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2016年3月10日木曜日

2015年で佐藤優氏が職業作家になってから丁度10年になったという。
佐藤氏が、職業作家になって上梓した本が、単著だは文庫化されたものも含めて100冊を超えている。
対談本や共著を含めると200冊を軽く超えているという。
1938年秋に、29歳で獄死した鶴彬はこんな川柳を詠んだ。
手と足をもいだ丸太にしてかへし
万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た
こうした壮絶な反戦川柳を作って逮捕された鶴の死には、官憲による赤痢菌注射説まで噂された。
蟻食いを噛み殺したまま死んだ蟻
蟻食いを蟻が噛み殺すことなどあり得ないが、鶴の短くも壮絶な生涯は、その有り得ないことが有り得たかのような感じである。
ヨーロッパの食糧自給政策は、伝統的に根付いている。
ユーロという共通通貨を持っているのだから、EU全体で役割分担ができるようになっているのに、未だに各国ごとに自給政策を取っている。
ヨーロッパの歴史は、戦乱の歴史であり、食糧争奪戦だもあったのである。
だから自分で食うものを持たないと、隣国から警戒される。
自分で食うものを持っているということは、隣国を攻めませんという意思表示だという。
山本七平の次の逸話を知っておく価値がある。
山本は戦後、米軍関係の施設で働いていて、上官から「おれは南部人なんだけど、ダーウィンの進化論を信じている。お前は、進化論を知らないだろうけど」と言われた。
それで、山本は「日本人はみんな進化論を知ってますよ」と返した。
すると上司はびっくりして、「お前ら進化論を知っているのに、天皇を神様だと思ってたのか!?」と呆然としたという。
読売新聞の渡辺恒雄は、同じく老害の中曽根康弘に、自分の墓の碑文を頼み、「終生一記者を貫く 渡辺恒雄碑」と書いてもらっているという。
無類のクラシック好きの渡辺は、自分の葬儀を音楽葬にと考えており、選局も決まっており、70分余りのテープが作成済みという。
ベートーヴェンの「英雄」第二楽章、ショパンのピアノソナタの「葬送行進曲」、バーバーの「弦楽のためのアダージョ」、シベリウスの「悲しいワルツ」、グリークのペールギュント組曲の「オーゼの死」、チャイコフスキーの交響曲六番「悲愴」第四楽章などを繋げて作ったものだという。
しかし読売の中には、ベートーヴェンの「歓喜」を密かに歌いたいと思う人が少なからずいるだろう。
かつて東芝は、府中工場で「村八分裁判」を起こされている。
府中工場で働く上野仁に対して、会社が労働組合と一緒になって人権侵害と村八分を繰り返し、たまりかねた上野が訴えたのである。
これが上野ひとりに対する問題ではなく、とにかく「変わった考え方」をする人間を許さないという社風は、1974年春に結成された東芝の秘密組織「扇会」を調べると、よく理解できる。
企業内CIAと呼ばれた、このスパイ組織の実態は、上野裁判の過程で明らかになり、東芝を慌てさせた。
組合執行部を「健全派で固める」とか、配置転換について「応じるという結論を出さねば職場におられないムードを作る」ために努力すると誓っている扇会の文書には、「問題者への対応」という章があり、「問題者」を判断するポイントを挙げている。
まず、職場での徴候判断のポイント。
・企業内(職場)では、行動に空白部分が多く、昼休み時、就業後の行動が見当つかない。
・自主的な傾向が強くなり、職制に対する協調性が弱くなる。
・就業規則等をよく知り、有給休暇、生理休暇の全面行使など、権利意識が強くなる。
・朝のお茶くみ、掃除、その他のサービス労働に抵抗するようになり、奉仕的な美徳をなくする方向に力を入れる。
・特別な理由もないのに、特定日の残業をしない。
・昇給時に同僚の昇給を聞いて歩いたり、上司、会社の査定について職制にいろいろ問い質す。
問題者を発見するためのポイントは多岐にわたり、それを思われる人間がいると、1800余名の会員でスタートした扇会のメンバーが尾行したりして、その結果を「本社勤労部」に通報するのである。
釈迦とマルクスを共に信奉する遠藤誠というユニークな弁護士がいた。
その遠藤が1996年春に行った講演で指摘した「ニセ宗教を見分ける10項目」が面白い。
一番、信者から最大限の財産を寄付させるか否か。させている教団は全てニセ。
二番、死後のことばかり説いて「いかに生きるべきか」を説かない教団。これもニセ。
三番、終末論を説いて「うちの教団に入った者だけが救われる」と説く。これもニセ。
四番、権力を志す教団。これもニセ。
五番、出家者、つまり人間の間に上下の区別を認める集団。これもニセ。
六番、自分の「うちの宗派によらなければ救われません」と説く教団。これもニセ。
七番、教祖自らが「わしは悟った」とか「私は仏陀の生まれ変わり」とか、「私は釈迦の生まれ変わり」であると公言する教団。これもニセ。
八番、信者に対して修行生活を要求しながら、教祖自らはその修業生活を実践していない教団。これもニセ。
九番、世の不幸を救うための行動を起こさない教団。これもニセ。
そして最後の十番目は、世の不幸を己れ自らの責任として自覚しない教団。これもニセ。
遠藤は、ここで一つ一つ挙げるまでもなく、日本国中のありとあらゆる宗教は邪教であり、全ての教団はニセだ、と結論付けた。
そして遠藤の糾弾は、新興宗教だけでなく、既成の宗教、教団にも及んだ。
英語ならぬ米語を話すのは教養ある人というか、よくお勉強した人という空気が日本にはある。
しかし、同時通訳者として活躍する鳥飼玖美子氏は、「言語は思考、思想そのものだから、その言語を話すということは、少なからず、その言語の元思想を取り込むということ」と指摘する。
さらに「この国で英語公用語論が旺盛なのは、日本が言語を奪われた経験がないからだ。インド人がどれだけの苦しみの中で英語を押し付けられたかということに目を向けるべき」と指摘する。

『氷川清話』の中で、勝海舟は、こんなエピソードを披露している。
実質的な艦長として咸臨丸でアメリカに渡り、帰国した勝海舟に、老中から「そちは一種の眼光をそなえた人物であるから、定めて異国へ渡りてから、何か眼をつけたことがあろう。詳しく言上せよ」と言われた。
勝は「人間のすることは古今東西同じもので、アメリカとて別に変ったことはありません」と答えたが、
「さようではあるまい、何か変わったことがあるだろう」と老中は引き下がらない。何度も尋ねられて、
「さよう、少し眼につきましたのは、アメリカでは、政府でも民間でも、およそ人の上に立つものは、皆その地位相応に利口でございます。この点ばかりは、全くわが国と、反対のように思いまする」と率直に言上したら、
老中は目を丸くして、「この無礼者、控えおろう」と叱られたそうである。

氷川清話 (講談社学術文庫)