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2018年2月10日土曜日

関東圏に在住している40~79歳までの男女(有配偶者863人、単身者299人)を対象に行われた調査をまとめた『セックスレス時代の中高年「性」白書』(日本性科学会セクシャリティ研究会編:2016年)によると、「この1年間に性交をしたいと思ったとはどれくらいあるか」という質問に対する結果は、「たまにあった」まで含めると、配偶者がいる男性では、40代91%、50代89%、60代78%、70代81%に上る。
同じく配偶者がいる女性では、40代72%、50代53%、60代42%、70代33%となっている。
厚生労働省の「平成26年度衛生行政報告によると、10代の人工妊娠中絶件数は17,854件と、1日につき48人、1時間につき2人の未成年者が人工妊娠中絶を選択している。
こうした現状は、精神的に未熟なせて年特有の現象であり、年齢が上がれば避妊の情報や知識がでは、理性的に判断できる人が増えるはずだと思ってしまう。
しかし現実は反対で、人工妊娠中絶件数はむしろ年齢が上がるとともに上昇する。
20代では76,445件と10代の4.2倍となり、30代では69,732件と10代の3.9倍といずれも10代の件数を遥かに大きく上回っている。
40代でも17,856件と10代とほぼ同数の件数となっている。
宝塚大学看護学部の日高庸晴教授らが2008年に15~24歳の男女2000人を対象に実施した街頭調査によると、性的指向と自殺リスクの関連について、異性愛者と性的マイノリティとの比較が行われた。
その結果、ゲイやバイセクシャルなど性的マイノリティの男性は、異性愛者の男性と比べて、自殺を図るリスクが5.9倍になることが明らかとなた。
また2005年に厚生労働省エイズ対策研究事業の一環でゲイ・バイセクシャルの男性5731人を対象に実施されたしんたーネット調査では、回答者の65.9%が自殺を考えたことがあった、という結果が出ている。
医療機関で性犯罪者を対象にした再犯防止プログラムに携わるソーシャルワーカーの斉藤章佳氏は著書『男が痴漢になる理由』(2017年、イースト・フレス)の中で、「痴漢をするのは野獣のような性欲を抑制できない男性」というイメージは全くの誤りであると指摘している。
痴漢を含めた再犯防止プログラムの受講者ほぼ半数は大卒の会社員で、働き盛りの30~40代が7割を占めている。
そして全体の4割が既婚者であり、子供がいる人も大勢いる。
斉藤氏は「痴漢は依存症だある」と主張する。
痴漢により生じるリスクを理解しているのに、自分自身の性的欲求や衝動をコントロールできない。
痴漢によて逮捕や失業、離婚など社会的な破綻を経験しているにも関わらず、それでも辞められない。
彼らが痴漢を始めたのは「なんとなく」という理由が多く、「意外と簡単だ」「女性は嫌がっていないんだ」という新鮮な驚きを覚え、常習化していくケースもあるという。
また痴漢加害者200名への聞き取り調査の結果、痴漢行為中に勃起していると回答したのは3割にすぎなかった。
つまり、痴漢を行う男性は必ずしも性的欲求満たす目的で痴漢をしていわけてはない。
痴漢行為は、彼らにとって「ストレスへの対処法」という面もあり、仕事や家庭ての人間関係によるストレスや孤独感が痴漢行為の引き金になるという。
そして、痴漢の多くは逮捕されて実刑判決をうけても反省しておらず、自分が加害者であるという意識や記憶自体を忘却してしまうという。
SNSのタイムライン上が自分と同じ価値観や信念を持っている人の投降ばかりで埋め尽くされる状況を「フィルターバブル」という。
インターネットの世界では、過去の検索履歴や購買履歴に応じて、私たちが見たい情報を推定・選別した検索結果やレコメンドが自動的に提示されてしまう。
その繰り返しの中で、私たちは自分の趣味や主義に合わない情報から隔離され、実質的に自分が見たい、触れたいと考える文化や思想の皮膜(バブル)の中に閉じ込められ、孤立するようになってしまう。
