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2017年2月26日日曜日

明治政府の中にも、平安時代における摂関家、鎌倉幕府の執権にあたるものが存在し、それは元老(元勲)だった。
元老とは明治維新に功績があったとされる9人の男性で、伊藤博文、黒田清隆、山縣有朋などが含まれていた。
元老は天皇に総理大臣を推薦する権利を持ち、天皇はその決定を承認するだけだった。
元老は終身であり、その地位や職務については、何の法的な根拠はなかった。
明治憲法を含むいかなる法にも元老の規定はなく、非公式のポジションであり、明治政府公認の組織図の中にも存在しない。
問題は、明治維新は一度だけの歴史的な出来事だったので、元老の後任はなく、摂関家や執権とは異なり、元老には後継者がいなかった。
従って元老は死没する度に少なくなっていき、「最後の元老」と呼ばれた西園寺公望が1940年に92歳で亡くなってしまう。
その時代は太平洋戦争の混乱期に入る頃となり、とりあえず「軍部」が元老の代わりを担うが不十分なものであった。
平安時代の日本は、正式の軍隊を持たない人類史上、大変珍しい国家だった。
平安朝政府は軍隊を持っていない。
平安時代には「六衛府」と呼ばれる部署があり、そこに所属する者は武器を持っていた。
近衛府、兵衛府、衛門府の3つが、それぞれ左右に分かれていた。
六衛府は天皇が居住する場所や行政府を守ることを任務とする機関である。
天皇の最も近いところで警備するのが近衛府(内裏の担当)、中間を守るのが兵衛府(内裏の内側と外側の壁の間を管轄)、最も外側の警備にあたったのが衛門府(大内裏の官庁全体を管轄)だった。
つまり、六衛府は武器を持っていたが、それぞれはっきりと持ち場が決まっている皇室警察のようなものでしかなかった。
平安朝政府は警察を備えていたが、軍隊を持たなかったのである。
北条泰時が日本史上の唯一の革命家とみなす根拠となる事実に、御成敗式目を定めたことである。
貞永元年(1232年)に評定衆11人の起請文の上にたつかたちでこの法は定められた。
御成敗式目は完全に固有法であり、日本の歴史の中で、誠に画期的なことだった。
法制史には、固有法と継受法という区別がある。
継受法は他国の法律を自国の事情に照らして改変した上で継受した法律である。
固有法は自国で固有に定めた法律である。
日本社会には、それまで継受法しかなく、中国の律令を継受して使っていた。
ちなみに明治以降の近代法も継受法である。
それに対して、御成敗式目は日本史上初めての体系的な固有法であった。
内容の点でも文体の点でも律令とは全く独立しており、無学で漢字が苦手な武士でも、この法は理解できるようにできていた。
御逓倍式目は一種の基本法のようにもなっていき、室町時代にも武家の法としての効力を持ち続けた。
やがて式目を伝写したり研究したり講釈する学者も現れ、江戸時代には式目は教科書や教養書として普及したという。
「絵入御成敗式目」のような通俗版も刊行され、寺子屋で教科書として用いられていた。
このような状況は明治時代の初期、明治5年の学制公布後もしばらく続いていた。
近代的な学校の確立とともに、御成敗式目は忘れされたが、それまでは日本人の初等的な教養のひとつとなるほどに、広く深く浸透していたのである。
北条泰時が日本史上唯一の革命家であるという。
北条泰時が歴史の中で、その役割ほ果たす最初の場面は、1221年(承久三年)の承久の乱である。
その時の執権は父の義時だった。
承久の乱は、西国の皇室と東国の鎌倉幕府が正面衝突した戦である。
仕掛けてきたのは朝廷の方で、後鳥羽上皇の地頭改捕の要求を義時が拒否した事をきっかけに、後鳥羽院が義時追悼の院宣・宣旨を諸国に下し、承久三年五月十五日に承久の乱が勃発した。
二か月前に三代将軍の源実朝が暗殺され、実朝には子供が無かったため、鎌倉幕府は象徴的中心を失った状態で、御家人たちも一枚岩の団結がなかった。
この状況をみて、後鳥羽院は幕府が受入れがたい要求をつきつけたのである。
実はこの時、泰時は無条件降伏論を支持したとされているが、結局は進撃軍を率いる立場となり、迷うことなく戦った。
泰時の東国軍は木曽川で西国軍を撃破し、宇治川の戦いで苦戦するも勝利を収め、一挙に京都入った・
承久の乱は、およそ一カ月という短期間で幕府側の勝利で終結した。
