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2016年9月4日日曜日

満州出身者の影響は、ずっと日本を覆い続けている。
民放ができた初期のころ、外地から帰った人材が、どんどん地方の民放や地方新聞に入っていった。
新幹線の流線形も、南満州鉄道の特急あじあ号にそっくりである。
のぞみ号もひかり号も、釜山からソウル・平壌を通って新京に行く急行列車の名前である。
ちなみに、当時は、東京駅で瀋陽とか新京と言って、切符が買えた。
当時の満鉄の車両は、ドイツ製の冷房を備えている豪華列車で、その時に満鉄にいた十河信二(そごう しんじ)が、終戦後に国鉄の総裁となり、新幹線を構想したという説もある。
満州は不思議な領域で、国籍を作らなかった。
だから満州国という国籍はなく、日本人は日本国籍だった。
満州のハルビン学院と大同学院が、日本の満州における教育機関の双璧だった。
ハルビン学院は、1920年に日露協会学校として設立され、1932年にハルビン学院と改称された。
大同学院は1932年に満州国の官吏養成学校として新京(現長春)に設立された。
両教育機関とも、国策としてロシア語教育やロシア研究を徹底的にやっていた。
上海の東亜同文書院と合わせて、この3つが日本の学問のアウトサイダーの一つの潮流を作り上げているのは間違いない。
ロシア文学には、東京外国語大学系の正統的なロシア文学者の流れとは別に、ハルビン学院、大同学院出身者たちの系譜というものがある。
ロシアはソ連が崩壊するまで、驚くべき読書大国だった。
ソ連崩壊まではポルノも含めて消費的な文化産業が入って来なかったので、読書は普通の人の娯楽だったからである。
だから刷る部数も多く、ドストエフスキーの『罪と罰』が時々刷られると、大体25万部は刷られ、それがその日のうちに完売してしまったという。
小説は10万部単位で刷るのが当時のソ連では当たり前の時代だった。
想像しづらいが、ドフトエフスキーの葬儀には5万人が参列したという。
鎌倉初期に金融の資本を担っていたのは南都北嶺で、奈良や京都の大寺だった。
比叡山は当時の日本銀行だったという人もいるぐらいで、初穂料とか荘園からの収入、牛馬の売買や座の許可、様々な通行権や航海権などを含めると、比叡山に集まるカネというのは莫大なものになった。
そうすると、それを運営する専門のお坊さんが必要になって、そういう人を借上法師といった。
これはバチカンと同じで、バチカンにも銀行担当の神父が存在した。
スペインやポルトガルが大航海時代に貿易であれだけ稼いだのに、資本主義が生まれなかったのかというと、カトリック信者は最後に教会に寄進してしまうからである。
カトリックが強いつころは、儲けて蓄積したお金を投資ではなく、寄進に回してしまうので、スペインやポルトガルでは資本主義が頼律しなかったのである。
アメリカでも、ドル札を見ると「IN GOD WE TRUST」と書いてある。
貨幣という一つの経済シンボルまでも、宗教的な色彩を否応なしに帯びざるを得ないのである。
天台宗の座主であり、当時の摂政・関白である九条兼実の弟だった慈円の『愚管抄』というのは、鎌倉時代に書かれた歴史書である。
その中で慈円は、「王朝は百代で滅び新しい王が生まれる」という百王説を唱えている。
この百王説は、いわは中国流のグローバルスタンダードの考え方であり、慈円の時代は天皇84代目だから、あと16代で100代になると日本も王朝交代があると、慈円はこれを日本にも適用した。
この慈円の説を一蹴したのが、北畠親房の『神皇正統記』であり、大日本(おおやまと)は神の国だから、百王説は適用できないということを切々と説く。
つまり慈円のドクトリンを排除することが、南朝イデオロギーを作るうえの核になると北畠親房は考えたのである。
アメリカの大統領が聖書に手を置いて宣誓する時に、「神(God)」という言葉を使うが、「キリスト」とは言わない。
キリスト教と言うと、ユダヤ教やイスラム教を排除することになってしまうからである。
アメリカで強い影響力があるのは、ユニテリアンというグループで、その特徴はキリストは偉大な教師であって、神の子ではないと考える。
この考え方に経つと、ユダヤ教もイスラム教も一神教は大体包摂できてしまう。
アメリカというのは、キリスト教国ではなく、アメリカ独自の市民宗教があるのである。