現代のネット社会は、「情報を見つける」のではなく、「情報に見つけられる」社会なのである。
特定の価値観に基づいてネットサーフィンやショッピングをしているうちに、ネット上での行動がデータ化され、それに適した情報世界に引き寄せられ、見たい情報だけに取り囲まれる快楽に浸かることになってしまう。
2010年に日本家庭家族計画協会が実施した「第5回 男女の生活意識に関す調査報告」によると、10代後半(16~19歳)の段階でセックス経験率は、男性24.6%、女性20.0%である。
『全国母子世帯等調査結果報告』によると、養育費を受け取っている母子世帯は19%しかいない。
さらに、「養育費の取り決めをしていない」いうケースが58.3%にも上る。
その理由を尋ねる項目では、「相手に支払う意思や能力がないと思った」が47%、「相手と関わりたくない」が23.7%、「取り決めの交渉をしたが、まとまらなかった」が9.5%と続く。
なお、「養育費を現在も受けている又は受けたことがある世帯のうち額が決まっている世帯の平均月額」は4万2008円である。
仮に養育費を得られたとしても、とてもこの金額で子育てをするのは困難である。
書籍は今後も紙の時代が続く。
理由は、教科書会社の利権はそう簡単に崩れないからである。
電子書籍元年というのは、小学校、中学校の教科書がiPadなどのタブレット型端末になったときである。
初動の段階で紙に慣れると、紙から離れ慣れない。
佐藤優氏が持ち歩くiPadには4200冊の電子書籍が入っているという。
講談社の『人類の知的遺産』、中央公論の『世界の名著』、河出書房新社の『世界の大思想』、『マルクス・エンゲルス全集』、『ヘーゲル全集』などが入っている。
芳沢光雄著『新体系・高校数学の教科書』(講談社ブルーバックス)は、過去50年の数学の教科書を全部読み直して、大学の数学に連結するような過度な、過度な計算に追われない形で組み直した数学がこの本である。

「近代経済学」という言葉は日本にしかない。
最近の経済学の本には「近代経済学」とは書かれてなく、単に「経済学」とか「主流派経済学」と書かれている。
日本はマルクス経済学が強かった時期があったので、マルクス経済学以外の経済学を近代経済学と言っていたが、マルクス経済学の研究者が存在しなくなった事が影響している。
近代経済学という言葉を作ったのは、杉本栄一という一橋大学の数学の教授で若くして亡くなってしまった。
「杉本経済学」ともいわれるユニークな経済学の考え方は、現在でも竹中平蔵、浜矩子などの弟子が受け継いでいる。
一橋の経済を出た人たちというのは、経済学説史的なアプローチをする。
杉本栄一著『近代経済学の解明』の中には、ケンブリッジ学派やローザンヌ学派と並んでマルクス学派が登場する。
本来の近代経済学というのは、マルクス経済学と、いわゆる主流派の経済学を全部合わせて近代経済学と言って、その中で相互に瀬在琢磨した方が良いという考え方だった。

芳沢光雄著『論理的な考え、書く力』の中で、試験のマークシート式で、五肢択一では大体「3」の先駆しの確率が高くなるという話が出ている。
出題者側からすると、一番目と最後に正解は置きなくない。
そうすると自然と三番目が多くなるということで、それが本当に有意かどうか統計をとってみたら、明らかに有意な数字が出てくるといった事が詳しく書かれている。
外交というのは国家の力と力の均衡戦で決まる。
竹島問題が深刻になっているのは、日韓基本条約を1965年に結んだ時点と比べて、韓国の国力が圧倒的につき、日本の国力が相対的に弱くなっているからである。
尖閣諸島問題で中国が挑発的な活動をできようになったのは、国交正常化をし、日中平和友好条約を締結した1970年代と比べて、中国の国力か圧倒的について、日本が相対的に弱くなっているからである。
絶対的な日本の国力は日本の方が強いくなってはいるが、相対的な力関係が変わってきたということなのである。
近代の日本には、常に急激な人口増という問題をかかえていた。
