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2016年1月31日日曜日

決して政府の言う事を信じない方がいい。
危機はある日突然やってくる。
by カイル・バス
(ヘッジファンド「ヘイマン・アドバイザーズ」)
サブプライム・バブルの崩壊によって頭角を現したヘッジファンドマネージャー
戦後の財産税は不動産や株なども対象とされていたが、当時は政府が国民の財産を把握することが難かしく、課税を逃れたケースもあったとされる。
その代表例が、貸ビル業から大手ディベロッパーへ飛躍を遂げた「森ビル」の創始者である森泰吉郎である。
森は1904年に東京で、米屋の傍ら貸家業を営む家庭に生まれ、裕福だったこともあり不自由なく大事に育てられた。
1923年に起きた関東大震災で実家の所有物件が殆ど倒壊した際に、コンクリート造による建て替えを父親に進言している。
また終戦直後に、焼け野原となった東京を見渡して、「貸ビルの需要が増える」と考えたという。
一方、森は食料を輸入するために日本の目玉産業の人絹(レーヨン)の輸出が活発になり、相場が儲かると見込んだ。
偶然かどうか怪しいが、預金封鎖の直前に全ての預金を引き出した森は、人絹を買い漁り、その後の相場急騰により元金が何十倍にも膨らんだ。
その資金を元手に、森は虎ノ門周辺の土地を底ねで買い漁った。
そして、「都心近くの東側から千葉に行くには、全て森ビルの土地を通らなければならない」と言われるようになった。
森泰吉郎は、1991年と1992年に米フォーブス誌の世界長者番付で1位に選出されている。
正しく「資産家は恐慌時に生まれる」のである。
マイナンバー制度は、元々は税と社会保険を効率化されるために導入される予定だったが、2015年3月10日の閣議でマイナンバーにもう一つの役割として、銀行口座への適用が決められた。
現時点では、マイナンバー運用開始から2年後の2018年に預金口座にも適用される。
財務省は導入から3年後の2021年を目処に、預金口座への紐付を義務化する方向で検討に入っており、不動産登記もマイナンバーで管理することが検討されている。
預金税が最初に導入されたのは、古代ギリシャまで遡る。
古代ギリシャでは、為政者の懐が苦しくなる度に1%から4%程度の預金税(資産税)が徴収された。
古代ギリシャ人は、預金税を払うことは「金持ちの証」だとして、喜んで預金税を納めたという。
日本橋にある日本銀行の貨幣博物館には、戸で医から原題にかけての様々な貨幣・紙幣が展示されている。
その中でもギネスブックにも登録されている世界最高額の紙幣として、1946年に発行された「10垓ハンガリー紙幣」がある。
垓という単位は、兆、京の上の単位で、10垓を数字で書くと0が21個も並ぶ。
1946年のハンバリーのインフレ率は96000垓%に達し、わずか1946年前半の半年の間に起こった。
当時の物価上昇の凄まじさの例として郵便料金の記録が残っている。
1945年5月1日に1ペンゲーだった郵便料金は、7月1日には3ペンゲー、翌1946年1月には600ペンゲー、3月に2万ペンゲー、5月に200万ペンゲー、7月には40兆ペンゲーになったという。
当時、1日で物価が2倍になる状況でも紙幣は流通しており、現金を手に入れた人は直ぐに使ったという。
過去に起きた国家債務危機について、1800年以降を中心とする膨大な長期データを収集し分析した大著『国家は破綻する』の中で、高インフレが続いた国では取引手段、価値の表示手段、価値の保存手段として、「ドル化」現象が起きると指摘されている。
「ドル化」は経済危機時における国際常識のようである。

第一次大戦後のドイツのハイパーインフレは有名だが、2009年1月のジンバブエのインフレは年率6.5×10の108乗であると報じられた。
これは、24.7時間こどに物価が2倍になっていくインフレ率である。
毎日、物価が2倍になっていき、1ヶ月後には10億倍ほ超えることになる。
2008年初頭に「1000万ジンバブエドル」紙幣が発行され、最悪期には物価が1ヶ月で10億倍、お金の価値が1ヶ月で10億分の1になってしまった。
2008年5月5日には「2億5000万ジンバブエドル」、10日後の5月15日には「5億ジンバブエドルけ紙幣が発行され、最終的に2009年1月には「100兆ジンバブエドル」が発行された。
公共政策が専門で国土審議委員会委員を務める根本祐二教授によると、今後の日本では今あるインフラを単純に更新するだけでも、毎年8.1兆円の投資を50年間続ける必要があるという。
しかし、2014年度予算では一般会計・特別会計合わせても、公共事業関係費は7.1兆円しかなく、高度成長期に造りまくった日本のインフラは、今後は朽ち果てていしかない。
世界で最初の本格的な紙幣は、10世紀の中国北宋時代に作られた「交子」と言われている。
