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2016年5月9日月曜日

三井住友信託銀行の試算によると、今後20〜25年程度で相続によって家計資産の2割以上が地域外へと流出する都道府県は30県にも上り、首都圏や大阪圏に資産が流入するという。
この20年の中国の経済発展の原動力になってきたのが、土地バブルである。
中国の土地は全て共産党のもので、その開発権限を握っているのは地方の共産党であり、各自治体である。
農民に貸与されていた農地を地方自治体は一方的に買い上げる事ができる。
買い上げ価格は将来的に農業を続けた場合の収益還元法で決定し、安く買い叩いた土地を商業地に指定替えして、民間のデベロッパーに49年や74年リースで転売する。
その時に商業施設や工業団地を作り、物流基地やこうわんとして開発した後の将来価値で売りつけるので、50倍、100倍の値段に吊り上げられる。
土地の名目を変更しただけで膨大なリース料に基づく現在価値に相当する現金が入ってくるので、中国の各自治体は税金に依ることなく、都市建設や産業基盤の整備が可能となった。
地方都市ではこの週にゆうが税収とほぼ同額となり、この土地マジックによって中国には人口100万人以上の巨大な地方都市を180以上も作り上げることができた。
ヨーロッパではEUという大きな枠組みが、小国でもやっていけると、民族独立派の精神安定剤となり、独立運動に繋がっている。
EU非加盟のアイスランドは人口30万人と平塚市より少し大きい程度だが、何の不都合もなく国家としてやっている。
1992年に国連に加盟したサンマリノは人口3万人、1993年に国連に加盟したパラオは人口2万人である。
人口12億人の中国も2万人のパラオも国連総会では、同じ1票を持っており、世界のガバナンス機構では、馬鹿げた「1票の格差」が存在する。
日本人の多くが、日ソ中立条約があったにもかかわらず、日本がポツダム宣言を受託して無条件降伏した後に、ソ連軍が侵攻を続け、北方領土を不法占拠し、以来、実行支配が続いていると思い込んでいる。
しかし、史実は異なる。
連合国側で戦後の対日政策が最初に協議は、1943年12月1日に開かれたカイロ会談で、ルーズベルト米大統領、チャーチル英首相、蒋介石中国国民政府主席の3首脳により、日本が占領した太平洋の島々の剥奪、満州、台湾、澎湖島の中国返還、朝鮮独立を盛り込んだカイロ宣言が発せられ、その後のポツダム宣言に繋がっていく。
その後、1945年のヤルタ会談では、ドイツの分割統治、ポーランドの国境策定など主に欧州の戦後処理を中心に協議された。
対日政策については、ヤルタ会談に先立って、1945年2月11日にルーズベルト米大統領、スターリンソ連共産党書記長、チャーチル英首相の間で秘密協定が交わされ、「ヤルタ協定」として取りまとめられた。
スターリンは南樺太の返還と千島列島の領有を主張し、ルーズベルトはこれを認める代わりに、スターリンに日ソ中立条約の破棄と対日参戦を求めた。
このヤルタ協定で、ドイツ降伏後2ヶ月ないしは3ヶ月というソ連の対日参戦の時期が決定した。
ソ連は1945年4月5日に日ソ中立条約の不延長を通告し、ドイツが無条件降伏した1945年5月の3ヶ月後に当たる8月8日にソ連は日本に宣戦布告して、ソ連軍は満州、南樺太、朝鮮半島に侵攻した。
千島列島に到達したのは、日本がポツダム宣言を受諾した8月14日だった。
従って、ソ連が日ソ中立条約を破り、南千島を不当占拠したという日本政府の主張は間違いであり、戦争は既に終わっており、日本は無条件降伏していたのである。
満州、南樺太、千島列島に対するソ連の出兵はアメリカの強い要請であり、戦利品として北方四島を含む千島列島をソ連が得ることをアメリカは承認していたのである。
実は当時、スターリンは北海道を南北に割って北半分をソ連が占領する事をルーズベルトに要求していた。
しかしドイツ降伏直前にルーズベルトは病死し、後任のトルーマンはスターリンの要求を拒絶し、代わりに南樺太の返還と南クリル(北方四島)を含めた千島列島の領有をソ連に提案したのである。