1872年(明治5年)に3500万人弱だった日本の人口は、60ん足らず間に3000万人以上増加して、1931年(昭和6年)には6500万人(植民地人口は除外)を突破している。
1924年にアメリカで排日移民法が成立して以来、日本の移民はブラジルを中心に中南米に向かっていく。
1932年に満州国が建国されて以降、満蒙開拓団により農業移民が本格化し、数十万人の日本人が新天地へ向かっていった。
満蒙の地は、当時の日本における社会問題を一挙に解決できる特効薬であるかの印象さえ漂わせていたのである。
関東軍の指揮官が国家的な使命感に燃えれば燃えるほど、あの土地は益々魅力的になっていった。
2015年8月に安倍首相か戦後70年の歴史談話を出し、リベラル派や左派からその内容について批判された。
しかし、じっくりとその内容を読むと村山談話よりもずっとリベラルである。
村山談話では「ある時期から国策を誤った」という認識であり、ある時期とは日清戦争、日露戦争、満州事変、太平洋戦争なのか、それともポツダム宣言を直ちに受託しなかったら原発投下ソ連参戦を招いたのか、「ある時期」というのは歴史認識においては何の意味もない。
ところが、安倍首相はいつ日本か間違えたのか、それは満州事変だと、はっきりと特定している。
ここから3つの解釈が可能となる。
1.今回、歴史認識の問題のために現代史を勉強したら、一番悪いのは満州国を建国して運営した、自分が最も尊敬する祖父の岸信介だと理解でき、満州事変で日本は国策を誤ったという見解を表明した。
2.今回の談話を作るにあたり有識者グループが騒いでいるし、公明党もうるさいから、この場をやり過ごすために、この歴史談話を発表した。
3.自分が読んだ文書の意味が理解できていなかった。
もし1番目だとすると、政治家の信念がコロコロと変わって良いのかという問題が生じる。
2番目だとすると、歴史認識のような根本問題で自分の信念と異なることを言っても良いのかという政治姿勢に問題が生じる。
3番目は、話者の知性の水準という問題が生じてしまう。
満州事変で日本は間違えたという歴史認識は良い認識であるこは間違いないが、いずれにせよ、2015年の安倍談話は、政治家個人としては大変深刻な問題をはらんでいる。
高校の歴史教科書に関しては、日本史も世界史もAが良い。
しかし進学校ではAを使うことはなく、商業・工業・農業高校などの実業系の高校で使用される。
歴史について勉強するのはこれが最後で、今後歴史について勉強しないので、通史で全部の歴史をるのではなく、近現代史だけに特化している。
別に資料集を参照することも想定されておらず、この1冊の中だけで全部完結するようになているので読みやい。
進学校で使用されている教科書Bは、難関大学の入試に対応できるように巨大な年表のようになっているで、事実関係がひたすら羅列されているだけで、物事の連関、意味について殆ど書かれていない。
『岩波講座世界歴史』には新版と旧版がある。
1969年から1971年に出た旧版の巻構成と、約30年後に出た新版の巻構成を見比べると興味深い。
旧版の方は、古代、中世、近代、現代と歴史とは時系列に即して発展しているという考え方に基づいている。
ただ、近代に入るまで、つまり中世までは西洋史とアジア史に分かれていて、世界史は成立していない。
世界史というのは、近代以降、ヨーロッパ列強が北米大陸、アジアに進出していき、世界的なシステムができるという考え方であり、この構成に隙間がない。
一方、約30年後にできた新版は、まず明白に通史と言う考え方が否定されている。
「ヨーロッパの成長 11~15世紀」と「イスラム世界の発展 7~16世紀」「中央ユーラシアの統合 9~16世」と同じ時代が別々の巻に記述されている。
そして古代という考え方もなければ、中世、近代、現代という時代区分も取らていない。
時代区分自体が、欧州・北米を中心した彼らの時代区分であり、それ自体が支配の論理だと考えるからてある。
しかし、新版だと全体を通じた歴史観は欠落してしまうという問題が出てくる。
