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2017年12月10日日曜日

安倍政権は、2016年7月の参議院選挙の直前に、ノーベル経済学賞受賞者のポール・クルーグマン教授をアメリカから呼び寄せて、アベノミクスの経済政策の正しさを裏付けさせようとした。
実際には、クルーグマンは自身が「異次元の金融緩和」を提言しておきながら、『ニューヨーク・タイムズ』(2015年10月20日付)で、「想定している以上に量的緩和の効果が出ない原因は、本質的かつ永続的な日本の需要の弱さに根差している」と敗北宣言ともいえるコラム「Rethinking Japan」を寄稿している。
つまり、あれだけ猛烈な資金供給をしたのに、なぜ物価も上がらず消費も伸びないのか、訳が分からないというのである。
バブルが弾ける前の1989年には、日本人の個人金融資産は1000兆円だった。
その後、日本は「失われた25年」と呼ばれる長期停滞に突入するが、この25年間で個人金融資産は700兆円も増えている。
その1700兆円の大半を、65歳以上の高齢者が持っている。
安倍政権で産業競争力会議という舞台が新たに作られ、竹中平蔵氏が委員となった。そこで議論されている政策は「労働の自由化」一本槍である。
さらに国家戦略特別区諮問会議も竹中平蔵氏が仕切っている。
家事代行サービスを実現して、パソナがそれを受注するという、分かり易い構図である。
菅義偉官房長官は、竹中総務大臣の時代の副大臣だったので、この二人は直結している。
菅官房長官は、橋下徹をものすごく評価しており、橋下氏の選挙を一緒に応援したのがパソナの南部氏だった。
2016年春から外国人の家事代行サービスが始まるが、受注するのはパソナとダスキンだった。
しかも特区としてやるのが神奈川県と大阪府である。
在外大使館には、日本から来る客のアテンドのランクが5段階あるという。
一番下のランクは、何か頼み事をしてきたら館員がしかるべき対応をしてあげる。
下から2、3番だと担当官が相手をする。
日本から学者が来るとか絵描きが来るだとかする場合は、これに当たる。
ちなみに、ドイツ大使館に吉田茂元首相が来たときには、大使館あげての最高級のアテンドとなったという。
財務省には予算や税制があり、厚生労働省には社会保障や労働行政がある。
知的財産の分野を所管しているのは文部科学省であり、商法上で企業政策、産業政策をやろうとしたら法務省になる。
独占禁止法を持っているのは公正取引委員会である。
経済産業省には存在意義がない。
せいぜいエネルギーと特許くらいであり、経済産業省が経済政策で動くべき基盤と政策ツールは殆どない。
しかし、政権にとって一番使い勝手がいいのは経産省で、よく勉強しているし、民間企業や研究者とも頻繁に接触している。
オープンマインドで素早く問題点をとらえ、政策提言ができる政策集団は他にない。
経産省はに存在意義はないが、求められれば政権にアイデアを出せるシンクタンクのような存在なのである。
一億総活躍などというのは、昔ながらの通産省の発想である。
『官僚たちの夏』には、風越と同期入社の玉木という人物が出てくる。
原綿輸入の自由化推進派で、この点で風越と激しく対立する。
この玉木のモデルは、元通産次官の今井善衛で、現在の安倍首相の政務(筆頭)秘書官である今井尚哉(1982年、通産省入省)は、善衛の甥っ子にあたる。
今井尚哉は、第一次阿部内閣が崩れた時から第二次安倍政権の準備を周到に進めて来たという。
安倍政権の中枢には、今井氏がいて、菅義偉官房長官がいる。
つまり、安倍政権のナンバー2は今井尚哉なのである。
普通は、法律で犯罪などの行為を取り締まるのだが、暴力団対策法の一番の問題は、暴力団であるということで取締まることにある。
つまり、政府が自分達に都合の悪い人間を暴力団と認定して取り締まる可能性がある。
本来、行為で裁く事が法律の大原則なのに、これが法律的な大転換となる。
暴力団対策法は、暴力団というレッテルで裁こうとする。
共謀罪は、もっと酷くなっており、今度は行為ではなく、思ったことで裁こうとする。
内面を取り締まるという話になっているのである。
三島由紀夫は、体が弱かった。
20歳で徴兵検査を受けるが、第二乙種だったので、兵隊に行かなくて良かった。
しかし、日本の戦況が次第に悪くなり年寄も戦場に駆り出されるようになって、第二乙種の三島も入隊検査を受けることになる。
徴兵検査の後に、入隊検査があったのだが、その日、三島は風邪をひいて高熱だったため、肺浸潤と診断され即日桔梗を命ぜられ、戦争に行かずに済んで助かった。
その様子を父親の平岡梓が『伜・三島由紀夫』の中でこう書いている。
「(入隊検査の会場の)門を一歩踏み出るやせがれの手を取るようにして一目散に駆け出しました。早いこと早いこと、実によく駆けました。どのくらいか今は覚えておりませんが、相当の長距離でした。しかもその間絶えず振り向きながらです。」
「これはいつあとから兵隊さんが追いかけて来て、『さっきは間違いだった、取消だ、立派な合格おめでとう』と怒鳴ってくるかもしれないので、それが怖くて仕方なかったからです」
だから三島は、その時に助かったと思ったのである。
それが同世代の中でのコンプレックスとなって、戦後は逆の方向に向かったのである。
戦争に行かなかった人ほど勇ましいことを言うが、三島の思想の根底には、この自らの体験が根強くあったのである。
実際に、軍隊で非人間的なものを体験した城山三郎は、三島由紀夫の事を「あの人は戦争に行かなければならなかった人だよね」と軽蔑したような言い方をしていたという。
この卑怯者の汚名をそそぎたいというのが、戦後の三島の行動だったのだろう。
統合幕僚会議議長だった栗栖弘臣は、2000年に出した『日本国防軍を創設せよ』の中で、「自衛隊が国民の生命、財産を守るためにあると誤解している人が多い。国民の生命、財産を守るのは警察の役目であっても、武装集団たる自衛隊の任務ではない」とはっきり書いている。
実際に沖縄戦を体験した大田昌秀は、「だから軍隊は民間人を守らない」と言っているが、沖縄では常識だという。
なかにし礼は考え方としては決して革新的ではないが、軍隊は我々を絶対に守らないことを体験として知っているから、安保法制に反対したのである。
明治生まれが戦争を計画して、大正生まれの我々が一銭五厘のはがきで戦場に駆り出された。
by 中内功 (ダイエー創業者)