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2016年12月27日火曜日

「マイホーム願望」を統計データで確認すると、1955年の住宅事情調査では、住宅改善を希望する世帯の中で持ち家を志向する世帯の割合は52%だった。
それが、1966年には74%に、1969年には90%に上昇していく。
国土交通省の「建築着工統計調査報告」によると、戦後最大の着工戸数を記録したのは、1973年である。
戦前の1941年の大都市住宅調査によると当時の持ち家率は22%に過ぎず、戦前の都市部では住宅の大半が賃貸住宅だった。
それが、戦後に急速に持家率は高まり、1958年には71.2%と最大値となっている。
こうした持ち家率の上昇を後押ししたのは、1950年に施行された「住宅金融公庫法」によって、長期の固定金利の住宅ローンを供給した「公的援助」だった。
日本住宅公団も、賃貸住宅から住宅宅地分譲事業へ移行し、中間層の持家購入を促した一方で、低所得者向けの住宅供給は残余的な施策とされた。
明治末期から大正にかけて、東京の東側の城東地区一帯に住んでいたのは、元々貧した地方から東京に仕事を求めてきた流入者だった。
彼らは、日雇、土方、車夫、運送業などに従事する「都市下層民」で、当初は東京全域に点在していた彼らは、明治の中頃から「下谷・浅草区」に集まり、明治後半から次第に「本所・深川区」といった地域に定着し「貧民窟」を形成した。
大正時代には、彼ら貧民窟の住民の生活は大きく変わり、第一次世界大戦を機に、造船業を中心とした産業の発展期を迎え、本所・深川周辺は町工場が集積するエリアへと変化し、工場労働者となった下松の産業化を下支えする存在となっていった。
こうした町工場の周辺に労働者が住み、その街に商店街が発生し、下町となった。
東京の西が「新中間階級」が住む郊外の住宅地、東が「労働者階級」が住む下町という大まかな社会階層の違いが、東京の「西高東低」の原点だった。
東京が「西高東低」になった時期は、意外と古く、大正時代前後に始まる住宅地り郊外化が発端といえる。
1923年の関東大震災で東京の東側は壊滅的な状況となり、東京の住宅地が西に向かって行ったのは、この震災復興以降の以降のことである。
そして、鉄道網の発展ともに郊外化が東京の西側に向かって行った。
人が一生の間で引越しをする回数のことを「生涯移動回数」という。
簡単に算出することができない指標ではあるが、2003年に国立社会保障・人口問題研究所が出している「年齢区分別転居回数」などを根拠に、日本人の平均生涯移動回数を算定すると、4と5の間くらいになる。
この数値は、先進国の移動事情と比べると少ない数字で、アメリカの生涯移動回収はこの4倍になるという。
都市の規模が2倍になるごとに給与は10%増えるが、物価は16%高くなる

by ティム・ハーフォード 『人は意外に合理的』