古本市場では一般的に新版の方が圧倒的に高くなり、旧版は値段がつかなくなるが、この『岩波講座世界歴史』においては、旧版の方がレア本となっていて新版よりも高い値段がついている。
これはポストモダン的なるものの限界が来ていることの表れであり、物語が必要になてくることの表れでもある。
2016年に韓国で最も人気を集めた映画は「仁川上陸作戦」だった。
1950年9月15日に、国連軍(米軍・韓国軍)は北朝鮮軍によって押されて、釜山の市内しか守れない状況に追い込まれていた。
その時にマッカーサーによって戦況を一変させたのが、仁川上陸作戦だった。
この作戦は相当バクチ性の高いもので、成功す可能性は高くなかったと言われている。
5万人の兵力によって現在の仁川国際空港のある場所から上陸を試み、北朝鮮軍を挟み撃ちにし38度線まで戦線を回復する流れを作ることになった。
一方で1982年に北朝鮮で制作された「月尾島(ウオミルド)」という北朝鮮て知らない人はいない国策映画がある。
月尾島は仁川にくっついている島で、現在は埋め立てられて仁川市の一部になっている。
もともと日本の統治下の時代から遊園地があった。
仁川上陸作戦では、この月尾島の攻略から開始される。
北朝鮮の映画では、金日成将軍の指示で9月13日から15日まで国連軍が月尾島上陸阻止の命令が中隊に与えられる。
中隊は全部で60人しかおらず、大砲も4門、砲弾も100発かなく、最後は全員が玉砕する。
この2つの映画が扱うのは同じ出来事だが、韓国の戦史によると45分で簡単に攻略しているが、北朝鮮の『金日成著作集』の中にも収められている公式の歴史では3日間徹底的に抵抗したことになっている。
ちなみに日本語のサイトには、ただ観光地としか書かれていない。
こういうズレが生まれてくるというは、歴史が物語だからである。
そして、歴史の物語性が出てくるのは、結局は解釈の問題である。
歴史という考え方自体はドイツ的な概念である。
英語では歴史はヒストリーで、日本語では歴史だが、ドイツ語では歴史はヒストリエとケシヒテの2つに分節化される。
ヒストリエというのは、記述史などと訳される。
例えば『日本書紀』『古事記』などの年代記はヒシトリエに属するし、『神皇正統記』『太平記』などもそうである。
色々なことを記述していくが、そこにおいては明示的な形での物語、歴史観というのはない。
これに対してゲシヒテというのは近代的な現象である。
点と線によって物語を作っていくので、歴史の過去の中で何らかの点で重要なものを選んできて、その点で価値を付与する。
マルクスが『資本論』で最も伝えたかたのは「労働力の商品化である。
労働力の商品化は、実は偶然におきてしまった事である。
地球が寒くなって毛織物の値段がとても高くなり、イギリスでは農民を追い出して羊を飼い毛織物をつくるようになった。
その時に農場から追い出された農民たちが、都市に流入して賃金労働者となる。
マルクスは賃金労働者が出現た条件にいて、2つの自由があったからだと言っている。
一つは身分的に自由なことで、昔は農民は土地から離れられなかった。
賃金労働者は、どこへ動いてもよく、どんな職業を選択してもよいという自由がある。
もう一つは生産手段からの自由で、これは逆に生産手段を持っていないということでもある。
労働者は機械を持てず、自分で商品を売り出すことはできず、自分の商品は労働力商品だけである。
給与という言葉はマルクス経済学では使用しない。
給与というのは、封建制のもとで俸給を恩恵的にくれるものである。現在の公務員のように御恩と奉公の関係性でもらえるのが給与である。
これに対して賃金は、自分の労働戮商品の値段である。
中室牧子・慶應義塾大准教授の『「学力」の経済学』が一時期、話題になった。
これまでは土地や株式が投資の対象と考えられてきたが、自身の子供への投資、特に0歳から6歳までの就学前教育に投資をすると最もリターンが大きくなる事を分析した。
就学前の子供を対象にしたところは、ほほモンテッソーリシステムを採用している。
モンテッソーリ教育というのは、日本ではエリート教育とみなされるが、そもそもは新自由主義的なものではない。
