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2017年5月19日金曜日

賛成する人が殆どいない、大切な真実はなんだろう?
by ピーター・ティール(ペイパル共同創業者)
J・K・ローリングの『ハリー・ポッタ』は、世界73の言語に翻訳され、シリーズ累計4億5000万部を超える大ベストセラーである。
彼女にとって、シリーズ第1作となる『ハリー・ポッタと賢者の石』は、シングルマザーとして幼い娘を育てながら、仕事も収入もないギリギリの状態で初めて書き上げた小説だった。
しかし、12の出版社から出版を断られている。
1990年の夏、彼女が25歳の時にマンチェスターからロンドンかに帰る4時間の列車の中で、突如として『ハリー・ポッタ』の構想が浮かんできた。
その時点で、この壮大な物語が7部作のシリーズになることが分かっていたという。
構想から3年が過ぎた時には『ハリー・ポッタと賢者の石』の3章まで書き、1995年にようやく全17章を書き上げる。
彼女は原稿を代理人に送り、出版社探しを初めたが、作品のクオリティではなく、幼児書の適切な長さが4万語とされているに対して、『ハリー・ポッタと賢者の石』は9万語を超える超大作だった事がネックとなった。
英国最大手の出版社ハーバー・コリンズ、世界的に有名な老舗出版社ペンギン・ブックスをはじめとした主要な出版社からは全て断られ、12社から断られた。
唯一、出版を決めたのがブルームズベリーという出版社だった。
原稿を部下から受け取った社長のジェル・ニュートンは、家に持ち帰ったものの、超大作ということもあり、なかなか読む気になれなかったという。
8歳の娘のアリスが勝手に読んで「パパ、これは他のどんな本よりも面白いよ」と感想を述べたのが切っ掛けで、ジョアンとの契約を決めたという。
こうして1997年夏に発売が決定した『ハリー・ポッタと賢者の石』の初版はわずか500部で、ジョアンが受け取った契約金は25万だった。
その後、瞬く間に世界的なベストセラーとなり、2007年には7部作の完結編となる『ハリー・ポッタと死の秘宝』が出版されることになる。
1000年以上にわたって信じられてきた地球が宇宙の中心だとする「天動説」に対して、地球は太陽の周りを回っているのだとする「地動説」を唱えたのは、天文学者のコペルニクスである。
コペルニクスの時代には、紀元2世紀に古代ローマの天文学者プトレマイオスが著した『アルマゲスト』という専門書が、天文学の世界では絶対的な教科書だった。
全13巻からなるこの大著の中で、プトレマイオスは天動説を数学的に説明し、その考えが1000年以上にわたり支持されていた。
しかし、天動説を数学的に証明しようとすると、太陽も金星もありうないほど複雑な動きをして、ようやく天動説の理論が成り立つ。
コペルニクスは「地動説」を大々的に発表することはなく、理論の概要をまとめた小冊子を、数人の仲間に配っただけで30年以上も沈黙を守っている。
天動説を唱えるプトレマイオスの『アルマゲスト』には具体的な観測データがあまり載っておらず、数学的な理論でけではく、詳細な観測データとセットにして決定的な事実を突きつけないと賛同を得られないと考えた。
水星は3ヶ月、金星は225日、地球は1年、火星は687日、土星は30年かけて太陽の周りを回っている。
つまり、事実をベースに説明しようとすれば30年分の観測データが必要となる。
そして最もハードルが高かったのは、聖書の中で神が大地の土台をいつまでも動かないように置いた、という話が出てくることにより、地動説は神に逆らう暴論となる事だった。
コペルニクスは、最初に小冊子を作ってから30年後に地動説をまとめた著書『天体の回転について』の出版直前に70歳の生涯を閉じることになる。
原稿の内容を最終確認するための本の試し刷りが上ってきた当日のことだったという。
コペルニクスの『天体の回転について』は世間から完全に無視された。
その最大の理由は、この本が刷り上がる直前に校正者が勝手に「これは単なる仮説であり、真実であるとは限らない。観測結果と一致する計算結果を出すだけて十分なのだ」という序文を書いたからだった。
この序文を書いたオジアンダーは、熱心なキリスト教徒の神学者だった。
コペルニクスの弟子はこの序文に激怒したが、何十年もの間にキリスト教関係者から批判の声があがらなかったのは、この序文のおかげだとも言われている。
そして、コペルニクスの地動説は、17世紀の天文学者ヨハネス・ケプラー、「それでも地球は回っている」と言ったガリレオ・ガリレイに受け継がれ、完成することになる。
ちなみに、ローマ教皇庁とカトリック教会が正式に「地動説」の正しさを認めたのは1992年だった。
明治から昭和の初めにかけて、脚気と結核は日本人の二大国民病と言われていた。
特に脚気は、人口3000万人の時代に、毎年100万人の人が発病し、数万人が死亡していた。
日清戦争では戦闘による負傷が原因で亡くなったのが453人だったのに対して、脚気にかかった人が4万8000人で、このうち2410人が脚気によって亡くなっている。
そして日露戦争では、戦傷死した人が4万7000人だったのに対して、脚気にかかった人は21万2000人、このうち2万8000人が脚気で命を落としている。