内陸の四川で発行されたこの世界発の紙幣も、乱伐による悪性インフレを発生させている。
当時、中国で広く流通していたのは銅銭だったが、銅の産出が少ない四川では鉄銭を使用しており、高額の取引に向かなかった。
そこで商人から鉄銭を預かり、引換券として紙幣を発行したのである。
北宋政府は、商人からこの権利を取り上げ、紙幣「交子」を発行するようになったが、戦争や公共事業、宮廷の浪費にお金が必要となり、それを補うために政府が保有する銅銭の準備金の上限を超えて紙幣を乱発するようになり、インフレが起こった。
北宋の「交子」、南宋の「会子」、元の「交鈔」など全て同じ経緯で紙屑となり、インフレ→農民暴動→王朝崩壊という経過をたどるのである。
社会保障費と社会保険料収入の推移を見ると、2014年度現在では、社会保障給付費は107兆円に対して、社会保険料収入は64.1兆円となっており、その差額を国庫負担31.1兆円、地方税等負担11.9兆円、その他資産収入で補っている。
ちなみに2013年度までは「国庫負担」だはなく「国税負担」という表現となっていたが、税収ではなく国債で賄っていることから「借金負担」とは書けず「国庫負担」と改められた。
消費税収は1%につき2.5兆円の税収増になるので、国と地方の負担額43兆円を消費税で全て賄うとすると、現時点では17%必要となる。
しかし、社会保障給付費は今後も加速度的に増大し、厚生労働省は2025年度の社会保障給付を105兆円と推計している。
一方で、60兆円で頭打ちとなっている社会保険料は、労働人口が減り、今後も大幅に増やせないため、90兆円分を消費税で賄う必要が出てくる。
90兆円を2.5兆円で割ると、消費税は36%であり、消費税率は30%台になるのは必然である。
財政の専門家の多くが、この状況について指摘しており、『日本破綻を防ぐ2つのプラン』では、2050年の消費税率を31%と推計している。
また社会保障が専門の鈴木亘教授も、「このまま社会保障制度を抜本的に変えずに、消費税で国費分を賄ってゆくといれは、消費税は30%台になることは、ほぼ確実である」と指摘している。

民主党政権下の2011年6月1日に、当時、野党となっていた自民党が責任ある政治を標榜し、悪化し続ける我が国の財政に対する危機感から、財政悪化に対しての政策対応についてまとめた報告書「X-day プロジェクト報告書」というのがある。
X-dayとは国債暴落の日を意味する。
この報告書では、社会保障関係費の膨張が財政悪化の根本原因とされている。

終戦後、日本政府は内国債のデフォルトを回避した一方で、「戦時補償特別税」という別の形で借金の踏み倒しをしている。
終戦時、日本政府は1000億円を超える戦時補償債務を抱えていた。
戦時補償債務とは、太平洋戦争中に政府が国内企業に対して、約束した債務で軍需品の未払い代金、建設工事の高時代、撃沈された船舶の補償などである。
当初、政府は戦時補償債務については、財産税を財源として返済する方針であったというが、連合国は戦争に加担した日本企業にも制裁が加えられるべきと、日本政府は連合国の要求を受け入れた。
形式上、戦時補償債務は全額支払う代わりに、国内企業の戦時国債補償請求権に対して100%課税されることになった。
表面上は、国民の財産権は侵害せず、国家の徴税権を行使し、債務をチャラにしたのである。
1946年10月に「戦時補償特別措置法」が公布され、戦時補償債務に対して戦時補償特別税が課税され、債務は100%踏み倒された。
1946年の財産税に関する論文「財閥解体・財産税と財閥家族資産の縮小」(鈴木邦夫)によると、純資産が10万円を超える世帯数は47万6489世帯であり、その純資産合計は1219億円だった。
1947年の日本の世帯数は1587万811世帯だったので、10万円超の世帯は全体の3%にすぎず、残る97%は非課税世帯だった。
仮に非課税世帯の平均純資産を過大に見積もって5万円とすると、これに対する財閥家族48世帯の平均純資産額の倍率は、課税前(1541万円)の308倍から課税後(237万円)の47倍へと、一ケタ少ない倍率となり、一般庶民との格差は大幅に縮小した。
1946年11月11日に財産税法が成立し、臨時財産調査令に基づき財産税額が決定され、10万円超の資産を保有している者が課税の対象となった。
課税の税率は、超累進課税で、最低の25%から14段階で設定され最高税率は1500万円を超える金額に対して90%でった。
当時の10万円は現在の4000万円、当時の1500万円は現在の60億円に相当する。
この90%の最高税率を適用された者は100人ほどいたという。
当時の大蔵省の発表によると、税額の第一位は住友財閥の住友吉左衛門とその家族で、課税価格が1億2000万円で財産税の税額が1億661万円と、資産が10分の1に激減し、残った資産は1300万円程度だった。
