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2016年3月7日月曜日

富国生命保険という保険会社があるが、その前進は富国徴兵保険だった。
徴兵保険とは、国民が兵役に服することを奨励し、精勤忠勇の実を挙げさせ、その家族の生活の安全を保護することを目的とする保険で、被保険者が徴兵適齢の満20歳に達し、招集された入営した時に保険金が支払われた。
この徴兵保険を最初に始めた会社は、戦後、東邦生命保険と名前を変えた第一徴兵保険だが、富国徴兵を含めて徴兵保険会社は4社あった。
敗戦で軍隊が無くなるとともに、それぞれ生命保険に鞍替えしたわけで、富国生命の本社が、一時期、靖國神社の境内にあったのも、そのような因縁からである。
日本も朝鮮に対してそうしたように、他国を植民地にすると宗主国は、まず最初に言語を奪う。
ヨーロッパは言語を奪ったり奪われたりしたいるので、その重みを知っている。
だからEUは英語で統一しようとはせずに、膨大な予算を通訳に使いながらも、全加盟国の23言語を公用語にしている。
経済や通貨は統一するが、言語と文化は多様性を守るというEUのやり方は、歴史に学んだ見事なやり方である。
2015年9月9日に、労働者派遣法の改正案が参院で可決され、周知期間を置かずに30日から施行された。
今回の労働者派遣法の改正を目指した背景には、労働界で「10・1問題」と呼ばれてきた民主党政権時代の規制強化策への派遣業界の不安があった。
リーマンショック後の覇権労働者の解雇急増を受け、民主党政権は「労働契約申し込みみなし制度」を整備し、3年を超えて派遣労働者を使う場合、受け入れ企業側が直接雇用しなければならないとし、少なくとも3年以上経てば、企業側から自動的に派遣労働者に対して雇用契約を申し込んだとみなされると規制した。通称「みなし雇用制度」と言われる。
この労働者派遣法が成立したのが、2012年4月で、半年ほどの周知期間を置き「みなし雇用制度」の施行開始日き2015年10月1日となり、10月1日をもって3年間を超える派遣労働者は正規雇用されることになった。
しかし、2015年4月に入ると、この規制について「労働者派遣法が改正されずに平成27年10月1日を迎えた場合の問題」と題された怪文書が永田町と霞が関に出回った。「厚労省内において作成」と出所まで記されているが、作成者は不明だった。
そこには、「改正されなければ、大量の派遣労働者が失業、派遣業界に大打撃となり、派遣先の経営にも支障が生じる」と書かれ、労働派遣者を減らす目的の法規制を逆手にとり、企業は正社員にしたくないので、あたかも派遣切りが大量に増えるかのような話になっていた。
雇用する企業側にとっては、派遣であろうが、直接雇用であろうが、必要がなければ労働者は雇わない。つまり派遣労働者は必要であるから雇われており、安い人件費で雇えるから都合が良いだけである。
今回の改正は、「派遣期間の3年を過ぎて同じ労働者を使ってはならない」とされ、派遣労働者を入れ替えれば、未来永劫、企業は派遣労働者を使えことができるようになった。これこそが今回の派遣法改正の肝である。
パソナの竹中平蔵会長は、産業競争力会議のメンバーとして、「労働移動支援助成金」の増額に取り組んだ。
これはリストラする社員の再就職支援にかかる企業の経費を政府が補填する助成制度で、「リストラ助成金」と言われる。
天下り官僚の人材バンク事業をはじめ、長年にわたって再就職事業を手掛けてきたパソナにとって重要な政策である。
2013年3月15日の産業競争力会議で、竹中会長は「労働移動に助成金を出すことは大変重要。是非大規模にゃって欲しい。いまは雇用調整助成金土佐有働異動への助成金の予算額が千対五くらいだが、それを一気に逆転するようなイメージで・・・」と提言している。
そして、大幅な助成金の増額が2014年度予算に盛り込まれ、前年度予算の2億円から301億円と150倍に拡大された。
パソナグループの中に「ベネフィット・ワン」という福利厚生サービスのアウトソーシング会社がある。
会社設立1999年3月のこの会社が一時期話題になった。
2002年4月18日付の同社のプレスリリースで、「防衛庁職員26万人の福利厚生を一括受託」というタイトルだった。
ベネフィット・ワンは、会社設立以来ずっと赤字続きで、2002年時点で僅か2億円だった経常利益は、翌2003年には6億円へ超えた。
会社は右肩上がりで成長を続け、2006年には東証二部に上場し、2012年には会員数が600万人を超え、2014年の売上は200億円を超え、利益は31億円に到達している。
防衛省・自衛隊への事業展開をしている会社に、もう一社「セーフティネット」がある。
防衛省の共済組合と業務提携し、自衛官のカウンセリングをしている。
イラクに派遣された自衛官が帰国後に54名自殺しており、過酷な任務によるストレスを理由に自殺は多い時には一年で100名近い。
パソナの南部靖之氏の人脈づくりにおける迎賓館「仁風林」は、元麻布に一千坪の敷地に建つ風情のある日本家屋である。