義時は戦争に責任がある上皇を流罪にするという「革命」という観点から重要な事をしている。
まずごく幼い仲恭天皇を廃し、最も責任が重い後鳥羽院を隠岐に、順徳上皇を佐渡に流した。
さらに幕府討伐の計画に参加しなかった土御門上皇も土佐に流された。
このように天皇を廃し、三上皇を流罪にするという前代未聞の厳罰が皇室に科されたことになる。
それまでも皇室関係者が流罪になった前例はあったが、それまでは罰する主体も皇室関係者だった。
非皇室関係者から皇室関係者が一方的に断罪されたのは、歴史上初めてであり、その後もない。
「関西という語が用いられるようになったのは、鎌倉幕府が六波羅探題を設置して以降であるという。
六波羅探題の任務は、京都の朝廷の監視で、その機能は単なる監視を超え、畿内以西の御家人を統括する鎌倉幕府の京都支所の役割を担うようになっていく。
承久の乱以前は、鎌倉幕府は東国を主たる支配権とする地方の王権でしかなかったが、六波羅探題が設置されたことで、鎌倉幕府は日本列島のほぼ全域を支配していると見なし得る状態が確率された。
「関東」という呼び方は以前からあった。
それは、京都側から鎌倉を呼ぶときに使われたもので、つまり他称であった。
承久の乱以降、「関東」が東国の鎌倉幕府によって自称として用いられるようになるとともに、鎌倉を視点にして京都を含む西側が「関西」と呼ばれるようになった。
「関東/関西」という対が、視点を西から東へ移したことになる。
鎌倉幕府の将軍は源性の第三代(源頼朝、頼家、実朝)しかいないと思っている人がいる。
実際には鎌倉幕府の将軍は、九代までいた。
鎌倉の武士たちは、源氏の血が絶えた四代以降は、わざわざ京都から摂関家か皇族の男児を迎え入れ、将軍に据えられた。
幼少時に将軍とし、まだ若いうちの将軍職を解き、別の将軍に取り換えられた。
したがって、鎌倉幕府の実権を握っていたのは、将軍ではなく執権の北条氏だった。
現在、フランスではSRU(連帯・都市刷新)法によって、2020年までに都市部の全住宅戸数の2割を「社会住宅」にする計画が進められている。
「社会住宅」とは、低所得者向けの公共住宅のことで、イギリスなどでも力を入れて整備が進められており、大きく「建設機の補助」から「家賃補助」の両輪で住宅政策が展開されてきた。
フランスの住宅政策で特筆されるのは、住まいが一つの「権利」として認められているこどある。
日本では、住宅は個人で所有する財産の一つとみなされるが、フランスでは安全な地域・健康を保持させる清潔な住環境・文化的に尊厳ある日常生活を持続させるものとして存在する。
日本では「貧乏人は粗末な家に住んで当然」という感覚が根強いが、フランスではそれは明らかな「人権侵害」となるのである。
また社会住宅は決して貧困層を救済するためにあるのではなく、「住まいの権利」に基づき、外国人を含む全住民が入居できる。
勤労を美徳とする日本人の価値観は江戸時代から染みついたものである。
江戸時代後期、二宮尊徳によって広められた「報徳思想」は経済と道徳的価値観を結びつけた点に大きな特徴がある。
曰く、豊かな人生を送るためには『勤労(労働をいそしむこと)』『倹約(無駄遣いをしないこと)』『分度(身の丈に合った生活をすること)』「推譲(手柄はヒトに譲ること)』の四原則を守ることが必要であるとされ、それらは「美徳」とされた。
日本では現行憲法の中にまでその思想が引き継がれている。
労働の義務ならともかく、勤労の義務が憲法に含まれている国は、日本と韓国くらいである。
労働と道徳の価値が結びつけられたことで、日本では「経済的な失敗者=道徳的な失敗者」とみなされるようになった。
つまり、「貧乏になるのは、努力を怠った落伍者」であるから「貧困は自己責任だ」という論理が形成され得る。
過去20年の所得分布の変化をグラフに並べてみると、年数を追うごとに平均年収100~400万円の階層のボリュームが大きく膨らんでいる。
つまり日本の格差は、高所得者と低所得者の両端が増加したというより、中間層が全体的に下方に推移した結果だと言える。
問題は、所得ベースで最大のボリュームゾーンにあたる「中の下」のラインにいる人々が、あらゆる公的サービスから後回しにされている状態であり、なおかつ自分自身を「救済の対象者ではない」と考えていることである。
このラインの人々は、経済的な余裕がないうえに、税による受益感が最も乏しい。