日本には戦前戦中に超エリート教育のシステムがあった。
陸軍士官学校を卒業した後に、しばらく軍の勤務にき、その後、各中隊から推薦された中で、さらに選抜して毎年20人くらいが陸軍大学校に進学するというシステムである。
そういう超エリートに全文を暗唱させたマニュアルが『統帥綱領』だった。
当時、陸軍大学校を卒業すると、少し細長い江戸時代の天保銭に近いような徽章をつけていた。
それにちなんで、陸軍のエリートは天保銭組と呼ばれていた。
この習慣自体は1936年に廃止されるが、この天保銭組というのが陸軍参謀本部の第一部(作戦担当)となり、出世していく。
それにちなんで、陸軍のエリートは天保銭組と呼ばれていた。
この習慣自体は1936年に廃止されるが、この天保銭組というのが陸軍参謀本部の第一部(作戦担当)となり、出世していく。
本来、参謀本部というのはラインではなくスタッフだから意思決定はないはずである。
しかし実際には、参謀本部が戦略構築のアドバイスだけではなくて具体的な指令を出していた。
しかし実際には、参謀本部が戦略構築のアドバイスだけではなくて具体的な指令を出していた。
戦争が進む中、参謀本部の指示によって前線で被害が生ずるが、参謀はスタッフだから、責任を取らなくてもよかった。
実質的に無限定で無制約な権限を持つが、それに対する責任を一切負わないでよいという異常なシステムとなっていた。
実質的に無限定で無制約な権限を持つが、それに対する責任を一切負わないでよいという異常なシステムとなっていた。
だから、日本が戦争に入っていく中で、服部卓四郎や終戦の状況になると瀬島龍三、あるいはノモンハン事件以降の辻政信など不思議な人が参謀本部からたくさん出てくる。
服部卓四郎は、戦後は「服部機関」をつくり、アメリカの占領政策を進めるうえにおいては非常に重要な役割を果たす。
服部卓四郎は、戦後は「服部機関」をつくり、アメリカの占領政策を進めるうえにおいては非常に重要な役割を果たす。
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