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2018年1月16日火曜日

最近、不動産投資のなかで異色だった「シェアハウス」が人気となっている。
業界的には「新築シェアハウス」と「中古シェアハウス」は別物と考えられている。
新築シェアハウスは「寄宿舎」を指し、融資が比較的通りやすく、1億円程度の物件が人気だという。
現実的には空室だらけなので、8~9%の表面利回りを謳っていても、実際にはかなり儲からない。
しかも融資期間は30年が大半なので、次の融資も絶望的といえる。
一方で中古シェアハウスは、共同住宅や戸建から派生した形で扱われるので、いざ空室がなかなか埋まらなければ元に戻すことができる。
新築シェアハウスの多くは23区内にあり、立地も悪くないため人気があり、1棟の物件内に部屋が10室以上つくられる為、利回りも8%と見栄えもよく、年収1000万円クラスの人が3~5億円で購入しているという。
しかし、シェアハウスの運営会社のサイトを見ると、かなりの数の空室が掲載されている。
そもそもシェアハウスには、数少ない金融機関しか融資をしない。
つまり、売りたくても次の買主に融資が付きにくいため、簡単に売却できない。
最悪のケースでは、空室が続いた後、家賃保証が切られてしまい、その後の家賃が入って来ず、返済ができなくなってしまう。
松下幸之助の不幸は、成功とともに彼を利用しようとする人が周囲に集まってきたことである。
幸之助からカネを引っ張り出そうとする人、ゴマをすって出世しようとする人達である。
幸之助が神格化され出すのは、それを利用したい役員や幹部が増えたからである。
かつて松下には、従業員の親睦団体に「歩一会」という組織があった。
幸之助は、その会報誌『歩一会誌』に自叙伝を連載しており、その連載は戦後に『私の行き方考え方』として書籍化される。
この連載は口述筆記したもので、幸之助の思いがこもっていた。
ところが、その後、版元が一般の出版社からPHPに移ると、表現が微妙に修正され、よく言えば文章が洗練される。
現在、「松下幸之助」の署名でPHPから出される本は、幸之助の発言をPHPの頭のいい人が「まとめ」ており、いわば「改竄」して再生産しているのである。
松下幸之助の「生の声」を伝える書籍は3冊しかないという。
歩一会の自伝を一般の出版社から発売された『私の行き方考え方』と、毎日新聞がインタビューとしてまとめた『道は明日に』、日経新聞で連載した「私の履歴書」だけである。
一昔前に言われた「技術のソニー」というのは、最後の駆け込み寺という意味である。
映画監督のジョージ・ルーカスが『スターウォーズ』をフィルム撮影からビデオへ、つまりフルデジタルで撮りたいと思った時に、ソニーに相談した。
3D作品『アバター』のジェームス・キャメロン監督は、当初、深海のドキュメンタリー映画の制作に乗り出した時に、人間の目で見るとの同じように「立体映像」で撮りたいから専用のビデオカメラを開発して欲しいと泣きついたのもソニーだった。
その時に開発した専用のビデオカメラが、後に『アバター』を撮影する3Dカメラに発展するのである。
宇宙飛行士の向井千秋さんがスペースシャトルに搭乗した際に、NHKがHD対応のビデオカメラを持たせて船内から宇宙ま様子を撮影したいと考えた。
しかし宇宙空間には、宇宙線が飛び交っていてビデオカメラの映像素子のCCDは宇宙線に弱く、当たると傷が付き華麗な映像が取れない。
世界中を探しても、どのメーカーも手を挙げないので、困り果てたNHKが最後に頼ったのがソニーだった。
ソニーに頼んでダメだったら仕方ないと諦めもつくし、言い訳ができる面もあったという。
しかし、今のソニーは、残念ながら優秀なエンジニアをリストラで全て切ってしまい、市場を牽引するような新しい製品開発はできなくなってしまった。
松下幸之助は、会社を大きくするために世の中を見て、軍人の時代になった時は、軍部とパイプを持ち、無線機部品や電池などの軍需製品以外も、木製の飛行機や船を作っていた。
