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2016年8月11日木曜日

人間は、自己犠牲をいとわない人に魅力を感じる。
大義に殉じるという思想は強い感染力をもつ。
そういう人は、自分の価値観や基準を無意識のうちに他人に教養する傾向がある。
その結果、社会と国家に大きな悲喜劇をもたらすことがある。
第一次大戦後の1922年10月に、陸士16期の逸材といわれる3人が南ドイツの黒い森にある保養地バーデンバーデンに集まった。
欧州出張中の岡村寧次が、小畑敏四郎を連れていき、スイス公使館付武官の永田鉄山もベルンから鉄道で向かった。
最後に東条英機が加わり、高級ホテルで夜通し話し合って、最後はホテル側に注意されたという、これが世に名高い「バーテーンバーデンの密約」である。
永田、岡村、小畑の3人は帰国後、二葉会という陸士15期から18期を集めた陸軍参謀将校の食事会を組織しし、河本大作、板垣征四郎、土肥原賢二、東條英機、山下奉文らが参加した。
河本は張作霖爆殺事件の首謀者として行政処分され、板垣、土肥原、東條、山下は第二次大戦後に連合国によって処刑された。
この二葉会はのちに一夕会(いっせきかい)に発展し、永田鉄山はその主宰者となる。
昭和に入ると軍人が関与したテロ事件が頻発するようになる。
ロシア革命のように議会占拠などの方法を取らず、宮中や元老を標的とし、暴力で制圧することで陸軍を中核とする内閣を作ろうとするという共通したシナリオがあった。
この政府転覆シナリオの原型を作ったのが、永田鉄山である。
永田は陸軍士官学校を主席、陸大を次席で卒業し、軍事課長、参謀本部第二部長、軍務局長を歴任し、「将来の陸相」と呼ばれたエリート官僚だった。
1933年2月の日本の国際連盟脱退は不可避ではなかった。
実際にジュネーヴから凱旋帰国したかのように迎えられながら、松岡洋右外相は、ラジオで国民に脱退回避に失敗したことを謝罪している。
松岡だけではなく、外務省はもちろん陸海軍も国際連盟脱退回避は可能と考えていた。
陸軍参謀本部と海軍軍令部は1932年の夏に「国際連盟脱退は不可である」との協定を締結している。
日本が対日批判勧告に応じないことによって、国際連盟における満州問題は一段落し脱退する必要もなかった。
国際連盟の勧告は勧告にすぎず、日本がこのような法律上の拘束力を持たない勧告に応じる義務もなかった。
日本は国際連盟規約違反を問われることがなく、制裁の可能性もなかった。
つまり、日本は勧告を受け入れない旨を宣言して、そのまま国際連盟に留まれば良かったのである。
松岡がジュネーヴで脱退回避の交渉途中、イギリスが手を差し伸べて米ソ両国を招聘して和協委員会案を示してくれたが、日本政府はこのイギリスの提案を受けなかった。
さらにイギリスは、米ソを招聘しない和協委員会で日中が貯設交渉を行う案を提示してくれたが、この提案も受けなかった。
結局、外務省の主導により、中国の可熱作戦による経済制裁の恐れを国際連盟を脱退することで未然に防ぎつつ、国際連盟との決定的な対立を回避する道をとった。
この試みは部分的には成功し、国際連盟脱退通告を転換点として、満州事変以来の対外危機が沈静化に向かった。
1933年5月末には日中停戦協定が結ばれ、6月には世界恐慌克服のためのロンドン世界経済会議に参加しアメリカと共同歩調をとる事に成功している。
翌1934年には日英不可侵協定構想が浮上し、日本外交は二国間関係の修復を積み重ねることで、強調の回復を目指すようになる。
しかし、1937年には日中全面戦争が勃発するのである。
国際連盟脱退は満州事変にともなう必然的な結果ではなく、日本外交が自主的に選択した結果だった。
