということである。
キリスト教はイエス・キリストがつくった宗教ではなくて、イエス・キリストと会ったこともないパウロという人が作った宗教である。
退却を事実上許さないという日本陸軍のやり方は、「生きて虜囚の辱めを受けず」という先陣訓によりイデオロギー操作で強制された。
しかし、日本軍人が降伏をしないというのはウソだということに、戦争の途中でアメリカは気づいた。
戦争の途中まではアメリカ軍は日本兵を殆ど殺しているが、途中で日本兵、特に将校は捕らえたらよくしゃべることに気付いた。
日本軍人は捕虜になることが無いという前提なので、捕虜になった時のマニュアルが無かったのである。
国際法では、捕虜になった場合、捕虜は自分の氏名と階級、生年月日と所属部隊の認識番号と個人番号のみ言えばよく、拷問で様々な事を聞き出したりすると戦時国際法違反となる。
日本軍人は、日本側に自分が捕虜になったことを通報しないという自分の願いが受け入れられれば、いくらでもペラペラ喋ることに米軍の情報部は関心を持ったという。
そこで作られたのが、アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトを中心とするチームだった。
ルース・ベネディクトは社会学者ではあったが、日本の専門家てはなかった。
日本人が何故こういうふうにして投降するのか、日本人をどんどん投降させて喋らせるにはどうすれば良いかという調査をした結果生まれたのが、日本人観の古典ともいえる『菊と刀』である。
ルース・ベネディクトは日本の軍記物、戦記物など、戦国時代の研究を中心に行った結果、日本人はよく寝返るし、降伏するということが分かった。殿様は自分が切腹すれば家臣が助かるという場合には城を明け渡すといった事例を研究し、日本人に埋め込まれた文化はそう簡単には変わらないという結論に至った。
アメリカは日本研究とは別のチームを作り沖縄研究も行っている。
沖縄の占領に向けて、特別の人類学調査を行い「民事ハンドブック」いう報告をまとめている。
これは沖縄県が翻訳して、沖縄県史の資料編として入っている。
長年の差別政策に対して沖縄人は不満を持っているが、劣等感は持っていない。この点に日本本土は気づいていないので、日本との分断はそれほど難しくないという観点から沖縄統治をおこなうべきというのが「民事ハンドブック」の基本的な内容である。
だから戦後政策の中でアメリカはある時期まで、対日離反政策をとり、いわば沖縄のアイデンティティーを強化する政策をとっている。この時に刷り込まれた遺産が、実は21正規になって芽を吹いてきているという面もある。
ソ連軍には特別な懲罰部隊という強い部隊があった。
彼らには階級章もついてなく、ボロ服を着ており、食事もぎりぎりの配給しかなく、肉は全然配給されなかった。
懲罰部隊の構成メンバーの多くがドイツ軍の捕虜になって生きて戻った人たちで、スターリンは捕虜になって戻ってくるのはスパイに違いないと認識していた。
だから彼らには、銃殺か懲罰部隊に入るかねという2の選択肢しかなかった。
ドイツの捕虜になった人たちが半分で、他の4分の1は政治犯だった。
トロツキスト、ブハーリン主義者ら、スターリンとの権力闘争に敗れて獄中にいる人たちが、銃殺か懲罰部隊への入隊を迫られた。
残りの4分の1は刑事犯で、殺人犯、強盗、放火、強姦といった重大犯罪を起こして刑務所に収容されていた連中だった。
そのため、この懲罰部隊は最前線に送られ、地雷を除去しないで戦線を突破した。
懲罰部隊の後ろには正規軍が置かれ、後ろに下がったら正規軍に射殺されたので、前に進み英雄的に戦うしかなかった。
しかも、懲罰部隊というのは存在しない事にされていた。
満州にソ連軍が侵攻してきたときに暴行略奪でひどい目に遭わされたという話をたくさん聞くが、2週間後には軍紀が改まってしっかりし、暴行略奪行為がなくなったという話も聞く。
これは最初の2週間は懲罰部隊に略奪を認め、その後、正規軍が入ってきて共産党幹部の将校は裁判権を持っているので、即決で射殺できるため、それによって軍紀を維持していたからである。
『作戦要務令』は三部構成になっている。
特に第三部はロジスティクスの話だから、今でも役に立つし、憲兵とう項目のところは社内規律を考える上で役に立つ。
しかし、『作戦要務令』には秘密指定がかかっている第四部というのがあり、毒ガスについて書かれている。
軍事機密に属するということで、毒ガスの使い方、毒ガスに関する防御法は外されて、一般の教育には使われなかった。
『統帥綱領』に関しては、企業経営者はすごく関心を持つという。
帝国陸軍を動かしたような統帥と同じようになれると勘違いしてしまうからである。
しかし実際には、『統帥綱領』は大負け戦をした時の綱領だからそこから学ぶべき事は少ない。
それに対して、『作戦要務令』は、小隊長、中隊長、大隊長など、現場で部隊を動かす人たちを教育するための基本マニュアルなので、大体どの側面に関しても、今までの経験というのがマニュアル化されている。
日本には戦前戦中に超エリート教育のシステムがあった。
陸軍士官学校を卒業した後に、しばらく軍の勤務にき、その後、各中隊から推薦された中で、さらに選抜して毎年20人くらいが陸軍大学校に進学するというシステムである。
そういう超エリートに全文を暗唱させたマニュアルが『統帥綱領』だった。
当時、陸軍大学校を卒業すると、少し細長い江戸時代の天保銭に近いような徽章をつけていた。
それにちなんで、陸軍のエリートは天保銭組と呼ばれていた。
この習慣自体は1936年に廃止されるが、この天保銭組というのが陸軍参謀本部の第一部(作戦担当)となり、出世していく。
本来、参謀本部というのはラインではなくスタッフだから意思決定はないはずである。
しかし実際には、参謀本部が戦略構築のアドバイスだけではなくて具体的な指令を出していた。
戦争が進む中、参謀本部の指示によって前線で被害が生ずるが、参謀はスタッフだから、責任を取らなくてもよかった。
実質的に無限定で無制約な権限を持つが、それに対する責任を一切負わないでよいという異常なシステムとなっていた。
だから、日本が戦争に入っていく中で、服部卓四郎や終戦の状況になると瀬島龍三、あるいはノモンハン事件以降の辻政信など不思議な人が参謀本部からたくさん出てくる。
服部卓四郎は、戦後は「服部機関」をつくり、アメリカの占領政策を進めるうえにおいては非常に重要な役割を果たす。
『統帥綱領』や『作戦要務令』について、大橋武夫という人が建帛社(けんぱくしゃ)から解説本を出している。
大橋武夫は陸軍中野学校出身では無いが、中国大陸で大橋機関をつくるなど、陸軍の諜報業務についていた。
戦後に、軍隊の方式を用いれば会社を立て直すことができると言って、兵法経営塾をつくり、あちこちの労使紛争に関与、左翼系の組合を潰して、軍隊式のシステムを作り上げて会社の経営を正常化させていった。