このことを日本政府は理解していた為、戦後10年以上北方領土の返還を求めず、1951年のサンフランシスコ講和条約においては、早期講和のために日本は千島列島の領有権を一度放棄している。
日本政府が「放棄した千島列島に北方四島は含まれない」という立場を取るようになったのは、日ソ共同宣言が出された1956年になってからである。
サンフランシスコ講和条約にソ連はサインをしていないので、日ソの国交正常化は日ソ共同宣言によってなされるが、この時に平和条約を締結した後に、歯舞、色丹の2島返還で両国は妥結寸前まで交渉が進んでいた。
しかし1956年8月に重光外相とダレス米国務長官によるロンドン会談で、沖縄返還の条件としてソ連に対して北方四島の一括返還を求めるように迫られ、ソ連との交渉を断念。
平和条約は結ばれず、1956年10月に署名された日ソ共同宣言では領土問題は先送りとなった。
日本には全国に2900もの漁港が存在し、そのうち年間水揚げ高より港湾整備費の方が高い漁港が2000以上もある。
今や日本の魚介類消費量の半分は輸入魚であり、輸入魚は漁港ではなく、貨物港から入ってくる。
養殖や栽培漁業の割合も増加しており、近海漁業の基地でしかない小規模な漁港の必要性は低下している。
日立製作所の社名の由来は、創業地の旧国名「常陸」に「太陽とともに立つ」という意味がかけられたという。
年商9兆円、総従業員数32万人、製造業でトヨタに次ぐ日本てせ2番名の巨大企業である。
しかし、時価総額を比べるとGEが26兆円、シーメンスが12兆円に対して、日立は3.5兆円に過ぎない。
日立が海外展開を加速している鉄道システム事業の海外売上比率は2014年3月期で35%、これを2017年3月期に65%まで引き上げる目標を掲げているが、達成できたとしてもシーメンスやアルストムなどの世界の鉄道関連大手の5分の1くらいにしかならない。
今は大学で学んだ事で一生食っていける時代ではない。
マサチューセッツ工科大学の統計によると、卒業生の大半はエンジニアとして自分の専門分野に就職するが、5年後に同じ分野に留まっている人は2割ほどしかいないという。
MITのような最先端の専門教育をしている大学でも、卒業5年後には5分の1しかその専門分野に残らないのである。
基地問題で沖縄が炎上を繰り返す根本的な理由は、沖縄返還の真実を日本政府が国民に説明してこなかったことにある。
1972年沖縄返還に際して、アメリカ政府は「軍政がこれまで通りならば、民生については返還する」という条件を出したのに対して、日本政府はこの事を説明せずに沖縄返還の手柄だけを国民にアピールした。
軍政が残された以上、米軍が沖縄の米軍基地に核を持ち込もうが、貯蔵しようが日本政府は文句を言えなかった。
そして日本の防衛とは関係のない、ベトナム戦争や湾岸戦争にも沖縄の米軍基地を使用してきた。
「民生だけ返す」という日米両政府の密約を、日本国民に説明しない代償として、日本政府は沖縄振興特別措置法(2012年4月に2022年まで延長する改正法を施行)を制定し、1972年の本土復帰から振興予算の総額は10兆円を超える莫大な補助金を沖縄に投じて来た。
振興予算以外にも、軍用地代、各種税金の軽減措置などの特別扱いを40年以上受け続けた結果、沖縄県財政の75%を補助金に頼る依存体質が染みついてしまった。
九州程度の国土しかないオランダは世界第2位(2011年)の農業輸出国である。
農産物輸出額1位はアメリカ、3位がドイツ、以下ブラジル、フランス、アルゼンチンと国土の広い農業大国の中で、農地面積が限られているオランダの奮闘ぶりは際立っている。
ちなみに日本は57位で、農産物輸出10兆円を誇るオランダの30分の1しかない。
また、2011年の日本の穀物自給率は28%、農産物輸出大国のオランダは14%しかない。
オランダは農業の競争力を強化するために3つの意思決定を行った。
1つは「自由化」で、農業保護をやめ、日本の農林水産省に当たる農業・自然・食品安全省を解体して、経済省に統合し、農業部、酪農部、水産部という3つの部局に再編することで、農業を産業の一つに位置付けた。
さらに公的機関による農業指導事業を民営化(DLV Plant社)した。
