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2016年8月17日水曜日

葛西から西船橋方面にかけては、新しく整備された街が広がり、若いファミリーが多く、それを象徴するように、スターバックスがある駅は少ない。
東陽町から西船橋までの区間で、駅近くにスターバックスがあるのは浦安と西船橋だけである。
平日の昼間人口が少なく、需要が少ないのである。
スターバックスはオフィス街の大手町には至る所にあり、鳥取県にも進出しているが、未だに江戸川区には1軒もない。
そんな中、葛西にインド人コミュニティがあり、行徳・妙典にもインド人が多く、インド料理店が多い。
千葉県内にインド人は1300人いるが、市川市は400人と群を抜いている。
江戸川区には2400人いるが、浦安には40人しかいない。
彼らインド人が浦安ではなく、行徳・妙典という飛び地を選ぶのは、行徳にモスクがある事が関係するが、東西線がインド人コミュニティを結ぶ路線となっている。
相模鉄道は、同社の悲願ともいえる東京進出に関する2つの計画を発表している。
1つは相模鉄道とJR東日本が2018年度内に開業を目指す「相模・JR直通線」(仮称)の新設である。
これは相鉄線の西谷からJR東海道貨物線の横浜羽沢までの2.7キロを結ぶ線路で、横浜羽沢付近に両社の共同使用駅(仮称は羽沢)を設置する計画となっている。
 
この連絡線ができると、相鉄本線は連絡線を経由して東海道貨物線、横須賀線の路線に入り、最終的には湘南新宿ラインと同じ経路で新宿方面に達することとなり、これまでアクセスが悪かった神奈川県央から都心部までダイレクトに行くことが可能となる。
2つ目の計画は、上記で横浜羽沢付近に新設される羽沢(仮称)から、東急東横線の日吉駅までの10キロを結ぶ路線を設置するというもので、両社は2019年の開業を目指している。
計画では東横線と目黒線の2系統を運行するとされており、実現すれば相鉄本線から渋谷や目黒へのアセスが格段に向上することとなる。
羽沢から日吉間には新たに2益設置される予定となっている。
小田急電鉄は日本最大のターミナル駅である新宿駅を拠点にしている。
1920年代に平河町五丁目から小田原間を結ぶ路線の計画があったが、鉄道省の旅客課長だった生野団六から「これからは新宿が一番の街になるから、新宿に駅をつくった方がよい」とアドバイスを受けて、創業者の利光鶴松は方針を転換し、新宿を起点に小田までの路線を建設した。
小田急線は日本屈指の通勤路線という顔と、箱根行きの小田急ロマンスカーは日本を代表する観光特急列車として君臨している。
小田急線はロマンスカーを運行している事から、大手私鉄の路線の中で最も売上高の高い路線(2012年、年間売上1113億円)となっている。
1935年からとロマンスカーの歴史は古い。
当時はまだロマンスカーという愛称はついておらず、新宿から小田原間をノンストップで走る小田急の電車は「週末温泉急行」と呼ばれていた。
ロマンスカーという名称は小田急の専売特許ではなく、もともとはロマンスシートのある特急列車という意味合いで使われていた。
東武鉄道も京阪電鉄なども早くからロマンスカーを運行していたが、次第に「ロマンスカーといえば小田急」という意識が定着した。
2008年からは東京メトロ千代田線にロマンスカーが乗り入れをしている。
戦前から戦後直後にかけて西武池袋線で、都民の糞尿を埼玉県の農地へ運び、都内へ戻る際は農村で採れた農作物を乗せて運ぶ列車が運行されていた。
一部では糞尿を意味する「黄金列車」と揶揄され、田舎のイメージが定着している。
同時期に、西武新宿線も黄金列車を走らせていたが、新宿線が「小江戸」の川越に向かうのに対して、池袋線は秩父に向かい、この差がより田舎イメージを定着させてしまう。
そのため大正末期から昭和初期にかけて東京高等師範学校(筑波大学)東京第一師範学校(東京学芸大学)を誘致しようとして周辺地域を碁盤の目にするなど大規模な街開発を進め、町名と駅名まで「大泉学園」とイメージアップを図ったが、あえなく両校の誘致に失敗した。
現在でこそ松本零士をはじめとする大御所漫画家が多く居住しており、アニメ発祥の地として文化的に洗練されたイメージのある大泉学園周辺だが、「学園」という地名、駅名が付けられた背景には、こうした残念なエピソードがある。
渋谷区では日本経済新聞が最も読まれ、目黒区では以前は朝日新聞の方が読まれたが、現在は読売新聞と朝日新聞の部数が拮抗している。
東急東横線沿線エリアは、朝日新聞の方がやや強い。
この地域では自由が丘が商業的に発展しており、目黒区と世田谷区の境目に位置する自由が丘周辺の路線価は、学芸大学の2倍弱となる1坪あたり598万円と、御茶ノ水駅周辺の路線価よりも高い。
JR埼京線の起源は明治時代までさかのぼる。
国鉄の前進ともいえる日本鉄道が建設した東北本線の赤羽から路線を分岐させて板橋、新宿、渋谷を通り品川で東海道本線に接続する迂回ルートを計画した。
これがのちに山手線となるが、その後1972年に池袋から赤羽間が「赤羽線」として分離されることになる。
この赤羽線が現在の埼京線の元となるが、しばらくは池袋から赤羽の5.5キロだけを行き来する孤高の路線となっていた。
このローカル線の赤羽線が注目されるようになるのが、1985年に東北・上越新幹線が開業したことで、立場が変わった。
東北・上越新幹線は1982年に盛岡から大宮間で暫定開業しており、計画では当然、上野駅・東京駅に乗り入れる事になっていた。
しかし、大宮から南下するルートの建設予定地だった埼玉県浦和市、与野市(現・さいたま市)、戸田市の住民が建設反対の厚誼運動を行い、工事が難航するなか、国鉄は見返りとして東北新幹線に並行するように通勤新線を建設することを約束し、これが赤羽駅から北へ延びる埼京線となる。
その後、大崎駅を経てりんかい線にも直通運転されるようになった。
埼京線は、埼玉県をメインに走っている印象が強いが、大宮から大崎をつなぐ埼京線は、実は23区以外を走っている距離は全体の3割しかなく、意外とアーバン路線なのである。
JR中央線は吉祥寺から国立まで、住民の大卒者率が45%を超えるような地域が続く。
吉祥寺駅の路線価は366.1万円であり、都心よりの中野よりも高い。
このエリアでは、朝日新聞の読者が最も多く、産経新聞の購読者は少ない。
特に小金井市では朝日新聞が1万2350部なのに対して、産経新聞はわずか350部である。
国分寺市も朝日新聞が多いのに対して、極端に産経新聞が少ない。
立川市に入ると、ようやく読売新聞が最も売れる新聞となる。
ちなみに杉並区は、産経新聞が最も売れない新聞となっている。