東京裁判は1946年5月3日から始まり、約2年の公判審理で被告人28名の責任が問われた。
判決の朗読は1948年11月4日から始まり、極東国際軍事裁判所はニュルンベルク判決に依拠し、「平和に対する罪」は既に存在する国際法上の犯罪だとし、1928年から1945年まで「侵略戦争を遂行する犯罪的共同謀議が存在した」と認定した。
そして、11月12日に、判決時の被告人25名に刑が宣告された。
起訴時の28名から大川周明が精神異常で審理除外、松岡洋右と永野修身は病死していた。
東條英機ら7名が絞首刑、東郷茂徳外相が禁錮20年、重光が禁錮7年、残り16名が修身禁錮刑なった。
ニュンベルクと違い、無罪はゼロと、有罪律100%だった。
死刑には「重大な残虐行為」が必要であり、ニュンベルクでも東京でも「平和に対する罪」だけでの死刑はなかった。
両裁判所は、十分な実績のある戦争法規違反に死刑の根拠を求め、事後法批判を回避しようとしてのである。
だから東條の死刑でさえ、バターン死の行進や泰緬鉄道の捕虜虐待の有罪によるものだった。
判決から3年足らずの1951年9月8日、日本はサンフランシスコ講和条約に調印した。
この講和条約の第11条(戦犯条項)の前段は「日本国は極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行いるものとする」と書かれていた。
日本政府は東京裁判の「正しさ」を積極的に是認したことはないが、あえて反対や否定はしないという「消極的容認」こそが、幣原内閣、吉田内閣以来の高手は立場となった。
東京裁判は欠陥だらけであるのは間違いない。
判事や検事は戦勝国が独占し、「平和に対する罪」や「人道に対する罪」は事後法である。