創設者のマリア・モンテッソーリはイタリアで初めて医学博士号を取った女性で、女性差別が激しく希望が通らず、精神科病棟で子供を担当することになる。
病棟にいる子供たちを見て、子供と大人は全く別の世界に住んでいることに気付き、0歳から6歳の間には必ず何かの事に関心を持つ敏感記がある。
色、数、模様の敏感期が来るまでは勉強を絶対に強要しない。
敏感期が来た時に、子供が進みたいところまで進ませる。
子供が関心を持ってやりたがているのなら、数学だと5歳児で2次方程式まで解けるようになる。
モンテッソーリーは子供を大人基準で判断してはいけないと言い、一人ひとりはかけがえのない個性があるかせ、それを徹底的に伸ばした方が良いという教育のやり方である。
現在、ファミリアが白金台と兵庫に、このシステムの保育園を運営しており、1ヶ月の保育料は18~23万円である。
1歳から5年で1200万円、毎日10時間通うので勤勉になり、食事は栄養士が計算して作るのでバランスとれ、ジャンクフードに関心がなくなる。
リトミックもやるので運゛宇嫌いにもならないし、自分の得意分野もできる。
一人は万人のため、万人は一人のためという事を重視するので、「これあげる」といった優しさを養う教育も行われる。
しかし、このした教育を受けても必ずしも富裕になるとは限らない。
自分の能力は他者ために使うべきだと幼い頃から刷り込まれるので、親も大切にするが社会も大切にするようになる。
いずれにせよ、こういう教育をしておくと親にも社会にとってもリターンが一番高いのは確かである。
逆に、元もリターンが期待できないのは、大学院に資金投入する場合となる。
中室氏はアメリカのデータからそのまま類推して日本に適用している。
『資本論』の翻訳して代表的なものに岩波書店版(向坂逸郎訳)の『資本論』と大月書店から『マルクス=エンゲルス全集』(岡崎次郎訳)とがある。
この2つは労農派のものであり、訳は比較的ドイツ語に忠実である
これらとは別に、新日本出版社から新書と単行本で出ているのは共産党の立場から訳されたものがある。
共産党の見方では、岩波書店の『資本論』や大月書店の『資本論』はソビエト編纂版なのて、ソ連の偏見が入っているが、新日本出版社版はエンゲルスのオリジナルを翻訳したと主張される。
エンゲルス版は、もともとは高畠素之という日本の右翼の国家主義者で、同志社大学の神学部を中退した人が全部訳している。
つまり新日本出版社版は、それと本質において変わらない。
との翻訳が良いかというと、文句なしに岩波版が良い。
太平洋戦争が近づくにつれ、日本は国家総動員体制をつくり、その時に終身雇用制が定着した。
戦争で夫が戦場に取られても会社は給与を払い続けようとしたのである。
そして、厚生年金、健康保険などの制度が世帯主に対して、整えられていった。
借地借家法が圧倒的に借主に有利な形でつられたのもこの頃である。
一度借りたら貸主は追い出すことはできず、家賃を上げたくても相手がそれまでの家賃を払い続ければ居座ることができる。
このような世界的に奇異な権利というのは、全て総力戦体制を遂行するために、当時の政府が、特に軍部の意向を踏まえて作ったものである。
だから日本の社会保障の原型は、実は総力戦体制にあるのである。
現在、日本におてメガバンクが定めている富裕層の基準は、純金融資産で1億円以上となっており、人口の2~3%である。
ちなみに、これは預貯金、有価証券、保険など金融資産であり、これには不動産は含まれない。
国際基準だと金融資産で30億円以上持っているのが超富裕層ということになっているが、日本には殆どいない。
だから日本のメガバンクでは、3億円とか5億円以上の金融資産を持っている人を超富裕層としているが、そうした人は不動産を2から3棟所有している。
日本のお金持ちは、お金を銀行に寝かせて遊ばせておくような事は無いし、株式などでリスクを取るよりは、不動産に投資する傾向が強い。
日本で金融資産を2~3億円持っているような人は、遥かに大きな財産を持っている。
