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2016年9月26日月曜日

西南戦争で参謀重視の体質を陸軍にもたらした一方で、新政府は暗号技術を随分と磨いていた。
土佐が薩摩に呼応して立つのではないかと、土佐に対して情報工作をし、スバイを山ほど送り込んでいたという部厚い資料が、防衛省防衛研究所戦史研究センターに残っている。
戦後、自衛隊で暗号の組み立てを担当していた長田順行氏の『西南の役と暗号』には、「西南の役は、有線通信網の整備が着々と進められている最中に起こった。開戦準備中に東京ー京都ー熊本間に有線電信が整備されていたことは、情報の収集、部隊の集中移動、警報の伝達などに計り知れない効果があった」と書かれている。
この暗号戦の総大将は、なんと西郷隆盛の弟の西郷従道だった。
このように当初は、情報を大事にしていたにも関わらず、その後は日本陸軍も海軍も重要視しなかった。
日本海軍にとって大きかったのは、大正10年のワシントン海軍条約で、イギリス5、アメリカ5、日本3という艦艇保有比率が決まったことである。
慌てて昭和3年に海戦要務令を第三次改定するが、昭和5年にロンドン海軍軍縮条約で、さらに艦船の数が制限されてしまう。
そこで出て来たのが、軍縮体制の破棄と更なる大艦巨砲主義への邁進であり、戦艦の数が制限されるのならば巨大な艦を造って質で対抗しようという流れになった。
昭和9年12月にはワシントン軍縮条約の破棄を通告するが、同年10月には戦艦大和の建造案が提出されている。
大和は艦幅が40メートルで、主砲が46センチだった。
アメリカの戦艦はバナマ運河を通るために幅が32メートルまでに制限されていたので、主砲も40センチが精一杯だった。
アメリカの戦艦の砲弾が届かない距離から、大和が主砲をぶっ放せば米艦隊は殲滅できるという、見当違いの方向に進んでしまった。
つまり、日本海軍には世界戦略は無かったのである。
本気でアメリカを征服するならば、パナマ運河を通って、ワシントン、ニューヨークを叩くしかない。
しかし、大和も武蔵もバナマ運河を通れず、あくまでも日本の勢力圏を防衛することしかできない作戦を立てていたのである。
そして昭和12年に、全ての軍縮条約から脱して、いよいよアメリカとの決戦に備えて海戦要務令を改定し「対米漸滅邀撃作戦」を定めてから4年後に日米の戦闘が始まる。
昭和15年には零戦も存在し、航空戦力も潜水艦もその技術は飛躍していたが、海戦要務令の改定は、それ以上は行われないまま戦争に突入していく。
第一次大戦では、戦艦同士の艦隊決戦は殆どなかったが、唯一といっていいのが、1916年のユトランド沖海戦だった。
デンマークのユトランド半島沖で、ドイツ海軍とイギリス海軍がぶつかり、ドイツの巡洋艦によってイギリスの戦艦が大打撃を受け、速力と運動性に優れる軽量艦による奇襲作戦の重要性が認められたのである。
そこで日本海軍は大正9年に開戦要務令の第二次改正を行う。
潜水艦や軽快部隊による先制、夜襲などの新しい作戦が盛り込まれたが、戦略そのものは「敵主隊の攻撃」と、全く変わっておらず、50点の戦艦を狙うというものだった。
日本海軍は、兵器の面で次の主役はバカでかい戦艦ではなく、航空機や潜水艦など、大量生産、大量投入する兵器の時代になるという方向性がはっきりしていたのに、キャッチアップができなかったのである。
海戦において技術の進歩が戦い方を一変させるのに、日本海軍は付いていけなかった。
第一次世界大戦では、「通商破壊」とそれに対するシーレーン防衛が、重要な戦略となった。
イギリスに対して海軍力で劣るドイツは、潜水艦や軽巡洋艦で、イギリスの輸送船を攻撃する。つまりシーレーンを攻撃することで、兵力、物資に多大な影響を与えるだけではなく、イギリス側はシーレーンの防衛に相当の戦力を割かねばならなくなった。
第二次大戦では、アメリカも日本に対して、徹底的な通称破壊を行っている。
ところが日本海軍では、通商破壊という発想は全くなかった。
理由は、海軍には戦闘における各艦の論功行賞をハッキリさせるための点数制があり、戦艦や空母を沈めれば50点、巡洋艦なら30点、これに対して輸送船は5点しかなく、輸送船を攻撃するインセンティブが無かったのである。