1964年11月に建設された築50年ほどの建物で、外務官僚からの紹介で2000年代に入ってからサウスルームから交友の場を移している。
当時、この邸宅の所有者に相続問題が起き、それ以来、借り受けるようになったという。
登記簿謄本によると、地上二階地下一階の総床面積は250平米であり、さほど広い屋敷ではない。
門の木製扉を開けると石畳が広がり、玄関を入って左側が広い宴会場になっていて、そこには30人ほど座れるメインスペースになっている。
二階には南部専用の書道部屋と個別の客を接待する和室が並ぶ。
仁風林では、定期的に財界の重鎮が集まる昼食会も催されている。
夜のパーティとし違い、松花堂弁当のような簡単な食事が出て、クローズされた会合となっているという。
パソナには仁風林の他にも、接待の場がたくさんあり、大阪・御堂筋沿いの大阪本社の最上階には「澪風林」という看板がかけられ、関西のゲストを招いている。
また農場を始めた兵庫県の淡路島には「春風林」というプライベートレストランもある。
1986年時点で派遣が許された業種は13業種のみだったが、1996年12月に施行された改正派遣法では、26業種で派遣が認められた、
そして、さらに1999年改正で、派遣業種が広がり、この時に派遣事業に関する産業界の根本的な考え方が変わった。
重ラ氏、労働者派遣については、「原則として全てを禁止するが、例外として認可する業種を設ける」と定義されていたが、「原則として全てを認可するが、例外として禁止する業種を設ける」と、ポジティブリスト方式からネガティブリスト方式に、大転換したのである。
この改正で、26業種以外でも派遣が原則自由化され、例外として禁止されたのは、「港湾運送」「建設業」「警備」「医療」「製造業」「弁護士や公認会計士などの資格業務」「労使間の団体交渉などの業務」といった7業種を残すのみとなり、うち製造業も事実上2004年3月に解禁された。
パソナが株式公開した後、南部代表はよほど気に入らなかったのか、グループの再編を繰り返した。
まず、新生パソナの事業ほ分割し、他のグループと合体させた。
雇用や派遣事業の一部を新たに設立したグループ企業「パソナハートフル」へ移した。
続いて2004年9月に、新卒と第二新卒までの若い社会人を対象に特化した派遣会社「パソナオン」にも新生パソナの事業の一部を分割した。
さらに2008年12月には、特許調査や地方自治体の研究事業を手掛ける「雇用創出機構」へも事業譲渡した。
一方、2006年2月に「ソシオ」、2008年12月に「ファイナンシャルサン」といった同業他社を買収し、新生パソナを合併する会社の受け皿にした。
このような面倒な会社の分割や合併を繰り返した意図は、理かいしづらいが、外部から会社の何立ちを見えにくいように組み替えたように思える。
そして、中山代表がグループの中核に据えた新生パソナは、最終的に会社そのものを消滅させ、代わって20010年3月にパソナの本体に鞍替えしたのが「パソナキャリア」だった。
この会社はもともと人材派遣業ではなく、もっばら転職や再就職のコンサルタント業として1988年4月に設立された単なるグループ子会社だった。
そして2007年12月に、パソナグループという持株会社を設立し、関連企業47社の頂点にした。
パソナグループ47社は、42社の連結子会社と株式を20%以上保有する5社の持ち分法適用会社から構成される。
南部代表の個人資産会社の「南部エンタープライズ」と投資コンサルタント会社の「サウスルーム」はグルーブに含まれておらず、この2社を使って有名人を招いたパーティの運営や多額の交際費を捻出している。
パソナの会社謄本をみると1999年7月にセガの副会長だった中山隼雄が代表取締役に就任している。
当時、パソナは経営不振に陥っており、パソナの子会社の株を担保に、中山から10億円を調達したが、その後借入が増えていき、ピーク時にし40億円程に増えていた。
この融資が焦げ付きそうになったので、回収するために中山はパソナに乗り込んだという。
中山は南部靖之を経営の第一線かせ退かせ、南部が私的に利用していた人材派遣業の中核企業としてグループの頂点にあったパソナそのものを、南部の個人商店にして連結決算対象の関連企業から外し、株式公開を目指した。
中山はパソナ入りした翌年の2000年6月に、障害者派遣事業をやっていた子会社「パソナサンライズ」に、パソナ本体の人材派遣事業の営業権を譲渡させ、パソナサンライズを新たにパソナへ社名変更した。
そして、旧パソナは「南部エンタープライズ」へ社名を改め、名実共に南部親子がパソナの経営にタッチできなくした。
南部代表は、オーナーでいることだけには拘り、新生パソナ本体の株の過半数を持ち続けた。
中山が会長に就任して2年半後の2001年12月に新生パソナはナスダック・ジャパンにIPOし、さらに2003年10月には東証一部に昇格する。
東証一部に上場すると南部代表がパソナの経営をやりたいと言い出し、IPOによって借金も返済できたし、5年間の約束で覚書を交わしたのだから、お引き取り願いたいと中山に伝え、南部はパソナの代表に返り咲くのである。