戦前の格差がどれくらいだったか、河上肇の『貧乏物語』によると、イギリスの貧富の差が一番激しく、国民全体の2%の最富者が富の71.7%を持ち、下から65%の最貧者は富の1.7%しか持っていなかった。
フランスては上位2%が富の60.7%、ドイツでは59%、アメリカでは57%の富を持っていた。
現在の日本の実態も、これらの数字に近くなっている。
戦前日本において、「革命」というのは左翼の専売特許ではなく、むしろ右翼の方がよく使った言葉だった。
右翼には「錦旗革命」、つまり錦の御旗を掲げて、天皇の意向に反している奸を排除して革命、維新を行うべきという発想が強くあった。
また資本主義自身に問題があり、問題を克服せねばならないという考え方は、日本の軍部にも企画院などのエリート経済官僚にも共有されていた。
そのため、社会主義を主張することは、それ自体においては治安維持法違反にはならなず、ねじれが生じたのである。
共産党からみると、天皇制との対決を回避して社会主義革命という実現しそうもない理想を唱えている労農派は、体制を延命していると見え、共産党はまず労農派マルクス主義を壊滅させないと日本ての革命はできないと考え「内ゲバ」理論を取り入れる。
日本におてマルクス主義の歴史を考える場合、共産党系のマルクス主義者を「講座派」という。
岩波書店から『日本資本主義発達史講座』という本が出て、執筆した人達に共産党員が多かったことにちなんで、そう呼ばれた。
これに対して、もう一つが「労農派」であり、非共産党系のマルクス主義者のグループである。
国際基準でいうと、ドイツ社会民主党の左派、オーストラリアの社会民主党に近い。
講座派は日本を絶対主義天皇制であるととらえ、天皇制を打倒して、まず市民革命を行い、その後に資本主義を作らねばならない「二段革命」という、かなり現実からずれた見方をしていた。
これに対して労農派は日本は高度に発達した資本主義社会だが、農村分解が十分になされていなていのは、後発資本主義国だからであるととらえ、彼らにとての目標は社会主義革命だった。
その結果、共産党は徹底的に弾圧され、労農派は逆に初期においては、殆ど弾圧されなかった。
その違いは、共産党が天皇制の打倒をうたったからである。
戦前の共産党が持っていた知識人に与える影響力は相当強かった。
日本共産党は、国際共産党(コミンテルン)の本支部として設立された。
この団体に入っていると治安維持法違反により検挙され、最悪の場合には死刑になる可能性があった。
死刑にならないにしても、特高警察の拷問はきつく、身体に障害が一生残ることもあった。
それぐらいの覚悟をして党に入るということなので、逆に党の指令に従うことにより自分の人生を歴史の中で意味あるものにしていくという回路に吸収されやすい。
それゆえに共産党系に入ると思考が停止ししまうということがあった。
現在の日本共産党もし越しソフトにはなっているだけで、本質は変わっていない。
会津に対して、戊辰戦争で新政府は埋葬すら認めない扱いをした。
しかし、その後、明治新政府は東北を失うことは危険だと思い、ナンバークールの二高は仙台に設置した。
第二師団も大阪や京都ではなく、仙台に置いた。
このように明治以来、政府は東北優遇策をとってきた。
一方で、京城や台北に帝国大学を置いたにもかかわらず、沖縄には高校すらなかった。
東北と沖縄では完全に統治システムが異なり、明治以来手抜きをしてきたツケが、琉球ナショナリズム問題として現在表面化してきている。
現在、世界で言語の数が減少する傾向にあるが、約1万ぐらいはある。
その中で、方言と言語という区別は殆ど意味がない。
言語と方言の違いは何かというと、「独立軍隊を持っていたら言語だ」と、ロシア民族学者のセルゲイ・テェシュコ氏は言う。
いま国際連盟加盟国は190か国程度だが、言語的なことを基準に考えると1000の国が独立できると考えても不思議ではないが、残り9000は独立できないのである。
つまり1つのナショナリズムの背後には、9つの潜在的なナショナリズムが存在するのである。
沖縄と北海道は日本の国内植民地である。
