Amazon

2016年1月31日日曜日

国民に財産税をかけるには、対象となる国民の財産を正確に把握する必要がある。
そのために1946年に日本政府が行ったのが、「預金封鎖」と「新円切換」でった。
1946年2月16日に、日本政府は総合インフレ対策として「金融緊急措置令」と「日本銀行券預入令」を発表し、2月17日以降、全金融機関の預貯金を封鎖することが決定した。
預金流出を防ぐために極秘裏に準備が進められ、2月16日に国民に知らされた後、わずか1日で預金は封鎖された。
引き出しが許された金額は、月額で世帯主が300円、世帯員1人につき100円に過ぎなかった。
当時の公務員の初任給が500円程度だったので、現在の20万円程度と考えられる。
そして、新円切換と共に旧円は無効となり、旧円の使用期限は3月2日までとされ、預金封鎖から僅か2週間で手元の紙幣が無効となったのである。
この新円切換はの実施時期が、当初想定より半年繰り上げられた為、新円の印刷が間に合わず、証書ほ旧円に張り付けることで新円とみなす事となった。
この証書の貼り付けは、日銀や各地の金融機関で手作業で行われた。
この証紙そのものが闇市で出回ったという。
硬貨や小額紙幣は切換対象外だったので、小銭を集めるため、国民の多くが駅で少額切符を買っておつりを貰うため、駅に長い行列ができた。
急速なインフレの進行に伴い、終戦時に296億円あった日銀券の発行残高は1946年2月には618億円へと膨張し、わずか半年で倍増するという異常な状況だった。
しかし預金封鎖と新円切換により、1946年3月には154億円へと1ヶ月で4分の1に激減したのである。
それでもインフレは収まらず、日本政府はインフレを抑制するために貯蓄を奨励し、宝くじを発売することで、国民の浮動資金の吸収に努めたが、国民が引き出した新円は金融機関に還流することはなかった。
預金封鎖という国民に対する裏切り行為を行った日本政府を信用する者は誰もいなかったのである。
預金封鎖直後、1946年3月に154億円まで減少した日銀券の発行高は、1947年1月には1000億円を突破し、結局、預金封鎖、新円切換という一連の措置はインフレ抑制という表向きの効果を上げることはできなかった。
1846年の物価上昇率は514%、1947年は169%、1948年は193%とインフレの激しさは凄まじく、預金封鎖が解除された1948年7月には、預金の価値は17分の1になり、国民の財産は大幅に減ったのである。

0 件のコメント:

コメントを投稿