「隠し念仏」の二重構造は、実は九州にもみられ、「隠れ念仏」の一派とされている「カヤカベ教」というのがある。
彼らはかつて表向きは新道の信者として「神道霧島講けと称していたりもした。
だからカヤカベ教の家には神棚があるが、その神棚の奥に隠し仏壇がある。
カヤカベ教には、宗教的なタブーが沢山あり、鶏や牛を食べないとか、「精進日」とされている日には牛乳やマヨネーズなど、生臭いものは一切食べないという。
鹿児島県の牧薗町(現霧島市)にある小学校で、給食の時に一部の生徒が牛乳を飲まないということが、カヤカベ教の調査のきっかけとなったという。
タブーの中で、特にに鶏肉を食べないというのが、カヤカベ教徒の特徴で、その理由は天照大神が高千穂に天下りをしようとした時に、下界が霧なのか島なのかを知るために、鶏を下して確かめたという説話によるという。
つまり鶏は神の使いだから食べないというのである。
だから神道を装っていると言いながら、独特な神仏習合の傾向もあり、異端中の異端と言える。
カヤカベ教は、一切文書は残さず、全て口伝で語り伝え、2時間、3時間に及ぶ口伝をみんなが全て覚えて、それを言い伝えてきた。
しかし、近年は子孫が後を継ごうとせず、口伝を覚えようとしないので、カヤカベ教は今や絶滅しようとしている。
日本にも全然知られていない異端の宗教があるが、東北の方には「隠し念仏」という信仰がある。
隠し念仏は、真宗系だけではなく、真言密教的な要素や古くから東北地方にあった民族宗教などがかぶさって、独特の信仰を形づくってきた。
九州南部の「隠れ念仏」の信者は念仏禁止の間も本願寺と密かに通じていて、志納金と呼ばれるお布施を送り続けていた。
一方、東北の「隠し念仏」は、お寺も檀家もお布施もない在家信仰なので、本願寺からも異端、邪宗として糾弾されていた。
そのため「隠し念仏」の信者は、幕府に対しても本願寺に対しても自分達の信仰を、二重に隠さねばならなかった。
「隠し念仏」は、岩手県が中心だが、青森から宮城、福島の一部まで、独特の「講」のような形で広がっている。
かつての盛岡藩、八戸藩、仙台藩だった地域に広がっていた。
岩手は曹洞宗が多いが、「隠し念仏」の信者も表向きは曹洞宗のお寺の檀家になっている家も多い。
そういう家では、葬式や法事は曹洞宗で最初はやるが、その後に「隠し念仏」の信者が集まる儀式もやる。
この信仰は現在も続いているが、その地域の人に「今は隠し念仏はどうなっているか」と尋ねても、「そんなものは絶対ない」と断固として否定するという。
日本にも全然知られていない異端の宗教がある。
九州南部の鹿児島、熊本、宮崎の一部には「隠れ念仏」と呼ばれ信仰がある。
薩摩藩では16世紀末から一向一揆を恐れて、一向宗つまり浄土真宗の信仰を禁止する。
そこで信者達は、藩の役人に発覚しないように「ガマ」と呼ばれる洞穴に仏具を隠して、密かに法座を開くようになった。
信者達は浄土真宗が禁制になっていた300年余りの間、隠れ念仏の伝統を守り続けて、刑事になってやっと出で来る。
隠れ念仏の信者は、信仰が発覚した場合、一揆という抵抗手段を取らずに、「逃散」という選択をした。
内密に何年もかけて逃亡計画を立てて、信者の村全体が、一斉に逃げて一夜にして無人の村になったという。
子供は足手まといになるからと生まないようにし、周到な用意をしてある日一夜にして村全体が他藩に逃げていく。
16世紀にプロテスタントの宗教改革が起きて、プロテスタントの影響がポーランドとチェコとハンガリーにまで及んだ。
これに危機感を強めたカトリック側は、トリエントの公会議を開いて、イエズス会を作る。
イエズス会というのは、実質的には反宗教改革のための軍事集団で、ローマ教皇直轄の親衛隊として徹底的な軍事訓練を積むのである。
この軍事力を背景に、ポーランド、チェコ、ハンガリーまで攻め込み、勢い余ってウクライナ西部まで侵攻してしまった。
プロテスタント討伐なのにもかかわらず、ロシア正教のところまで入ってきてしまったのである。
ロシア正教はイエズス会から圧力を受けても、伝統や儀式を絶対に改めたくないと反発した結果、ローマ教会は妥協案を示し、儀式は今まで通りでノンキャリア組の新夫も妻帯してもよく、イコンも拝んでもいいという例外的な協会を認めた。
講師て誕生したのが、「東方典礼カトリック教会」あるいは「ユニイット教会」と呼ばれる教会である。
