占領期の日本におけるマッカーサーの権力は絶対的だったが、日本国民のマッカーサー崇拝は凄まじかった。
占領期、日本国民からマッカーサー宛てに届いた手紙は50万通におよび、1951年4月16日に帰米するマッカーサー負債を見送るために、厚木沿道には20万人もの日本人が並んで別れを惜しんだ。
吉田内閣は、マッカーサーを「終身国賓」とすることを閣議決定し、その偉業を称える気年金建設計画が各界名士によって掲げられ、英雄視する銅像を設けるための募金活動も計画された。
しかし、1951年5月5日に、マッカーサーは米上院軍事外交合同委員会の公聴会で、日本占領の成果報告として、国民の発展と成熟度並びに文明の尺度からみて、アングロサクソンが成熟した45歳だとすれば、「日本は12歳」であり、保護を要する段階にあると述べた。
多くの日本人はこの発言を侮辱と捉え、崇拝ほ興ざめへと変わり、マッカーサー記念館や銅像建設計画も立ち消えとなった。
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