2つ目は「選択と集中」で、生産品目を高付加価値品目にシフトし、農地を集約化させた。
トマト、パプリカ、キュウリの3品目で施設野菜の栽培面積の8割を占めている。
農家は集約化と大規模化が進み、農業の経営体数は1980年の15700社から2010年には7100社へ半減している。
3つ目は「イノベーション」で、オランダ国内の5ヶ所に「グリーンポート」と呼ばれる農業クラスターを形成させ、温室環境制御システム開発や温室整備の世界的なメーカーを招聘し、ITを活用したスマートアグリを展開している。
ワーヘニンゲン大学を中核とした「フードバレー」には、食品関連企業1400社、科学関連企業70社、食品関連研究機関20社が終結し、1万人の研究者によって多様なプロジェクトが進められている。
日本からはキッコーマン、日本水産、アサヒビール、サントリーらが参画している。
世界の相場ではコメは完全にコモディティ化しており、トン単位で取り扱われているにも関わらず、日本のコメは778%の関税と減反政策で守られている。
日本の農業政策の最大の問題は、付加価値の低いコメを中心に置いて、聖域化してきたことである。
戦後直後は農業就業人口の割合が50%を超えており、コメ農家も多かったので、それでもよかったが、食の多様化が進みコメの消費量は1963年の1300万トンをピークに毎年減少し、現在では800万トンほどしかない。
大幅な生産過剰となったため1971年から減反政策を開始し、10アール当り1万5000円の補助金を減反農家に支払ってきた。
米価を高止まりさせるために、補助金を払って生産調整をしてきたのである。
1970年には1000万人いち農業就業人口は今や336万人(全就業人口の2~3%)まで減り、しかもそのうち3分の2が65歳以上であり年金生活者となっている。
日本のコメ農家の平均所得の構成比を見ると、年金所得が農業所得の3倍以上となっている。
不動産の市場価格は、商業的に貸し出し可能なスペースがどれくらいあるかで決定するので、容積率次第で土地が生み出す富が規定される。
東京23区で道路や公園を除いて、建物が建てられるエリアの容積率の平均は136%と低すぎる。
米ニューヨークのマンハッタンの平均容積率は住宅街で631%、オフィス街では1421%であり平均14階建てということになる。
山手線の内側だけだと建物高さの平均は2.6階で、同じ広さを持つパリの中心部における高さの平均は6階となっている。
パリはルイ14世か゜ベルサイユ宮殿を築いた300年前から6階建てで、街並みのポリシーから建物の外観も当時と全く変わっておらず、超高層ビルは「ラ・デファンス」と呼ばれる副都心に集中させている。
ドイツは州に権限があるが、実際には市町村が容積率や高さ制限を決めている。
例えば欧州の金融センターのフランクフルトの容積率はマンハッタン並みだが、ミュンヘンでは500年前に建てられたフラウエン教会の高さ100メートルに合わせて、これより高い建物はミュンヘンにふさわしくないという理由で高さ制限がある。
逆に土地が狭い香港の商業地では20メートルより低いビルは建設できない。
このように世界では、それぞれのコミュニティで容積率などの建築基準を決めている。
建物に関してはコミュニティが強い権限を持っているのが世界の常識であり、それゆえに特徴的な街づくりができ、由緒ある街並みが守られているのである。
土地利用を制限する容積率を全国一律に国が決めているのは、世界的にも日本と日本に倣った韓国以外には存在しない。
国が定める容積率の根拠は、国土交通省のさじ加減一つで決まる。
例えば、大阪・中之島に朝日新聞社が高さ200メートルの大阪本社ビルを建設した際に、この地域の容積率は1400%だったのを、朝日新聞の要請通り、国土交通省は1600%という容積率を認めた。
つまり、建築設計の専門家が安全性を厳正に審査してOKを出したのではなく、国土交通省のお目こぼしで決まるのであり、容積率に根拠はない。
最近ではJR山手線の品川-田町間の操車場跡地を「国際戦略総合特区」に指定し、容積率を大幅に緩和する話も出ているが、このエリアだけの地盤が固いという理由はなく、容積率は特区にしたたげで変えられるような根拠のない数字なのである。