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2014年2月23日日曜日

大学にはカレッジとユニバーシティがあり、カレッジは単科大学で、ユニバーシティが総合大学だと、日本の中学では教わる。

しかし、欧州では神学部がないとユニバーシティとは言わない。
日本で一番最初に学生がストライキを起こしたのは同志社大学だった。

特に神学部の連中が中心となって起こしたが、新島襄はその学生たちを退学にしなかった。
その代り、杖を持ってきて思いっきり自分の左手を叩いた。
それも普通の叩き方ではなく、本気で叩いて、骨が折れて肉が飛び散るほどで、新島襄は左手が生涯不自由になった。

ストライキというのは秩序に対する藩閥で、学生にも言い分はある
しかし、秩序を壊したことについて誰かを罰しないといけない。
それは教育者としての自分の責任だということで、新島襄はそういう責任の取り方をした。
スマートで上品な社会民主主義福祉国家は、だいたいの場合「警察国家」になる。
金持ちから税金をとって、その再配分を政府、つまり官僚が行う。
その為には、官僚は国民一人ひとりの経済状態や生活環境を管理しなくてはならない。

北欧、スイス、英国、アイルランドなどの福祉国家は、どこも国民総背番号制をとっている。

また、スウェーデンは北朝鮮人に査証(ビザ)を要求しない数少ない国の一つである。
第二次大戦中、中立国だったスウェーデンは、外国人を徹底的に監視し、中立を侵害した者を直ちに国外追放にする草の根レベルの密告システムを作っていた。
その伝統が今も生きていて、スウェーデン市民は外国人の活動を当局に報告する習慣が身についているので、ビザなと必要ないのである。

実際に北朝鮮と外国の秘密接触はストックホルムで行われる事が多い。
内閣情報調査室には、組織として200名の大所帯である。
総理直結のヘッドクォーターの情報部門が200人という国は世界でもない。
竹島問題の根源は、日韓基本条約である。
その中には、領土問題は何も書かれておらず、「紛争の解決に関する交換公文」というのがあり、その中で、

「両国政府は、別段の合意がある場合を除くほか、両国間の紛争は、まず外交上の経路を通じて解決するものとし、これにより解決することができなかった場合には、両国政府が合意する手続きに従い、調停によって解決を図るものとする」
としか書かれていない。

竹島問題が紛争かどうかということは書かれていいない。

当時の状況として、竹島問題を書けば韓国の代表団の帰国後の命の保証もない状況であり、日本が妥協したのである。
東ドイツの憲法は、ワイマール共和国憲法に極めて類似していて、現実にもソ連とは違い、複数政党制がとられていた。

ドイツ社会主義統一党以外にも、農民党、キリスト教民主党、さらには旧ナチス党員で悔い改めた人々から構成された国民民主党すら存在した。

東ドイツの為政者が賢明だったのは、キリスト教徒やナチス主義者など、世界観的にマルクス・レーニン主義に統合できない人々を体制外に追い出すのではなく、受け皿となる組織を作って、体制内に取り込んだのである。
南サハリン(樺太)の地位は国際的に未定である。
なぜ、ロシアが南サハリンにいるのか、国債社会ではちゃんと説明できない。

サンフランシスコ平和条約第二条C項で、日本はサハリンとウルップ以北の千島列島を放棄した。
しかし、これらがどこの国に所属するかは決まっていなかった。

本来ならば、南サハリンと千島列島の帰属は連合国が決めねばならない。
小泉総理は、ドイツ訪問の際に、シュレーダー首相と一緒にワーグナーを聴いてしまった。

ワーグナーとナチス・ドイツは一体で、ナチスの党大会でもベルリン五輪でも演奏された。
イスラエルでは、ワーグナーが演奏された時に、国を割る大変な議論になってしまった。

ワーグナーを日独の首相が一緒に聴くことを世界がどう受け止めるか、その影響を考えねばならない。
過去の慣例によると、ソ連なりロシアの大統領が日本に来日した時に、外務省のロシア課長をやっていれば、会談の結果がどうであろうと必ず局長になれる。

外務省では、大物の訪日の実現自体が出世の登竜門となるので、課長はそこに固執する。
ヒトラーのドイツに、ソ連が勝利できたのは、日本が日ソ中立条約を遵守したからである。

この条約を締結した時、外国要人の送迎など滅多にしたことがないスターリン自身がモスクワのヤロスラブリ駅まで、当時の外相・松岡洋右を見送りに来た。
そして抱き合って、「俺も君もアジア人だ」と言ったという。
明治天皇は神田駿河台の「ニコライ堂」(日本ハリスト正教会復活大聖堂)の主である宣教師ニコライに敬意を示していた。

そもそも正教会、今も毎週日曜に、天皇陛下、日本国皇室の繁栄のためにお祈りを捧げている。
これは正教の国家観からすると、各国の元首、国家に対して忠誠を誓うということだからである。

日露戦争が始まった時に、ロシア人で愛国的なニコライは、「もしも宣戦の詔勅が発せられたら、みなさんは日本の勝利の為に祈らねばならない。これはその国における正教会信者の持つ義務である」と説教し、戦時下の日本に留まった。

この話が明治天皇に届き、天皇はニコライを守る事を約束した。
例外的なことだが、ニコライの葬儀には侍従を参列させ御賜の花環を贈呈した。