だから宗教的に、ウクライナ東・南部と西部とはなったく異なるのである。
ちなみに、ロシア語で「イエズス会士(イエズイーティ)」というと、「ペテン師」の意味になる。
チェコにシュコダという名門の自動車会社がある。
現在はフォルクスワーゲンの傘下となっているが、元々は兵器会社だった。
シュコダの技術を利用して、アンドレ・シトロエンは前輪駆動者を作ったという。
シュコダという名前は、チェコ語では「破滅」という意味である。
シュコダが原子炉も製造しているというのは、象徴的でなかなかユーモラスでもある。
ゴルバチョフが節酒令を出したことで、1988年から1990年にかけて、ウォッカ不足が起きたことがある。
禁酒令のようになり、ウォッカを作らなくなったのである。
するとまず、砂糖とイースト菌が町中から無くなり、密造酒が作られた。
その次、ジャムやジュース、トマトケチャップが町中から無くなり、これも酒を造る事ができるからである。
次に無くなるのが、歯磨き粉、オーデコロンだった。
オーデコロンのエチルアルコールを飲むのである。
そして最後に無くなるのが、靴クリームで、黒パンの上に靴クリームを山盛りにのせて、一晩寝かせると、アルコール分だけがパンに吸い取られるので、クリームの部分は切って捨てて、残りのパンを食べてアルコールを摂取するのである。
ロシアでは100キロを超えても太っていると言わない。
ロシアで「太る」とは120キロを超えてからである。
なぜかというと、ロシアの家庭用のヘルスメーターは120キロまで測れるからで、120キロを超えると、ヘルスメーターを2台買ってきて片足ずつ乗せて、合算して体重を測るという。
だから120キロまでは、一応標準的な人間の枠内ということになる。
ウォッカの語源は「ヴァーダー」、つまり水である。
だからウォッカというのは、ロシア人にとっては「お水ちゃん」といった語感なのだという。
1980年代半ばにゴルバチョフのペレストロイカが始まるまでは、ソ連は非常に閉ざされた国家で、外国人が旅行をするのも一苦労だったという。
当時、ソ連を旅行する時には、インツーリスト(ソ連国営旅行社)と提携している日本の代理店から、航空券あるいは船舶券、鉄道券、ホテルの予約だけでなく、空港や駅からホテルまでのタクシーと出迎え人、さらに一都市3時間の観光ガイドを雇う契約をして、費用を全て振り込まないと、ビザが発給されなかった。
当時のソ連のビザは挿入紙方式で、現在の北朝鮮と同じで、パスポートの本体にスタンプを押さないようになっている。
これは、東西冷戦下でスバイ活動や革命運動をやっているから、ソビエトに行ったという渡航の記録が残るとまずい人が沢山いたからである。
だから観光客も含めて全員、渡航記録が残らない仕組みになっていた。
上野動物園に行くと、日本の地方が相当大変になっている事が分かる。
どういうことかと言うと、上野動物園でゴリラの数が、最近増えているのである。
バブル期に、地方の動物園の多くがゴリラを飼ったが、飼えなくなったり、動物園が閉鎖したりした結果、それらのゴリラが上のにやってくるのである。
だから一頭一頭のゴリラが、何々動物園から来たという来歴が表示されていて、バブルのツケを上野動物園が払わされている。
スターリン直属に「スメルシュ」という防諜部隊があり、ドイツ軍の捕虜になったソ連兵やレジスタンスに入り込んでいるスパイを取り調べる組織があった。
ロシア語で「死」のことを「スメルチ」と言うが、「スメルシュ」というのは、「スメルチ・シュピオナム(スバイに死を)」の頭文字を合わせた言葉である。
スメルシュは組織的には、KGB(国家保安委員会)の前身であるNKVD(内務人民委員部)に所属しているが、裁判なしに脱走兵やドイツ軍に寝返った兵士を処刑する権利を持っていた。
スメルシュは、その場で射殺し、街頭で殺しっぱなしで死体も片づけなかったという。
『捕虜大隊 シュトラフバッド』という映画は、ロシア人のものの考え方を知るのに格好の教材である。
2004年にメシアで放映されて話題になり、日本でもDVDが発売されている。
タイトルの「捕虜大隊」というのは囚人部隊や懲罰部隊と言われる部隊の事である。
ソ連の囚人部隊というのは、はんぶんがドイツ軍の捕虜うになって逃げ帰ってきた人達で、四分の一はトロツキストやブハーリン主義者など、1920年代から30年代の粛清裁判で反スターリン派にされた人達で、残りの四分の一は殺人犯や強姦犯、刑事犯罪人で構成された。
