日支事変では、停戦の機会が全くなかったわけでは無かった。
昭和12年11月に入り、広田弘毅外相が、駐中国ドイツ大使のトラウトマンに仲介を要請し、「トラウトマン和平工作」を始めている。
この交渉には蒋介石も乗ってきた話が前に進み出した時に、交渉が進んでいる間に少しでも領土を取ろうという日本の軍隊の悪い癖が出て、大急ぎで南京を攻めてしまった。
この交渉には蒋介石も乗ってきた話が前に進み出した時に、交渉が進んでいる間に少しでも領土を取ろうという日本の軍隊の悪い癖が出て、大急ぎで南京を攻めてしまった。
ちなみに日露戦争の時もポーツマスで話し合いが始まったとたんに、慌てて樺太を取りに行っている。
日本政府は南京陥落で勢いづき、和平条件を厳しく再提示し、期限付きの回答を蒋介石に求めた。
ところが返事がなかなか来ず、年が明けて昭和13年1月に「日本の条件は範囲が広すぎるからもっと詳細な内容が知りたい」と申し入れがあったにも関わらず、広田外相は「中国側に誠意なしとの結論」としてこれを拒否してしまうのである。
後に公開された蒋介石の日記によると、蒋介石はその時丁度、高熱を出して倒れていて動けないほどで、返事の出しようが無かったという。
問題なのは、そのことを日本の外務省は知っていたという。
問題なのは、そのことを日本の外務省は知っていたという。
そして、ひの後直ぐに、近衛首相が「爾後国民政府を対手とせず」と声明を出し、和平の機会を自ら完全に放棄してしまうのである。
この日中戦争の根本的な問題は、そもそも戦争の目的が無かったことである。
近衛首相は、途中で「日本は東亜新秩序の建設を目指す」と言い始めるが、その中身は、友好親善であり、経済連携であり、防共だった。
これらが本来の目的であるらば、戦争をする必要などない。
目的がないから、出口戦略も描けなかったのである。
近衛首相は、途中で「日本は東亜新秩序の建設を目指す」と言い始めるが、その中身は、友好親善であり、経済連携であり、防共だった。
これらが本来の目的であるらば、戦争をする必要などない。
目的がないから、出口戦略も描けなかったのである。
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