戦前に松下電器が朝鮮や台湾など海外工場を含めて軍需中心の生産体制に移行していたのは事実である。
戦後、松下家と松下電器が「戦犯」と見なされ、GHQから「財閥指定」を受けると、幸之助は「財閥ではない」と東京のGHQ本部に何度も釈明に訪れている。
そこで、軍部との親しい関係会社の発展の障害となるので、「PHP(繁栄によって平和と幸福を)」運動を開始するのである。
松下電器貿易の専務をやった斎藤周行が書いた『拝啓 松下幸之助殿』という本の中で、松下家へ年賀に参上した社員は、玄関であいさつして帰る玄関組と座敷まで上げてもらえる昇殿組とにハッキリ区別されていた事などについて述べた後に、松下の「宗教的雰囲気」の不気味さを書いている。
社歌斉唱は自己睡眠をかけるための呪文の役割を果たしていたという。
別名、マネシタ電器と呼ばれた松下電器は家庭用VTRの「ビデオ戦争」でも、反側すれすれの事をやっている。
1974年9月に、ソニへは松下電気と日本ビクターにVTRの共同開発の申し出をし、カセットと図面を手渡した。
それなのに、翌1975年9月に松下はソニーに何の連絡もなく、独自開発したというVTRを発売したのである。
ソニーからすると、自分達が規格統一を呼びかけ、公開したVTRの製品と技術を参考にして松下が抜け駆けしたと思わざるを得なかった。
トヨタ自動車は、豊田家では株式を2%程度しか所有していない。
豊田章一郎会長、豊田章男社長で0.2%しか持っていない。
資本の論理で言えば、豊田家の会社ではない。
梶山三郎著『トヨトミの野望』の主人公は、上場している社会の器という存在であり、株式を持っていない豊田家という、創業者の子孫だからという理由で、経営をまかせても良いのかという問題提議をしている。
株式を公開して、創業者利益を得た時点で、本来は豊田家のものではなくなるはずである。
『古事記』にも出てくる歴史ある地名の挙母(ころも)町を、1959年に豊田市に自治体名を変えた時の市長は、現在も年に1回、顕彰祭が行われて功績を讃えられているという。
JALは会社更生法を適用したので株が紙屑になったが、借金はチャラになった。
銀行の融資負債は殆どなくなり、公的資金も入り、その後に税金が免除され、トータルで4200億円がプレゼントされている。
その結果、金が余っていて給料を上げ始め、人件費だけで200億円上積みされている。
バイロットは既にANAよりも高くなり、世界一高いパイロットを雇うようになっている。
これは注ぎ込まれた税金から払われているようなものである。
日本の空港では成田、羽田、伊丹だけが黒字で、地方空港で黒字の空港はまず存在しない。
黒字に見えてはいるが、血税部分を除くと全て赤字となる。
福岡空港は元々米軍の用地だったので地代がかかっており、そういう特殊事情を除けば黒字ではある。
日本航空には一番多い時には労働組合が9つもあった。
世界中の航空会社に共通するのが、組合対策といのが一番大事にことである。
ところがJALは組合対策をしっかりやって来なかった。
JALには企画・広報、営業、労務という3つの出世畑があり、東大卒の労務畑のエリートがかなり幅をきかせ、組合となあなあで付き合てきたという面があった。
私学グループの民族派、東大卒が多い労務畑と企画畑の三派に分かれていた。
中曽根民活というのは、清和会に対して、中曽根が利権の奪取を目指して民活を仕掛けるという構図だった。
田中角栄は、個人株主として筆頭株主だった小佐野賢治のパイプを利用した。
JALは権力者に利用されてきた歴史を持つ。
日本航空は、満州航空などが母体となって戦後にスタートした。
初代社長は日銀出身者で、運輸省が作った国策会社だったため、その後ずっと運輸省からの天下りが社長になる慣習が続いていた。
組合対策も満州浪人を使ったりしていたので、小佐野賢治を引っ張り込むような土壌を生んでしまった。
東芝は社会教育団体の修養団が行う伊勢神宮の五十鈴川にふんどし一つで入らせるみそぎ研修を熱心にやっている。
1974年春に結成された同社の秘密組織「扇会」を知ると、会社の体質が良く理解できる。