階級章は剥奪されていて、戦争ではスターリンから一歩も後ろに引くなという命令を受けており、もし後退したら後ろに控えている世紀部隊から撃ち殺される。
囚人部隊はソ連崩壊までは存在しないものとされ、歴史から完全に消し去られていた。
彼らはろくに食事も与えられず、地雷源の突破など最前線で危険な戦闘をさせられた。
満州や北朝鮮にソ連兵が攻めてきて、大変な狼藉があったと記録があるが、囚人部隊が一番最初に来ていたと思われる。

捕虜大隊 シュトラフバット

日本とロシアは隣国であり、隣国である以上、コンスタントに専門家を養成せねばならない。
そういう点で、コンスタントにロシアの専門家を養成しているのは、イギリスである。
イギリスは、ロシアは怖い国だということを、いつも国民に伝えるようにしている。
例えば、2002年から2011年までBBCテレビで放送された『スプークス(Spooks)』という人気ドラマがあり、日本でも『MI-5 英国機密諜報部』というタイトルでDVDで見る事ができる。
「スプークス」とは英語で「幽霊」という意味で、それから転じて秘密警察のことを指している。
このドラマでは、後半でソ連やロシアの脅威が全面的に取り上げられ、ロシアが脅威であることを刷り込むと同時に、だから人材作りが必要という意識をイギリスは常に持っている。

MI-5 DVD-BOX I

「人間は一生のうち逢うべき人には必ず逢える。
しかも一瞬早過ぎず、一瞬遅過ぎない時に」
by 森信三(哲学者)
戦前の言論統制が厳しかった時代に、軍部に物を申すような骨のある新聞記者がひとりいた。
明治末から昭和初期にかけて、長野県の地方紙である「信濃毎日新聞」の主筆を務めた桐生悠々(きりゅう ゆうゆう)である。
満州事変の2年後に、5・15事件の翌年という時期に、日本で軍部の台頭が進みつつあった1933年8月11日に、悠々は信濃毎日新聞に「関東防空大演習を嗤う(わらう)」と題した社説を書いた。
その2日前の8月9日から陸軍が首都圏への空襲を想定して、初めて大規模な防空演習を実施した。
それを受けて、悠遊は「首都が空襲されるような状態だったら戦争は負け。こんな演習を行っても役に立たないだろう」と批判した。
悠々は当然、軍部よりにらまれ、長野県の在郷軍人会は信濃毎日新聞に謝罪と悠々の解任を求めて、不買運動を起こして圧力をかけてきた。
結局、悠々は新聞社を守る為に自ら主筆の職を退くことになる。
悠々は、この社説よりも前の1912年、崩御した明治天皇の大葬の儀の日に、乃木希典将軍が夫人とともに殉死した時にも、「悪い習慣だ」と批判した記事を書いている。
悠々の記事は、長野県の地方紙であって、東京の大新聞ではないにも関わらず、この記事は世の中に大きな影響を与える力を持っていた。
信濃毎日新聞には、かつて桐生悠々という反骨の記者がいたということを、今も誇りに思っていて、長野市にある本社には彼が使っていた机がそのまま残され、展示されている。
天皇陛下や皇族に関する新聞記事は、可能な限りきっちりと四角いスペースに収まるようにレイアウトされる傾向がある。
一般の記事は分量や写真の有無により、段組みが凸凹になることがよくあるが、皇室報道は綺麗な四角形の形になる事が多い。
これは新聞社による皇室への経緯の表れである。
歴史的にみると、メディアは戦争報道によって成長してきたという側面がある。
例えば、日本の放送メディアだ第二次世界大戦よりも前の1925年に、NHKの前進である社団法人東京放送局によるラジオ放送からスタートした。
その翌年に「社団法人日本放送協会」が設立され、日本全国でラジオ放送が聴けるようになった。
当時から日本放送協会は、現在のテレビ受信料のように、ラジオ聴取料を徴収して経営を成り立たせていた。
当時のラジオ受信機は非常に高価だったこともあり、聴取料は大した収入にはならず、ラジオ局の経営は楽ではなかった。
その状況を変えたのが、1937年に始まった日中戦争で、戦線が広がるにつれて、戦場に行っている父や夫、息子の事を案じて、誰もが一刻も早く情報を知りたいと多くの国民が高価なラジオを買ったため、日本放送協会の経営は大きく改善されていった。
戦争報道によって、メディアが視聴者や読者を増やすのは、世界中で共通の歴史的経験則である。