満州事変は1931(昭和6)年9月、関東軍による鉄道爆破から始まった。
関東軍とは当時、中後区東北地方の「満州」に駐留していた日本軍で、日本が経営する南満州鉄道及びその沿線を守備することを任務としていた。
関東軍の石原莞爾作戦参謀、板垣征四郎高級参謀らは、9月18日夜に奉天近郊で満州鉄道を爆破し、これを中国軍による攻撃として、関東軍を出動させ、翌日のうちに南満州の主要都市を占領した。
彼らはかねてから全満州の軍事占領を軽かくしており、それを実行に移したのである。
東京の陸軍中央では、永田鉄山軍事課長、岡村寧次補任課長、東條英機編制動員課長、渡久雄欧米課長らが、石原と連繋し、関東軍を支援する方向で動き始めていた。
彼らは陸軍中央の中堅幕僚グループ「一夕会」に属していた。
一夕会は、会員40名前後で、小畑敏四郎、山下奉文、鈴木貞一、武藤章、田中新一など、後に陸軍を動かすようになる幕僚たちが加わっていた。
石原・板垣も一夕会のメンバーだった。
一般的には、満州事変は関東軍に陸軍中央や内閣が、一方的に引きずられたと思われているが、実際には関東軍と陸軍中央の一夕会系幕僚の連繋によるものだった。
一夕会は1929年に結成され、その中心人物は永田鉄山である。
第二次大戦の後半で、近衛文麿は和平運動に力を入れ、昭和20年2月14日に昭和天皇に早期和平を唱える上奏文を提出した。
いわゆる「近衛上奏分」である。
興味深いのは、この上奏文の後半で軍部の共産主義化を売れいている点である。
軍部内に共産主義者が跋扈しており、開戦もソ連と結託した軍部による陰謀だった、今すぐ和平を講じないと革命が起こりかねないという内容に、昭和天皇は驚き、参謀総長の梅津美治郎にその真意を確認したほどだった。
しかし、近衛は河上肇に師事したその思想的傾向や周囲にいた人々、行った政策をみると、むしろ近衛こそが共産主義化を招いた一人だった。
昭和研究会には、ゾルゲ事件の首謀者として逮捕・処刑された尾崎秀実や、戦後に左派社会党として活躍する風見章らが加わり、統制経済に関する研究などが行われ、政策にも大きな影響を与えた。
この近衛上奏文の矛盾について注目されるのが、後年の研究で吉田茂が執筆に関わっていたことが明らかになったのである。
軍部の共産化をあえて強い調子で盛り込んだのは、反共主義者として知られる吉田茂だったのである。
和平策を進めないとクーデターが起こり、天皇の身の安全も保証できないという「脅迫」まがいの文章は、近衛のような公家の手によるものとは確かに考えにくい。
目的のためには、天皇さえ脅し利用する、そな凄みを持ち合わせていた吉田でからこそ、戦後の占領期を乗り切れたのかもしれない。
吉田茂は首相として、軽武装・経済優先を押し通し、戦後日本の礎を築いた。
戦時中、親英米派として軍部から睨まれ、戦争末期にはヨハンセン(吉田反戦)と呼ばれる反戦グループを結成したとして弾圧された。
憲兵に逮捕されて入獄までした吉田は、親英米・反戦主義で一貫しているようにみえる。
しかし、こうした親英米派の顔を持つ一方で、対中国には武力も辞さない強硬派という側面もあった。
大正10年から昭和3年まで、吉田は天津、奉天の総領事を務め、一連の排日運動に対し、軍事力で抑え込む事を主張していた。
当時の吉田の本省への打電の中には、デモ鎮圧のために軍隊の出動を促す内容のものもある。
吉田は決して平和主義者だった訳では無く、力のバランスを見極めて、現実主義的な対応を行う伝統的な帝国主義外交の信奉者だったのである。
昭和前期に昭和天皇を最も身近で支えていた4人の側近がいた。
最後の元老と言われた西園寺公望、維新の元勲の子孫である牧野伸顕(大久保利通の次男)、木戸幸一(木戸孝允の孫)、そして近衛文麿だった。
中でも伊絵柄も含め、最も天皇に近かったのが近衛だった。
