満州がソ連の猛攻にさらされていた頃、東京では大騒ぎになっていた。
アメリカからの初めての命令を受け取りに、マッカーサーのいるフィリピンのマニラまで使節団を派遣する準備に慌てていた。
アメリカからの初めての命令を受け取りに、マッカーサーのいるフィリピンのマニラまで使節団を派遣する準備に慌てていた。
アメリカ政府は、8月16日の早朝に、日本に対する「一般命令第一号」に関する指令を出している。
即時停戦を命じるとともに、ついては降伏条件を遂行するために必要な諸要求をするから、マニラの連合国軍司令部まで使節を派遣せよ、というものだった。
即時停戦を命じるとともに、ついては降伏条件を遂行するために必要な諸要求をするから、マニラの連合国軍司令部まで使節を派遣せよ、というものだった。
8月17日に、使節団メンバーを慌てて人選したが、降伏に関する使節のような屈辱的な役目を、みんなが嫌がり難航していた。
また、もし降伏文書に調印するなら全権大使を任命せねばならないので、アメリカに、これは降伏文書調印なのかと問合せをしている。
このように当時の連合国軍司令部との電報のやりとりは、束になるくらい沢山残っており、日本の首脳部は初めての降伏という事態に準備ができていなかったのである。
また、もし降伏文書に調印するなら全権大使を任命せねばならないので、アメリカに、これは降伏文書調印なのかと問合せをしている。
このように当時の連合国軍司令部との電報のやりとりは、束になるくらい沢山残っており、日本の首脳部は初めての降伏という事態に準備ができていなかったのである。
結局、降伏文書に調印するのではなく、ただ命令書を受け取るだけだと分かり、河辺虎四郎参謀次長を筆頭に通訳2人を合わせて計14名の大所帯が使節団としてマニラに行く事になった。
アメリカからは、沖縄の伊江島まで来いと、そこから大きな飛行機でマニラまで連れていくと言われていた。
総勢14名となると、海軍の大型輸送機が必要となり、それだと給油のために一度、九州の鹿屋基地に降りる必要がある。
しかし、鹿屋基地には海軍の精鋭・第五航空艦隊とスターパイロット源田実大差が率いる343航空隊がおり、彼らが使節団の撃墜を試みる可能性があった。
特に第五航空艦隊の司令長官の宇垣纏中将は、8月15日の夕方に自ら艦爆10機を率いて沖縄の米軍船団への特攻で戦死している。
しかし、鹿屋基地には海軍の精鋭・第五航空艦隊とスターパイロット源田実大差が率いる343航空隊がおり、彼らが使節団の撃墜を試みる可能性があった。
特に第五航空艦隊の司令長官の宇垣纏中将は、8月15日の夕方に自ら艦爆10機を率いて沖縄の米軍船団への特攻で戦死している。
そこで、使節団は中型飛行機の一式陸攻2機に分乗して、木更津飛行場から沖縄に直行することにした。
しかし、厚木航空基地にある小園安名大佐の指揮する海軍航空部隊が追いかけてくる可能性があった。
そこでまた木更津から南下して戦闘機が届かないところまで行き、大騒ぎしてようやく伊江島に到着した。
無事にマニラに着いた使節団は8月20日に今度はアメリカから3つの大事な書類を受け取って伊江島まで帰ったが、一式陸攻の1機が故障して修理が必要となり、仕方ないので先発・後発に分かれて、第一便にマッカーサーからの書類のうち2つを乗せた。
この3つの書類は、1つ目が降伏状、2つ目が降伏に関する天皇の布告文案(詔書)、3つ目が降伏実施に関する陸海軍総命令第一号というものだったが、先に持ち帰ったのが2と3だったという。
つまり肝心の降伏文書は後発の飛行機で戻ってくることになってしまった。
しかし、ここでまたトラブルが起きる。
なんと飛行機が日本へ着く直前で燃料切れとなり、浜松付近の海岸近くの海上に不時着してしまう。
しかし、ここでまたトラブルが起きる。
なんと飛行機が日本へ着く直前で燃料切れとなり、浜松付近の海岸近くの海上に不時着してしまう。
東京では撃墜されたのではないかと心配していたという。
こんなふうにして、ドタバタのうちに、マッカーサー司令部からの「一般命令第一号」が、予定時間より大幅に遅れて到着したのである。
こんなふうにして、ドタバタのうちに、マッカーサー司令部からの「一般命令第一号」が、予定時間より大幅に遅れて到着したのである。
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