他に、税額の上位には三井高公、岩崎久弥などの財閥の当主がなを連ねた。
皇室は財産税課税の基準となる1946年3月3日時点で37億円(現在の価値で1兆5000億円)の資産を保有していた。
皇室財産はそれまでは、課税対象ではなかったが、GHQの指導により財産税の課税対象とされ、税額は33億円を超え、残った資産は4億円と現在の価値で1600億円に過ぎなかった。
そして、日本国憲法の発効と共に、わずかに残った皇室財産も黒曜かされ、皇室費用は国の予算に計上され、国会の決議を経なければならなくなった。
預金封鎖と新円切換と同時に、「臨時財産調査令」が公布され、旧円の使用期限の翌日、1946年3月3日時点の国民が保有する財産を申告させるというもので、財産税算定の基礎となる財産調査だった。
3月3日から4月2日までの一カ月間に、税務署または金融機関に「臨時財産申告書」を提出することが義務付けられ、日経新聞にはこの申告書の用紙が付いていたという。
50円以下り預貯金や有価証券、保険金額が1000円以下の生命保険は清国不要とれたが、当時の公務員の初任給から現在の価値に直すと、申告が免除されたのは預貯金や有価証券は2万円程度、生命保険は40万円程度までであり、殆どの資産が申告対象となった。
調査対象となった財産は、換金処分ができないように、臨時財産申告時に封さされ、証券などには申告済証紙が貼付され、臨時財産調査に応じなかった金融資産についてはその効力を失うという措置がされた。
預金封鎖、新円切換、臨時財産調査令により、国民の財産は政府に把握、凍結され、こうして財産税課税の準備が整えられたのである。
国民に財産税をかけるには、対象となる国民の財産を正確に把握する必要がある。
そのために1946年に日本政府が行ったのが、「預金封鎖」と「新円切換」でった。
1946年2月16日に、日本政府は総合インフレ対策として「金融緊急措置令」と「日本銀行券預入令」を発表し、2月17日以降、全金融機関の預貯金を封鎖することが決定した。
預金流出を防ぐために極秘裏に準備が進められ、2月16日に国民に知らされた後、わずか1日で預金は封鎖された。
引き出しが許された金額は、月額で世帯主が300円、世帯員1人につき100円に過ぎなかった。
当時の公務員の初任給が500円程度だったので、現在の20万円程度と考えられる。
そして、新円切換と共に旧円は無効となり、旧円の使用期限は3月2日までとされ、預金封鎖から僅か2週間で手元の紙幣が無効となったのである。
この新円切換はの実施時期が、当初想定より半年繰り上げられた為、新円の印刷が間に合わず、証書ほ旧円に張り付けることで新円とみなす事となった。
この証書の貼り付けは、日銀や各地の金融機関で手作業で行われた。
この証紙そのものが闇市で出回ったという。
硬貨や小額紙幣は切換対象外だったので、小銭を集めるため、国民の多くが駅で少額切符を買っておつりを貰うため、駅に長い行列ができた。
急速なインフレの進行に伴い、終戦時に296億円あった日銀券の発行残高は1946年2月には618億円へと膨張し、わずか半年で倍増するという異常な状況だった。
しかし預金封鎖と新円切換により、1946年3月には154億円へと1ヶ月で4分の1に激減したのである。
それでもインフレは収まらず、日本政府はインフレを抑制するために貯蓄を奨励し、宝くじを発売することで、国民の浮動資金の吸収に努めたが、国民が引き出した新円は金融機関に還流することはなかった。
預金封鎖という国民に対する裏切り行為を行った日本政府を信用する者は誰もいなかったのである。
預金封鎖直後、1946年3月に154億円まで減少した日銀券の発行高は、1947年1月には1000億円を突破し、結局、預金封鎖、新円切換という一連の措置はインフレ抑制という表向きの効果を上げることはできなかった。
1846年の物価上昇率は514%、1947年は169%、1948年は193%とインフレの激しさは凄まじく、預金封鎖が解除された1948年7月には、預金の価値は17分の1になり、国民の財産は大幅に減ったのである。
政府は100年に一度はデフォルトを起こさなければならない
by アベー・テレ (18世紀のフランス財務大臣)
戦前から戦中にかけて、日本は日中戦争から太平洋戦争へと歴史上初めての総力戦ほ断行し、凄まじい規模の借金をした。
終戦前年の1944年にはGDP比で204%という規模に達していたが、終戦時1945年の債務残高の記録は残っていない。
記録としてあるのは、終戦から半年後の1946年2月16日に、突然、日本政府が預金封鎖を断行し、戦時国債のデフォルトと新円切換、そして最高税率90%の財産税によって、政府の借金と国民の財産を相殺し、1946年には政府の借金はGDP比で60%に急減している。
その後も日本政府は借金を減らし続け、1964年の東京オリンピックの頃には、借金は限りなくゼロに近づいている。