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2016年4月1日金曜日

厚生労働省の「労働組合基礎調査」によると、2013年の労働組合員数は988万人で、雇用者数に占める推定組織率は17.7%と、非常にすくない。
理由としては、組合加入の権利が正規雇用の人、つまり正社員だけしか労働組合に加入できないが、就業形態として非正規雇用が増えた、ということがある。
もう一つの理由に、そもそも労働組合のない企業が増えているということもある。
そして、企業の規模によって組合加入率は大きく変わる。
従業員1000人以上の大企業の場合、45%の雇用者が組合に加入しているが、従業員100人から1000人未満の会社では、組合加入者は13%程度、従業員100人未満の中小企業の場合、組合加入者はたった1%となっている。
会社に飼いならされ、会社から離れては生きていけないサラリーマンを、「社畜」と言うが、この言葉を最初に使い始めたのは、小説家のペンネーム安土敏ことスーパーのサミット社長・荒井伸也氏である。
企業の社員教育に大きな影響を与えて来た「修養団」という教化団体がある。
明治39(1906)年に蓮沼門三が始めた。
蓮沼は、会津の出身で、東京府師範学校(現在の東京学芸大学)在学時代に修養団を結成した。
きっかけは、学寮があまりにも汚いので一人で清掃活動を始め、その精神に啓発されて同志が集まったものとされる。
「愛なき社会は暗黒なり、汗なき社会は堕落なり」を信条として勤倹や自己鍛錬を説き、「愛と汗」の実践の中で自己の向上を目指すという社会教育団体である。
大正時代に各地に支部が増え、1930年時点で団員は60万人を超えていたと記している資料もある。
敗戦後、啓蒙性の高い思想教育団体は軒並み、GHQによって解散させられたが、修養団と二宮尊徳を仰ぐ二宮尊徳報徳会は存続が許された。
歴代の後援会長をみると、修養団が戦後も財界人からバックアップを受けていた事が理解できる。
初代 渋沢栄一(第一銀行頭取)
二代 小倉正恆(住友財閥総理事)
三代 倉田主税(日立製作所会長)
四代 中安閑一(宇部興産社長)
五代 駒井健一郎(日立製作所相談役)
六代 大槻文平(日本経営者団体連盟会長)
七代 草場敏郎(さくら銀行相談役)
八代 藤村正哉(三菱マテリアル名誉顧問)
この他、松下幸之助、土光敏夫、安岡正篤らも顧問を務めている。
修養団の本部は東京・千駄ヶ谷にあるが、伊勢に道場があり、新入社員はそこに送られ「みそぎ研修」(現在は「みがく講習会」)という水行を受けさせられる。
修養団の講師は「この研修の目的は、こざかしい理屈を捨て、バカになって物事に挑むきっかけをつかませること」という。
つまり、会社のためなら何でもできるという精神を植え付けるための研修なのである。

太平洋戦争の終戦が決定し、大本営が陸海軍全軍に即時戦闘停止の指令を出したのは8月16日だったが、広大なエリアに広がっていた外地の日本軍全体に終戦を周知させるには時間がかかった。
満蒙ではソ連が8月10日に侵攻してきたが、停戦になったのは8月18日だった。
タイだは日本軍が武装解除して降伏したのは8月16日。
フィリピンでは8月17日。
太平洋諸島のトラック、パラオでは9月2日。
ニューギニア、ウェークでは9月3日、ラバウルでは9月6日、ブーゲンビルでは9月8日だった。
当時、外地にいた日本兵は、陸軍が247万人、海軍が33万人いたため、数年がかりで復員することになった。
日本人は終戦記念日を8月15日と思っているが、世界ではこの日を日本との戦争が終わった日としている国は、韓国と北朝鮮だけと極めて少ない。
韓国では8月15日を日本の統治下から解放され、光を取り戻した日として「光復節」として祝日となっており、北朝鮮でもこの日を「解放記念日」としている。
アメリカなどの連合国は、東京湾上のミズリー号で降伏文書の調印があった9月2日を、対日戦勝記念日にしている。
中国ではその翌日をもって戦争が終わったとし、9月3日を「抗日戦争勝利記念日」にしている。
ちなみに台湾では、日本統治終了の記念日「台湾光復節」は10月25日で、台北市で台湾総督府の最後の総督・安藤利吉と中華民国台湾省行政長官・陳儀との間で降伏受諾の式典が行われた日となっている。
日本で8月15日を終戦としているのは、この日にラジオで玉音放送が流れ、天皇自らの言葉で「終戦の詔」が国民に伝えられたからである。
しかし、日本がポツダム宣言を受諾し、天皇が署名して連合国側に通達したのは8月14日で、玉音放送の録音が行われたのも8月14日だった。
外交条約の調印・批准・発効の日というのが国際的な記念日として重視されるというグローバルスタンダードから考えると、8月15日は何の日でもない。
古関裕而という思想がなくて有名な作曲家がいた。
古関は、軍歌をびっくりするほど沢山作っている。
「露営の歌」「暁に祈る」。
西條八十とのコンビで作った「若鷲の歌」「比島決戦の歌」「決戦の大空へ」。
サトウハチローとのコンビで作った「断じて勝つぞ」「台湾沖の凱歌」。
他にも「愛国の花」「ラバウル海軍航空隊」といった兵士を死に追いやる歌を量産している。
ところが、散々戦意をあおって多くの若者を死に至らしめた古関は、戦後、平和を祈る歌「長崎の鐘」の作曲もしている。
しかも作詞はサトウハチローで、軍歌を作ってきたコンビで、平和を願う歌を作っているのである。
他にも古関の作品一覧を見ると、阪神タイガースの「六甲おろし」、読売ジャイアンツの応援歌「闘魂をこめて」、さらに中日ドラゴンズの応援歌「ドラゴンズの歌」までも作っている。
他にも早稲田大学の応援歌「紺碧の空」、慶応義塾大学の応援歌「我ぞ覇者」も作っているし、東京農業大学の応援歌「カレッジソング」、中央大学の応援歌「あゝ中央の若き日に」も作っている。
全国高等学校野球選手権大会の歌「栄冠は君に輝く」、東京五輪の「Tokyo Olympic March」、陸上自衛隊・海上自衛隊の隊歌も作っている。
人を鼓舞する曲作りが上手く、あらゆる戦意を鼓舞する曲が同じ作者によって作られているのである。
歌をつくることを生業にしていながら、歌の持つ影響力の強さを考えられない人だったと思わざるを得ない。
地方では町内会を現在も「隣組」と呼ぶところもあるが、もともと隣組は、戦時中に国の意図のもとに作られたものである。
1940年に作られた「隣組けという歌は、ザ・ドリフターズの番組のオープニング曲の元歌である。
作詞は岡本一平で、岡本太郎の父親で、作曲は飯田信夫。
隣組は、歌詞の通り国が主導した庶民の相互監視、思想統制のための組織だった。
内務省は、国民精神総動員運動を進める過程で、各地にある部落会・町内会に着目し、1940年9月に「部落会・町内会・隣保班・市町村常会整備要綱」(隣組強化法)を制度化した。
5~10世帯を1つのユニットとして、団結を促し総力戦のための活動は全て隣組単位で行うようにした。
敗戦後の1947年に、GHQにより、この強制的な隣組制度は解体されたが、日本独特の自治の仕組みは、その後も地方では残っていく。