なぜらば、沖縄と北海道だけは他の県と異はなり、独自に霞が関に陳情するのではなく、北海道開発局と内閣府の沖縄担当が、予算を組むという仕組みになっているからである。
つまり、沖縄と北海道の人たちは、自分たちの力で予算をク能力が無いから、中央政府が代わりに予算を組んであげるというシステムなのである。
沖縄振興のために3000億円を計上したと聞くと巨額に見える。
確かに沖縄は人口一人あたりの国庫支出金は多いが、国庫支出金と他方交付税の合計額でいえば、全国で12位でしかない。
だからそこにはローカルルールが適用される。
沖縄の選挙では一人の候補が街宣車を3台くらい使っており、他の県でこんことをしたら公職選挙法で捕まってしまう。
周辺地域におて適用されるゲームのルールが異なってくるというのが、帝国の一つの特徴である。
日本のように一つの民族がそまま独立国家となっている場合は、国民国家として分かりやすいが、イギリスは国民国家ではない。
連合王国の英語の通称では「United Kingdom(UK)」または「Great Britain」と呼ばれるが、イギリスという名称は、連合王国を構成する一地域にすきないイングランドの外来音が定着したものとされる。
同君連合であり今でも植民地を持ち、外部領域を持っている帝国なのである。
帝国の特徴は統治が均等ではない事であり、宗主国と植民地という内部と外部の構造があって、それぞれに適用されるゲームのルールが異なる。
一般的な近代化の理解でいえば、民主主義になった時に検閲はなくなる。
日本国憲法でも検閲は禁止されている。
しかし、イギリスには検閲を禁止する法律はなく、今でも事前検閲が行ている。
しかも検閲があったという痕跡を残したらいけないと言われている。
よく検閲への抵抗の意味を込めて、検閲されたと分かるように白いまま出すという事があるが、イギリスはそれもできないので、広告を入れるか穴埋めの記事を駆らず入れることになる。
テレビに対しても検閲がなされている。
このようなやり方は均質に人種に配慮するのであればできないが、テロ対策には有利ではある。
2016年にトルコで起きたクーデター未遂事件の結果、エルドアン大統領は国内問題に専心せねばならくなり、イスラム国の崩壊が早まった。
それまでトルコは、イスラム国から密輸される石油を受け入れ、北キプロスを通じてイスラム国に送金を行っていた。
キプロスは北と南に分かれており、南部のキプロス共和国はキリスト教でギリシャと関係が良いが、北キプロスはトルコ以外のどの国も承認しておらず、イスラム教徒によて実効支配さている。
そして、イスラム国に人や物を送り出すということも行っていた。
トルコがこうしたルートを全て封鎖した結果、システム国への送金も止まり、それまで多国籍軍に参加していたトルコ軍がイスラム国地域を本気で攻撃するよになった。
もちろん主な標的はクルド人居住地域ではある。
地政学は長期的に変化しにくい要因で世界をみないといけないという考え方である。
地政学の祖はハルフォード・マッキンダーで、その著作『マッキンダーの地政学』(原書房)は地政学のバイブルとなる。
この本のサブタイトルは「デモクラシーの理想と現実」だが、実はこちらが原題となる。
そしてこの本の中には、地政学という言葉は出てこない。
マッキンダーはイギリス人で、彼の著作に影響を受けたカール・ハウスホーファーというナチス・ドイツの理論家が「マッキンダーの地政学は」と何度も繰り返したので、マッキンダーが地政学というワーディングを使っていると、みんなが勘違いしてしまった。
マッキンダーは、歴史について考える場合には、地理的な制約条件と言うのが非常に重要であって、資源、科学技術の発展も地理によって制約されるところが大きいと強調している。
マッキンダーが1919年に書いた『デモクラシーの理想と現実』は発売当初は全く売れなかったが、1942年の戦時版から売れ出した。
マッキンダーは1919年版が出た当時、第一次世界大戦が終わって、ようやく平和が来ると皆が思っている時に、そんなことはないと言っており、当時においては珍しく第二次世界大戦を予測していた。