近衛は君臣関係という以上に、ファミリーの一員という意識が強かったという。
この4人の側近の間でも天皇との一体感において顕著な温度差が感じられた。
天皇に使え続けていた公家出身の西園寺と近衛は、皇室とは運命共同体として一体感を抱いていた。
しかし、明治以降の重臣出身である牧野と木戸は「お役目」としての側近、官僚としての側近であり、一体感は希薄だった。
二・二六事件の前年に、身の危険を感じた牧野が、天皇の懇願を振り切って内大臣を辞任した。
近衛も木戸も前後に、昭和天皇退位論を唱えるが、近衛の立脚点はあくまで「天皇家」の存続というファミリーとしてのものだったのに対し、戦後の木戸の言動と振る舞いからは天皇との距離が感じられる。
近衛文麿は公家の頂点である五摂家筆頭の当主であり、貴族院議長も務め、早くから首相候補とされていた。
東京帝国大学に入学後、当時の著名なマルクス経済学者の河上肇に直接師事するために教徒帝国大学に再入学している。
昭和8年にはブレーン組織として昭和研究会を創設し、主催者には近衛の京都帝大時代の友人だった後藤隆之助が引き受けている。
戦前の首相には全体最適を考えて適切な歯止めをかける権限がなかった。
大日本帝国憲法においては、「国務各大臣は天皇を輔弼(ほひつ。助言によって天皇の統治を助ける)し其の責に任ず」とされ、総理大臣には特段の規定はなく、天皇の前では各国務大臣と全く同格だったのである。
権力が集中しすぎると独裁者になってしまうが、戦前日本の問題はむしろ権限が分散しすぎた点にある。
日支事変では、停戦の機会が全くなかったわけでは無かった。
昭和12年11月に入り、広田弘毅外相が、駐中国ドイツ大使のトラウトマンに仲介を要請し、「トラウトマン和平工作」を始めている。
この交渉には蒋介石も乗ってきた話が前に進み出した時に、交渉が進んでいる間に少しでも領土を取ろうという日本の軍隊の悪い癖が出て、大急ぎで南京を攻めてしまった。
ちなみに日露戦争の時もポーツマスで話し合いが始まったとたんに、慌てて樺太を取りに行っている。
日本政府は南京陥落で勢いづき、和平条件を厳しく再提示し、期限付きの回答を蒋介石に求めた。
ところが返事がなかなか来ず、年が明けて昭和13年1月に「日本の条件は範囲が広すぎるからもっと詳細な内容が知りたい」と申し入れがあったにも関わらず、広田外相は「中国側に誠意なしとの結論」としてこれを拒否してしまうのである。
後に公開された蒋介石の日記によると、蒋介石はその時丁度、高熱を出して倒れていて動けないほどで、返事の出しようが無かったという。
問題なのは、そのことを日本の外務省は知っていたという。
そして、ひの後直ぐに、近衛首相が「爾後国民政府を対手とせず」と声明を出し、和平の機会を自ら完全に放棄してしまうのである。
この日中戦争の根本的な問題は、そもそも戦争の目的が無かったことである。
近衛首相は、途中で「日本は東亜新秩序の建設を目指す」と言い始めるが、その中身は、友好親善であり、経済連携であり、防共だった。
これらが本来の目的であるらば、戦争をする必要などない。
目的がないから、出口戦略も描けなかったのである。
1937(昭和12)年7月、盧溝橋で始まった戦闘が上海に飛び火して一挙に事変が拡大したが、日本政府は首都を占領すれば戦争は終了すると安易に考えていた。
この戦争を日本政府は正規の戦争ではなく、「事変」という形に留めおき、事変だから国際法を守ろうという意思が軍部にも働かなかった。
「事変」とせざるを得なかった事情もあった。
宣戦布告をした上での戦争となると、アメリカの中立法にひっかかってしまうからである。
1935年、アメリカは戦争状態に入った国への武器や軍需物資の輸出を禁ずるという法律を制定した。