官僚体質を持つ陸軍に対して、合理的でスマートなイメージがある海軍だが、陸軍に負けず劣らず、組織の存続を第一義に置いていた。
それが最もよく現れていたのが、海軍の作戦方針である「海戦要務令」で、この変遷を見ていくと、日本海軍がいかに状況の変化に対応しきれなかったかが分かる。
海軍の「海戦要務令」は戦い方のマニュアルであり、陸軍の「統帥綱領」とは考え方は異なる。
陸軍の「統帥綱領」には、統帥とは指揮官が軍を指揮して運用することについて、つまり「国体」を守るために自分達はどのような機能を果たすかについて書かれている。
海軍は陸軍と違い組織の規模が陸軍の10分の1以下と小さいので、自分達が国家の骨幹になろうとは考えず、技術者集団だから統帥綱領といったものを全く考えていない。
ちなみに、終戦末期の昭和19年頃に海軍版の「統帥綱領」を作ろうとした形跡はあるが、完成しなかった。
海軍は戦闘に勝つことだけを考えていたが、海戦要務令を改正したと思ったら、世界で新しい動きが起き、いつも後手に回ってしまい、海軍は最後まで戦い方が分からなかったのが事実である。
最初の開栓要務令は、明治37年の日露戦争に備えて作られている。
日本海海戦の歴史的大勝利は、海戦要務令で闘って買ったとされてきたが、むしろ参謀の秋山真之による運用面の改革が大きかった。
例えば、「敵艦見ユ」を「タタタタ」、「ナナナナ」は「敵を攻撃せよ」、「カカカカ」は「敵と接触を保ちこれを監視せよ」とするなで、命令伝達のスピードアップを図った。
しかし、日本海海戦の勝因は、戦闘艦同士の勝負で勝ったことと、敵艦隊の進路をふさいで一斉砲撃を浴びせる「丁字戦法」で勝ったということになってしまった。
明治43年の海戦要務令の第1回改正を経て、大正元年に本格的な改正を加え、日本海海戦の展開そのままを、戦い方のスタンダードに決めてしまい、艦隊決戦思想に縛られて、太平洋戦争に突入してしまう。
派閥の「閥」という字は門構えの中に伐と書く。
伐とは戈(ほこ)で人を撃つの意味で、すなわち戦いである。
「馬上天下を取る」という言葉通り、戦に勝って凱旋した者が家の門のところに、功名を挙げたことを麗々しく書いた紙を張り出す。
これが閥なのである。
そこで派閥とは、戦いに勝って凱旋した者を中心にして集まった小グループのことで、すごく団結力が強い。
だから派閥が崩れると混乱が起こり、統率がきかず、下剋上が起きやすいということになる。
外務省には「事務連絡」という、ですます調で書く電報がある。
全くの事務的な連絡であり、正式な外交連絡ではない。
しかし、実は危ない話は全て「事務連絡」でやりとりされている。
更にもっと凄い「部内連絡」というのもあって、青色の紙の特殊な電報で、この存在を知らないまま外務省を去っていく人も多いという。
スパイ事件、大臣の悪口、他省庁の役人を陥れること、幹部の不祥事などに関するもので、一切存在しないことになっている電報で、特殊暗号を組んで作られる。
危ない電報や情報の責任者は、本省では局長で、その上の統括責任は官房長が負うことになっているが、実質的には官房長が何かを指示することはなく、不祥事が起きた時に責任を取るだけである。
だから実質の責任者は局長である。
但し、局長が電報の発信を止めることはまずないので、本当の責任者は課長であり、結局のところ大変な権限の委譲が行われている。
そして気の弱い課長だと、30歳前後の課長補佐や事務官に牛耳られてしまう。
そうやって下剋上が起きるのである。
ちなみに、在外公館では大使が権限者となる。
日本陸軍には、派遣参謀という制度があり、参謀総長の命を受けた参謀が、前線に派遣されて陣頭指揮を執ることができた。
派遣参謀は中佐くらいにもかかわらず、将官である軍司令官よりも現場の参謀長よりも遥かに上の権限を持っていて、参謀の勝手なふるまいが許されるようになってしまった。
しかも失敗しても参謀は責任を取らなくてもよかった。
最悪の例が辻政信で、中央に返り咲いた辻は、ガダルカナルの戦いでもビルマ戦線でも、派遣参謀の地位を利用して愚かな作戦を強要した。