2015年4月17日に、自民党の情報通信戦略調査会が、NHKとテレビ朝日の報道番組で、「やらせ」や政治的圧力があったとされる問題に関して、両社の経営幹部を呼び出し事情聴取を行った。
これが欧米の民主主義国で起こったら、大変な騒動になったはずである。
放送局の放送内容に関して、政権与党が事情聴取のために放送局の幹部を呼び出すとは、言論の自由・表現の自由に対する権力のあからさまな介入であるとして、政権基盤を揺るがしかねない事件になるはずである。
放送法は、実は権力の介入を防ぐための法律である。
放送法の目的は第1条に書かれ、第2項では「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること」と定められており、表現の自由を確保するための法律となっている。
放送局が自らを律することで、権力の介入を防ぐ仕組みになっている。
この点に関して、さらに第3条で明文化されており、「放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない」と定められている。
戦前の日本放送協会が権力の宣伝機関になっていたことへの反省を踏まえ、放送局が権力から独立したものになるような仕掛けにしたのが放送法である。
自民党には「法律に定める権限」は無いので、放送局に対して干渉することはできない。
つまり、自民党の放送局への事情聴取こそが、放送法違反になりかねない行為なのである。
放送法では、「政治的に公平であること」「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」などが定められており、偏向せず多角的な視点による情報を伝えねばならないと決められている。
報道機関であるテレビやラジオは、電波という限られた資源を使っており、電波は国民の共有財産でもあるからである。
電波を使って一方的な論説や偏った報道をしてはダメということである。
その考え方が端的に表れているのが、「論説委員」と「解説委員」である。
新聞社には論説委員がいるが、放送局には論説委員はおらず、解説委員がいる。
論説とは物事の是非を論じたり持論を首長したりすることであり、新聞社は自由に自分達の主義主張が言えるので論説委員がいる。
それに対して、放送局は偏ったり持論を主張したりすることができないので、あくまで「解説」をするだけとなるので、解説委員という言い方をするのである。
総務省から「解説委員と呼べ」という指示がある訳ではないが、放送局側の自主的な判断でそうしている。
2011年3月11日の東日本大震災に伴う福島第一原発事故が発生して以降、論調が明確になった新聞が、東京新聞である。
東京新聞は全国紙ではなく、中日新聞東京本社が発行する東京のブロック紙で、発行部数も50万部ほどで、在京各紙の中でも規模が小さい新聞である。
その東京新聞が、原発事故を境に「反原発」という主張を明確に家が蹴るようになって。
首相官邸前で毎週金曜日に行われた抗議集会、いわゆる「金曜デモ」を毎回必ず大きく取り上げたのが東京新聞だった。
ある時、一日だけ集会を掲載しなかった際には、読者から抗議が殺到し、この抗議に対して東京新聞サイドがお詫びをしたことがある。
誤報でも名誉棄損でもなく、報道しなかった事に対するお詫び記事を出したのである。
こうして「東京新聞=反原発の論調」という構図が出来上がり、今や東京新聞の個性ともいえるようになった。
時代によって新聞社の体制など色々な事情で論調が変わってくることがある。
その昔、読売新聞は反権力意識が強く、社説にもそうした論調が色濃くにじみ出ていた。
1950年代から60年代の読売新聞は、社内では社会部が大きな力を持っていたために、反権力の報道が多く、その内容にも定評があった。
ところが、次第に反権力報道に勢いが無くなり、政権寄りの報道が多くなっていく。
その原因は、現在の読売新聞グループ本社代表取締役会長・主筆である渡邉恒雄氏の存在である。
政治部に籍を置いていた渡邉氏が頭角を現し、それに伴って政治部が強い力を持つようになった。
つまり、新聞社内のどの部署が、力を持つかで、その新聞の論調が大きく変わってくるのである。
報道の世界では、政治部系の人が出世していくケースが多い。
新聞社だと編集局長、テレビ局だと報道局長になるのは大抵、政治部の出身者である。
