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2016年9月24日土曜日

マニラのマッカーサーから届いた「一般命令第一号」により、ようやく各地に展開していた各部隊が、連合国のどの国に降伏するかが明らかになった。
日本本土も分割統治されない事が分かり、日本の上層部はやっと安心できた。
そして、各部隊の降伏先は次のように指令された。
朝鮮半島にいた第17方面軍のうち、北緯38度以北にいた軍隊は極東ソ連軍総司令へ、以南は米陸軍部隊最高司令官に降伏することが決まった。
日本軍を武装解除させるために、ポツダム会談でソ連とアメリカが交渉して決めた仮の分断線が、そのまま北朝鮮と韓国を分ける38度線となってしまった。
ベトナムも同様で、支那、台湾、および北緯16度以北の北部仏印にいた日本軍部隊は、蒋介石総裁に、香港にいた部隊は英海軍ハーコート少将に武装解除されることになった。
そして南方軍のうちビルマ、タイ、マレー、そして北緯16度以南の南部仏印は東南アジア連合国軍最高司令官に降伏する。
つまり、ベトナムも北緯16度で南と北に分断され、これがのちのベトナム戦争へと引き継がれていくことになる。
そしてラバウルにいた第8方面軍は豪州軍司令部に、残りの満州全土の関東軍は、極東ソ連軍総司令部ワシレフスキーに武装解除されることになった。
満州がソ連の猛攻にさらされていた頃、東京では大騒ぎになっていた。
アメリカからの初めての命令を受け取りに、マッカーサーのいるフィリピンのマニラまで使節団を派遣する準備に慌てていた。
アメリカ政府は、8月16日の早朝に、日本に対する「一般命令第一号」に関する指令を出している。
即時停戦を命じるとともに、ついては降伏条件を遂行するために必要な諸要求をするから、マニラの連合国軍司令部まで使節を派遣せよ、というものだった。
8月17日に、使節団メンバーを慌てて人選したが、降伏に関する使節のような屈辱的な役目を、みんなが嫌がり難航していた。
また、もし降伏文書に調印するなら全権大使を任命せねばならないので、アメリカに、これは降伏文書調印なのかと問合せをしている。
このように当時の連合国軍司令部との電報のやりとりは、束になるくらい沢山残っており、日本の首脳部は初めての降伏という事態に準備ができていなかったのである。
結局、降伏文書に調印するのではなく、ただ命令書を受け取るだけだと分かり、河辺虎四郎参謀次長を筆頭に通訳2人を合わせて計14名の大所帯が使節団としてマニラに行く事になった。
アメリカからは、沖縄の伊江島まで来いと、そこから大きな飛行機でマニラまで連れていくと言われていた。
総勢14名となると、海軍の大型輸送機が必要となり、それだと給油のために一度、九州の鹿屋基地に降りる必要がある。
しかし、鹿屋基地には海軍の精鋭・第五航空艦隊とスターパイロット源田実大差が率いる343航空隊がおり、彼らが使節団の撃墜を試みる可能性があった。
特に第五航空艦隊の司令長官の宇垣纏中将は、8月15日の夕方に自ら艦爆10機を率いて沖縄の米軍船団への特攻で戦死している。
そこで、使節団は中型飛行機の一式陸攻2機に分乗して、木更津飛行場から沖縄に直行することにした。
しかし、厚木航空基地にある小園安名大佐の指揮する海軍航空部隊が追いかけてくる可能性があった。
そこでまた木更津から南下して戦闘機が届かないところまで行き、大騒ぎしてようやく伊江島に到着した。
無事にマニラに着いた使節団は8月20日に今度はアメリカから3つの大事な書類を受け取って伊江島まで帰ったが、一式陸攻の1機が故障して修理が必要となり、仕方ないので先発・後発に分かれて、第一便にマッカーサーからの書類のうち2つを乗せた。
この3つの書類は、1つ目が降伏状、2つ目が降伏に関する天皇の布告文案(詔書)、3つ目が降伏実施に関する陸海軍総命令第一号というものだったが、先に持ち帰ったのが2と3だったという。
つまり肝心の降伏文書は後発の飛行機で戻ってくることになってしまった。
しかし、ここでまたトラブルが起きる。
なんと飛行機が日本へ着く直前で燃料切れとなり、浜松付近の海岸近くの海上に不時着してしまう。
東京では撃墜されたのではないかと心配していたという。
こんなふうにして、ドタバタのうちに、マッカーサー司令部からの「一般命令第一号」が、予定時間より大幅に遅れて到着したのである。
1945年8月19日の午後3時半に行われたジャリコーヴォ会談の内容について、8月21日に秦総参謀長より大本営宛に報告を打電している。
そこには、ソ連との会談で取り決めた7カ条の「協定」が書いてあるが、その中には捕虜を本国へ一刻も早く帰還させることは出ていない。
第三番目に、「日本軍の名誉を重んず。これがため将兵の帯刀を許可し、また武装解除の取扱いも極力丁寧にす。解除後の将校の生活はなるべく今迄同様とす」とあり、これをソ連側は了承したと書いてある。
これは、日露戦争の乃木将軍がロシアのステッセル将軍に示した姿勢と全く同じであり、この帯刀に関しては相当こだわったようである。
将校には労働させないことについては、1907年のハーグ陸戦条約にもなっているのに、第三項では「将校の生活はなるべく今迄同様とす」とあるだけで、7項以下の電報は「未着」となっている。
この電報の記録を見る限り、将兵を速やかに本国へ帰還すべし、という要求をしていない。
この「以下未着」の部分に、何が書かれていたかについては、戦後に瀬島は一切語らなかった。
そして、合意をしたならばソ連側にも、その裏付けとなる資料が出て来くるはずでが、それも出で来ないという事は、ソ連側にも何か隠したいことがあるのかもしれない。