会社のスパイ組織ともいうべきこの会の実態は、府中工場で労働組合といっしょになって人権侵害と職場村八分を繰り返し訴えられた「職場八分裁判」の過程で明らかとなった。
組合執行部を「健全派で固める」とか、配転について「応じるという結論を出さねば職場にいられないというムードを作る」ために努力すると誓っている扇会の文書には「問題者への対応」という章があり、「問題者」を判断するポイントが挙げられている。
<職場での兆候判断ポイント>
・企業内(職場)では、行動に空白部分が多く、昼休み時、終業後の行動が見当つかない。
・自主的な傾向が強くなり、職制に対する協調性が弱くなる。
・職場の同僚や、特に若年者と新入社員の悩みごとや苦情に対する世話役活動を積極的に行う。
・若い人を対象として「サークル活動」に力を入れ、いろいろとインフォーマルグループをつくり、その中心となって面倒をよくみる。
・就業規則をよく知り、有給休暇、生理休暇の全面行使など、権利意識が強くなる。
・職場での小さな九丈職場要求が多くなり、不平、不満を組織化し、それを職場の代弁者として説得力ある発言を職場や職制にするようになると共にも職場問題を不必要に拡大発展させる傾向が強くなる。
・朝のお茶くみ、掃除、その他のサービス労働に抵抗するようになり、奉仕的な美徳をなくする方向に力を入れる。
・特別な理由もないのに、特定日の残業をしない。
・職制の言動をマークし、職制のいうことをよくメモにとる。
・昇給時に、同僚の昇給を聞いて歩いたり、上司、会社の査定について職制にいろいろ問い質す。
他にも、「問題者」を発見するためのポイントはもっと多岐にわたる。
そして、それと思われる人間がいると1804名の会員で結成された扇会のメンバーが尾行したりして、その結果を「本社勤労部」に通報するという。
こうしたチェックによって、東芝は全身全霊のイエスマンしかいなくなったのである。
東京電力の原発PRで巧みなのが、地方紙を利用していくことである。
地方紙の論説委員をシンポジウムに必ず絡ませるという。
このやり方は、特に原子力発電環境整備機構(NUMO)が行い、電通と共同通信、全国地方新聞連合会が組んで、記事が広告か分からないようにステルスマーケティングの形を取っていた。
『東京新聞中日』だけは、中部電力に組み込まれるのを断って、されを貫いている。
福島原発事故の時に、東京電力の勝俣恒久会長は北京にいた事はよく知られているが、その時にマスコミのOBみたいなグループと一緒だったという。
『週刊現代』編集長だった元木昌彦氏、元『週刊文春』の花田紀凱氏、毎日や中日など新聞各社の相談役クラスと一緒だった。
引率団長が「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書を作っている自由社の石原萠記氏だった。
石原氏は戦後に社会党右派にいた人で、その関係でフォード財団の代理人となる。
米国政府は外交においては外国の政府を相手にし、外国の民間を相手に工作するのは、ロックフェラー、カーネギー等の財閥系の財団がその役割を担っている。
当時はその中でフォード財団が対日世論工作を受け持っていて、石原氏はその使い走りをしていた。
石原氏は、『月刊自由』という雑誌を創刊し、左派が全盛だった時代の日本のメディア界で、保守論壇というものの先駆けとなっていた。
1969年に文春が『諸君!』を創刊することで実質的には力を失って覇権を取られてしまうが、それまで60年代の保守論壇では『月刊自由』の存在感は大きかった。
『月刊自由』は単なる雑誌というだけではなく、保守系の言論人を育成する役割を担っていた。
シンポジウムや会合を主催し、たくさん人材を集めて育てていた。
この石原氏の活動は、フォード財団と直にやり取りをするのではなく、日本の財界人とやっていたという。
新日鐵の藤井丙午、東電の木川田一隆らで、最も頻繁に接触していたのは木川田の子分である平岩外四だったという。
それ以来、石原氏のスポンサーは東京電力となった。