現在、多くの日本の新聞社では、花形で出世の最短コースは政治部、その次が経済部、そして社会部という序列が出来上がっている。
不買運動による部数減で思い起こされるのは、満州事変を境にした朝日新聞の論調転換である。
満州事変直後の朝日新聞は、軍縮を主張し軍の暴走を戒めるという論調だった。
特に大阪本社、いわゆる「大阪朝日」は自由主義の論調が強くて軍部批判も際立って厳しく、戦争拡大に反対するキャンペーンも行っていた。
これに対して軍部や在郷婦人会、右翼団体などから強く反発され、不買運動を起こされ、朝日新聞の販売部数は大きく落ち込み、このままだは全く売れなくなるという危機感が生まれた。
そこで、ある日突然、論調の方針転換をし、いきなりイケイケドンドンの軍部擁護に、論調が180度変わった途端、販売部数が増え始めた。
朝日新聞では、こうした自社の歴史を『新聞と戦争』という書籍にまとめており、その中で報道機関としての自らの行動を検証している。

新聞と戦争 上 (朝日文庫) 

イギリスの哲学者アイザイア・バーリンが提唱した概念に、「積極的自由」と「消極的自由」という、2つの自由がある。
消極的自由は、他社から心の中で思っていることを表現するのを強要されないこと、あるいは職業を自分で自由に選択できることをいう。
その部分は国家の干渉を受けない、あるいは外部からの干渉を逃れるということである。
そして選挙において一番重要なのは「棄権の自由」が担保されていることで、自分の内心を表明しない自由があるという。
それに対して「積極的自由」というのは、自分の意思を表現したり実現できたりするような社会的な環境を整えることである。
ミニマムな生活水準は国家が保障して、それで真の自由が確保されるということになる。
国家が全ての国民に仕事を見つけるとかだが、これが行き過ぎるとナチズムや共産主義のような全体主義となってしまう。
積極的自由の立場では、選挙は何よりも重要となり、投票率が低くなってくると、選挙に行かない者には罰則を設けるという発想になる。
選挙に行かない人は意識が低く、自分の権利を行使できないので、そのチャンスほ与えてやるのが選挙だという理論となる。
アナーキズムには2種類ある。
一つは、人間というのは弱肉強食で、最後は強い者が勝つ宿命にあるという考えで、歴史的にはドイツの哲学者のマックス・シュティルナー、あるいはニーチェの考え方である。
徹底した破壊思想になるが、同時に弱い人間が強い人間に従うという形で独裁制への道を開く可能性がある。
もう一方は、ロシアの思想家クロポトキンなどの考え方で、人間は掘っておいても皆で協力する性質があるというもの。
実は『ファーブル昆虫記』を最初に日本語に訳したのは、大杉栄で、彼のアナーキズムは後者である。
昆虫の社会には、国家はないけれども秩序が維持されており、そういうものが元々埋め込まれている。
だったら昆虫でできることが人間にできないはずはない、国家というのは人から何かを収奪するモデルだから、アナーキスト達は昆虫の社会に非常に関心を持ったのである。
日本の政治家は、マキャベリの『君主論』を読んでも、リアルな感覚を持たず、関心をって呼んでいる人は少ない。
ましてや、マラパルテの『クーデターの技術』などは誰も読んでもいない。
しかし、このような権力を奪取する技法について、欧州の政治家はみんな読んで勉強しているという。

今の日本国憲法はアメリカから押し付けられた「押しつけ憲法」だという議論があるが、重要なのは手続きではなく内容である。
押し付け憲法論というのは、「国民が主体的に決めた憲法じゃないからダメだ」ということで、確かに現行憲法は占領下で改正手続きを取って作られたものであり、改正の限界を超えているような要素もある。
しかし、それを日本国民に押し付けたからダメだという手続き論でいうならば、戦前の大日本帝国憲法も、国民が主体的に決めた憲法ではない点で、押しつけということになる。
大日本帝国憲法は、当時の諸外国との不平等条約を撤廃させるために、諸外国に「日本は文明国なんだ」とアピールするために作ったもので、一種の外圧によって、国民が一切緩和しないところで、官僚の側から出てきた欽定憲法なのである。
日本のこれまでの通説は、憲法学者の宮沢俊義が唱えた「八月革命節」で、1945年8月のポスダム宣言を受諾した時に、主権が天皇から国民に移ったというものである。