隣組
1927年(昭和2年)に起きた金融恐慌の際に、予算委員会で片岡蔵相が推移を確認せずに「・・・現に今日、とうとう渡辺銀行が破綻いたしました」と失言してしまった事で、取り付け騒ぎが起き、渡辺銀行は本当に破綻してしまった。
東京渡辺銀行は、1877(明治10)年に第二十七国立銀行として設立され、1904年に二十七銀行と改称、1920年に東京渡辺銀行となった。
破綻時の東京渡辺銀行は、資本金が500万円で大株主の殆どが渡辺一族で占められていた。
渡辺家は播州明石の出身で、徳川八代将軍吉宗の時代に明石から江戸に来て、日本橋で海産物を商う店を創業し、銀行経営まで乗り出すようになったのは、九代目治右衛門の代だった。
この頃の渡辺家の羽振りの良さは相当なもので、明治中期の長者番付にも名前が入っている。
1890(明治23)年の「方今 長者鑑」という資料によると、行司の筆頭が岩崎弥之助、東方大関が渋沢栄一、関脇が大倉喜八郎、小結が住友吉左エ門、前頭一枚目が五大友厚、同二枚目が安田善次郎と続き、同三枚目に渡辺治右衛門が出ている。
だから、特定の事業会社や個人の資金調達を目的として預金を集めた「機関銀行」とはいえ、決して吹けば飛ぶような弱小銀行ではなかった。
韓国は徴兵制を採用しているが、徴兵期間は2年間、18歳で徴兵検査を受け、20歳前後の頃に兵役経験をすることになる。
兵役に行っていないと、国民として義務を怠っているということで、就職試験でも不利となり、公務員にはなれない。
徴兵に応じないと、1年半、刑務所に入れられ、その記録は経歴に残るので、社会的に将来を抹殺されてしまう。
良心的兵役拒否は、宗教上の理由の場合のみ認められる。
またオリンピックのメダリスト等のように、国家の英雄的な働きをした者は兵役が免除される。
近年、特に徴兵制が原因と思われる自殺者が増加しており、入隊前の自殺、入隊後の自殺も多く、ほぼ毎日のように自殺者が出ているという。
2014年時点で、全世界で兵役拒否を理由に投獄されている人が約970人に対して、徴兵を拒否して刑務所にいる韓国人は約800人と、徴兵拒否で投獄されている人の9割を韓国人が占めている。
1945年以来、韓国では1万6000人以上が兵役拒否で刑務所に入れられてきたという。
戦前・戦中の「修身」の教育が、国家による国民教化であったとして、GHQの指導により敗戦後に停止され、その基本とされていた「教育勅語」も1948年の国会で失効した。
戦後の道徳教育は公民教育思想に基づき、社会科の中で育まれることとなり、社会科で社会や人間関係について学び、それらを通して道徳的な判断力を育んでいく方針がとられるようになった。
これが転換されたのが、1958年の岸内閣の時で、小・中学校の学習指導要綱が改訂され、1960年から「道徳の時間」が設けられるようになり、それ以来、教科外活動として行われてきた。
そして、第一次安倍内閣の時から、道徳を正規の「教科」にしたがっていたが、その意向を受けて文部科学省は2018年度から、道徳ほ正式な「教科」にすると発表した。
つまり、今後は道徳という科目が成績表にも加わり、道徳心が評価されるようになるのである。
今後、教育現場で言葉巧みに子供たちに「愛国心」を刷り込む指導が徹底されていく恐れがある。
足並みの合わぬ人をとがめるな
彼はあなたが聞いているのとは別の
もっとみごとなリズムの太鼓に
足並みを合わせているかもしれないのだ
By ヘンリー・D. ソロー
「祝婚歌」 吉野弘(詩人)
正しいことを言うときは
少し控えめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気付いているほうがいい
立派でありたいとか
正しくありたいとかいう
無理な緊張には
色目を使わず
ゆったり ゆたかに
光を浴びているほうがいい