北方領土への入域手続きの実態は興味深い。
北方四島は日本からると日本領という立場だが、日本の実効支配はなされていないので、ロシアからするとロシア領であるという考えとなる。
日本領という建て前がある以上、北方四島には日本のパスポートを持っていくことはできない。
しかしロシアは入国のたびにビザを要求してくる。
ビザの発行は明示的に北方四島がロシアの管轄であると認めることになるので、日本側はビザを取得しない。
そこでA4判の厚紙で写真を貼って身分証明書を作り、そこにはパスポートと同じ事項の名前と生年月日、身長が記載されている。
これとは別にA4の挿入紙がビザの役割を果たす。
この書類で、日本側として出入国ではなく、北方四島とい地域への入域と出域の際に特別の手続きをしているという立場に立つ。
一方で、ロシア側では連邦保安庁(秘密警察)傘下の国境警備隊が出てきて、ロシア法に従って出入国手続きをしている。
このような詳細な決め事を詰めて、ビザなし交流が1991年に合意され、1992年から始まっている。
ところが、途中で大問題が発生し、ロシア側から税関申告書で金目の物と所持金を申告するよう言ってきた。
日本は税関申告書を提出するなどというロシアの主権行為に服する分けにいかないが円滑に四島の訪問を実現するために「携帯品リスト」を自発的にロシア側に提出する事となた。
この携帯品リストは、偶然にもロシアの税関申告書と全く同じ書式となっている。
日本語では「携帯品リスト」と書かれているが、ロシア語では『税関申告書」と書かれている。
それを持っていき、国後島の沖合で必ず入域手続きとる。
ロシア国境警備隊と税関職員と外務省の係官と通訳だけで、閉ざされた部屋で手続きが行われる。
携帯品リストには「行き先 国名」と書いているので、択捉とか色丹と島の名前を書くが、ロシア側からは「国名が書かれていないから国名を書け」と言われ、日本側から「もし仮にここにあなたが主張するところのロシアいう名称を書かない場合、入域を認めないのか」と聞くと、ロシア側は「認めない」と言う。
仕方ないので外務省の係官は、入域団員全員のところに「ロシア」と書くとになるので、このやり取りを見せたくないので、密室でやるのである。
そして、それと同時にディスクレーマーという文書を渡す。
ただ今行った行為は日本国政府の立場に何らかの影響を与えるものではないという紙を渡すのである。
このような泥臭いことを日本側とロシア側の現場の担当者間で行い、北方四島へのビザなし交流が行われているである。
2016年8月20日に、北方領土の国後島で日本人の通訳が拘束されるという事件があった。
ちにみに『朝日新聞』は「拘束」という言葉を使い、『産経新聞』、共同通信の系統では「足止め」と書かれた。
拘束というのは客観的な事実であり、ロシア側も通信社が報道していた。
足止めと拘束では大きく意味合いが異なる。
足止めは天候とかで動けなくなるなど、公権力が働いていなくても起きるが、拘束は完全に公権力が働いている。
北方領土は日本領だという日本の建前があから、公権力が働いているということになると、非常に面倒くさいので、日本政府は「足止め」という大本営発表をしたのである。
危機は3つにカテゴリー分けができる。
1番目はリスクで、ある行動を行う、もくは行わない事によって起きる負担や損失のことを指す。
たからリスクはきほんてきに計量が可能であり、足し算と引き算ができるし、状況によっては掛け算もできる。
2番目パニックで、ギリシャ神話のパーンという牧神に由来し、パーンはめちくちゃな暴れ方をする。
パニックというと、経済では恐慌を指し、突発的な出来事に遭遇することによって生じる不安と混乱である。
これは心理学や学際的なことなので、我々が直接扱う問題ではない。
3番目はクライストで、ギリシャ語のクリシスから来ており、「.1つの峠」という意味である。
病気の時には、峠を超えることができなければ死んでしまう。
他にも「分かれ道」という意味もあり、間違った方向を選ぶと目的地に行き着けない。