これに引っかかると、アメリカから物資が入らなくなり、戦争遂行上、不利益益を被ることとなり、これは蒋介石の国民党政府も同様であり、両者の利害が一致して、双方とも宣戦布告をせずに「事変」という形になったのである。
満州事変の後、国際連盟は英国のリットン卿を委員長とする調査団を派遣し、「リットン報告書」が出されたが、その報告書を素直に読むと、日本に多くの助け舟を出していることに驚くという。
アメリカの歴史家ヘレン・ミアーズは『アメリカの鏡・日本』の中で、「調査団が集めた事実を証拠として使えば、日本は中国を世界平和を乱した罪で告発できる」とまで言っている。
報告書では、満州を特殊地域にして日本の影響かにおいても良い、という結論だったにも関わらず、当時の日本人はこの報告書に猛反発した挙句に、国際連盟で満州撤兵の対日勧告が採択されとしまい、1933年2月には日本代表の松岡洋右は退場してしまった。
当時の新聞は各紙とも論説委員がリットン報告書を読み込む作業をして、その結果「これは日本に対して理解を示している」という感想を漏らしている。
ところが、社説ではどこも徹底的に批判した。
なぜならば、当時のメディアの論調は、満州事変も賛成、満州国にも賛成で、一度世論を沸騰させてしまうと、今度は世論に縛られてしまったのである。

1931(昭和6)年12月の世界大恐慌の嵐のさなかに、蔵相が井上準之助から高橋是清に代わり、二・二六事件で凶弾に倒れるまでの5年間、高橋財政時の成長率は7%と圧倒的なパフォーマンスだった。
しかし、評価が難しいのは、高橋蔵相時代に軍事予算が急増し、昭和8年が65%、昭和9年が58%と、国家予算の半分以上を占め、軍事大国への道を後押ししたともいえる。
つまり、軍事予算が公共投資的な役割を果たしたのである。
近年、高橋財政とアベノミクスの共通点が指摘される。
高橋は短期的には金融リフレ政策を行い、円安を放置して、軍拡で需要を生み出し、長期的には構造改革に取り組もうとしていた。
確かに現在の行き詰まり状態に似ているが、高橋は大恐慌の板でから立ち上がると、直ぐに財政再建に着手し、昭和11年度予算で軍部と激しくぶつかるのである。
そして、昭和11年度予算では軍事費を45.7%まで縮小したことが、二・二六事件で高橋が狙われた遠因であったことは間違いない。
軍縮は軍令(作戦)と軍政(予算、人員)と絡んでしまうので、非常に厳しい政策なのである。
人類史上初めての総力戦となった第一次世界大戦では、日本はアジアで局地戦に参加したり、輸送船団の護衛をしたりして、死傷者も陸海軍合わせて500人ほどだったにも関わらず、ドイツの南太平洋の委任統治領や青島をもらえた。
国際連盟にしても、もう二度と総力戦は繰り返さない、という痛烈な反省から生まれたし、1928年のパリ条約では戦争の非合法化まで決められ、戦争のルールが根本的に変わったのである。
しかし、日本国内では不戦条約の第一条に、戦争の放棄を「人民の名に於いて厳粛に宣言する」とある記述に対して、人民とは何だ、大日本帝国憲法の天皇大権(開戦権、条約締結権)に反すると、大騒ぎをしたという。
先にあるよに、日本は総力戦というものを理解していなかったのである。
総力戦とは、国の全ての力を注ぎ込む戦いだから、最後はGDPが大きい方が勝利する。
だから苦戦淑で一定の歯止めをかけないと、圧倒的な国力を持つアメリカに対抗することは難しいと分かるはずであった。
1921年にワシントン軍縮会議で、軍艦の保有制限が決められたが、日米のGDP比からすると、対米6割というのはむしろ破格の扱いだった。
もし軍縮条約を締結せずに、もとの構想通り八八艦隊(戦艦、巡洋艦、各8隻を中心とする艦隊)を編成した場合、その維持に国家予算の3分の1を必要とする計算になったという。