ところが、法制度上では、大日本帝国憲法と日本国憲法には連続性があり、現在の憲法は手続き上は大日本帝国憲法の改正によって成り立っている。
占領下に制定された憲法が友好なのか、そもそもそんな時に国体を変更するような改正ができるのか、というのが「手続き論」の問題である。
保守派の一部では、「現行憲法は占領下の国際法的な意味合いしかもたない、だから現行憲法を廃止すれば、日本は独立しているのだから、直ちに大日本帝国憲法が回復する」という考えがある。
しかし、これは国際的には全く説得力はない。
日本国憲法が制定されてから70年近くに渡り、日本は一度も国家として改正や異議申し立てを行っていないので、国際的な常識として考えると、それは「受容している」と見なされても仕方ない。
「積極的平和主義」というのは、元々は北欧で唱えられていた「安全保障メカニズムによって監視システムなどを作って戦争をできない体制にしていく」ことである。
最近の日本で言われているのは、それを一歩進めた変形バージョンであり、元外交官の伊藤憲一氏が『新・戦争論』で書いた考え方である。
第二次世界大戦後、国連の体制で戦争が違法化されて犯罪となり、それを国連の安全保障理事会が平和維持行為として取り締まるという体制になった。
この警察活動に協力することが平和主義だというわけで、だからイラク戦争も「戦争」ではなく、平和を維持するための「制裁行為」だととらえるのである。
つまり、「平和のために戦争に参加しよう」ということで、積極的平和主義というのは戦争をすることなのである。
近代的な物の考え方は、基本的に「唯名論」でできているが、例外的にイギリスでは近代以降もずっと「実念論」が影響を持っているため、イギリスには成文憲法が存在しない。
しかし、イギリスでは憲法は「目には見えないけれども確実に存在する」ものなのである。
文書が必要となるのは、具体的な状況で何かトラブルが生じた時や、イギリスという国家を作っている原理が何なのか分からなくなった時、あるいは国家で大きな議論が出た時だけで、それが1215年の「マグナ・カルタ」であり、1689年の「権利章典」だったわけである。そして判例が非常に重要になる。
成文憲法は、イスラエルにも存在しない。
イスラエルの原理は、アメリカのように色々な人々が集まったきた契約でできた国ではなく、根本の所に神様との契約があって、それは絶対に動かすことができないからであり、だから成分憲法は必要がないのである。
ただし「帰還法」という法律はあり、そこではイスラエルの国籍を取得できるのは、ユダヤ人の子・孫、ユダヤ人と結婚した者、ユダヤ人への改宗者と定められている。
この法律が、イスラエル国家を成り立たせる基本になっている。
逆に言えば、アメリカで合衆国憲法や州憲法があるのは、枠組みを言語化して、誰でもはっきり分かる形にしておく必要があるという事なのである。
2013年に安倍政権は4月28日を「主権回復の日」とした。
この「主権回復の日」は1952年4月28日に、サンフランシスコ平和条約が発効し、連合国軍による占領が終了したことにちなむものである。
しかし、この条約で沖縄ほ含む南西諸島や南方諸島は、アメリカの占領統治として残され、「主権回復」とはいうものの、サンフランシスコ平和条約第3条では、沖縄と奄美と小笠原を切り離したのである。
つまり、1952年4月27日までは、日本には平等に主権がなく、平等に占領下だったが、4月28日の主権回復を境に、不平等となってのである。
小笠原と奄美では、もう既に過去のことになっているが、沖縄については日本国土の0.6%しかないのに、日本にある米軍基地の74%があるという、この不平等な状況が現在も続いている。
「構造化された差別」が沖縄との間にまだ残っている。
ナチス憲法というのは実際には無いが、憲法と違う法律や解釈によって成文化されていない「ナチス憲法」ができるという、当時のドイツの法学者オットー・ケルロイターが唱えた憲法理論があった。
オットー・ケルロイターの著書である『ナチス・ドイツ憲法論』という本が、戦前に岩波書店から出版されている。
総理大臣をはじめ「国民の代表」であるはずの政治家が、立憲主義を否定するような発言を続けている状況は、国際社会からみると、この「ナチス憲法」と今の日本は二重写しになってしまう恐れがある。