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2016年1月7日木曜日

ロンドンにある大英博物館の収蔵品は800万点で、そのうち常設展示されているのは15万点である。
大英帝国時代に世界中かの植民地かせ集められたものも多数あり、植民地が独立国家となった現在では、しばしば収蔵品の返還運動が起こっている。
そもそもは古美術収集家の医師が1人で始めた収集品から始まったものだという。
入館料は無料で、宝くじを発行して建造資金を集めた所から成り立っていて、1759年に世界で初めて一般に公開された博物館で、現在に至るまで運営は全て寄附金で賄われている。
「世界は神が作ったが、オランダはオランダ人が作った」という諺がある。
国土の4分の1が海抜ゼロメートル以下というオランダは、海岸沿いの失地などを埋め立てて、国土そのものを自分達で作ったきた。
最古の堤防はローマ帝国時代とも言われるが、本格的に干拓が始まったのは11世紀から13世紀にかけてである。
アムステルダムの中心部には幾重にも運河があり「水の都」となっており、世界遺産にも登録されている。
アムステルダムの街の中心部を円で取り囲むように全長135キロメートルに達する堤防と40以上の要塞が築かれており、敵が攻めて来たらこの要塞の水門を閉じて、堤防の外側を冠水させるという防衛システムとなっていた。
ちなみにオランダの地名の語尾によくみられる「ダム」という単語は、日本語にもなっており、水をせき止める「ダム」を意味する。
バチカン市国への入国にはパスポートは不要で、城壁内にはガソリンスタンドやスーパーマーケット、郵便局もある。
切手の販売はバチカンの大きな収入源であり、バチカンでは外国の切手は使用できない。
ローマ市民が外国へ郵便を出す時は、バチカンまで足を延ばして切手を買い、バチカンのポストに投函した方が、ローマから投函するより、郵便がはるかに早く着くと言われている。
バチカンには経済的利益を追及する産業らしきものは無く、収入は切手の販売やバチカン博物館の入場料、出版物の販売、そして世界中のカトリック信徒からの募金である。
326年に、当時のローマ帝国の国王だったコンスタンティヌス1世が、使徒ペテロの墓があると伝えられてきたこの地に、最初の教会堂を建てたことが、バチカン市国の始まりである。
元々の地名は「ウァティカヌスの丘」だったことから、バチカンになったという。
その後、ここに住んでいたローマ司教がカトリック教会に強い影響力を持つようになるに従い、カトリックの本拠地となった。
法王は1000年ほどの間、ローマの球団に居住していたが、やがてバチカンの中に宮殿を建てて、そこに住むようになった。
19世紀半ばまでは広大な領地を持っていたものの、イタリア王国が全ての領地を接収して、バチカンをイタリア領とすることになった。
当時の法王は反発し、教皇庁とイタリア政府の対立は50年続いたが、1929年に両者の合意が成立し、法王側が教皇領を放棄する代わりに、バチカンを独立国にすることとなった。
ローマの中にカトリックの総本山であるバチカン市国という国がある。
1929年の「ラテラノ条約」で、イタリアによって独立国家として承認された世界最小の国で、面積は皇居の3分の1程度。
800人ほどの国民の殆どが聖職者か修道士、修道女で元首はローマ教皇である。
日本では「ろーく法王」と呼んでいるが、先々代の法王ヨハネ・パウロ2世が来日した1981年に、「法王」ではなく「教皇」に統一することを、日本のカトリック中央協議会は決定した。
しかし、日本政府は「日本における各国公館の名称変更は、クーデターなどによる国名変更時など特別な場合以外は認められない」という方針で、日本にある「ローマ法王庁大使館」も「法王」を使っているため、マスコミもこれに従っている。
ベルリンの壁の崩壊によって、東ベルリンは急速に変容を遂げている。
壁から100メートル空いていた帯状の地帯にデパートやオフィスビルが次々に建設され、東ベルリン時代の名残りは消えている。
東西の違いが残っているのは、「アルペルマン」という東ドイツの信号機に使われていた「歩け」と「止まれ」の標識デザインで、帽子をかぶったおじさん。
ベルリンの壁をまたぐような横断歩道の信号は、両方見ることができる。
もう一つは夜の色で、旧西ベルリンには現在も多くのガス灯が残されている。
ベルリンの壁があった当時、西ベルリンの電力は東ベルリンからの供給に頼らざるをえない状況だったので、電力消費を抑えるために街灯をガス灯にした。
一方の東ベルリンは充分な電力があったため街灯にはナトリウムランプが使用された。
その為、ベルリンの夜は東側は黄色っぽく、西側は白っぽい。
これは国際宇宙ステーションから見ても分かるという。
ベルリンの街を夜に歩いて、該当の色が変わったら、そこが東西の境目なのである。
イスタンブールを東西に分けるボスポラス海峡に、2013年に海底鉄道トンネル「マルマライ」が開通した。
「マルマライ」とは、「マルマラ海」と「ライ」(鉄道)の造語で、このプロジェクトは大成建設が担当した。
2本の橋しか無かった時は、渋滞時にはボスポラス海峡を渡るのに1時間は必要だったが、この鉄道トンネルの完成で4分で横断できるようになった。