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2016年1月16日土曜日

地方自治法に基づいて「住民訴訟」という制度がある。
住民訴訟の事件として有名なのはも津地鎮祭訴訟や愛知県玉串訴訟があるが、どちらも地方公共団体が宗教的な儀式に公金を支出したことを争った例である。
総務省の説明によると、住民訴訟は「住民からの請求に基づいて、地方公共団体の執行機関又は職員の行う違法・不当な行為又は怠る事実の発生を防止し、又はこれらによって生じる損害の賠償等を求めることを通じて、地方公共団体の財務の適正を確保し、住民全体の利益を保護することを目的とする制度」だという。
ところが、地方公共団体に対しては、このような制度があるが、国に対してはこのような制度は存在しない。
つまり、地方公務員には国家公務員との比較において十分な行政能力は無いので、このような制度を設けて、住民主導で地方公共団体の活動をチェックする必要がある、ということのようである。
1978年3月30日に最高裁第一小法廷は、住民訴訟について「住民の有する右訴権は、地方公共団体の構成委員である住民全体の利益を保障するために法律によって特別に認められた参政権の一種であり、その訴訟の原告は、自己の個人的利益のためや地方公共団体そのものの利益のためにではなく、専ら原告を含む住民全体の利益のために、いわば公益の代表者として地方財務行政の適正化を主張するものであるということができる」という判決を下している。
この判決からも、国に対する住民訴訟制度がないことの合理的説明は困難であることが理解できる。
参政権は憲法の定める国民の基本的人権の一つだからである
国の予算に関する問題の一つとして、国会の議決に法律的効果がないという事が挙げられる。
決算が国会に提出されて決算委員会や本会議で、どのような扱いになろうとも、何ら法律的な効果はなく、責任問題は生じることはない。
法律的効果がないことの結果として、何年度の決算が国会でいつどのような取扱い段階になっているのか、誰も関心を持たないという状況になっている。
つまり当初予算は有名無実になっているのは、国の決算制度に理由があるのである。
補正予算の編成は、毎年行われる年中行事になっているが、補正予算を編成する度に財政規律のタガは外れていく。
当初予算では厳しいシーリングがあるから、要求側の官庁も賢く対応するようになり、どうしても必要な経費については当初予算ではあえて要求せずに、頭出しの小さな要求額に留めておいて、補正予算の編成時にドカッと大きく追加の要求をする。
補正予算の要求側は、どうしても必要なものについて、この手を使うので財務省側も削減することができない。
そして、財務省が発表するデータは、当初予算ベースでの年次別比較が基本で、補正予算ベースで比較した表を見ることはなく、ましてや決算ベースての比較は無いに等しい。
当初予算ベースの比較は実態のない虚像の比較である。
日本の国家予算編成は、8月31日に要求側各省庁の概算要求が財務省の主計局に提出されるところから始まる。
これを受けて9月1日から予算編成作業が開始され、主計局の官僚にとって4ヶ月にわたる長丁場となる。
査定は基本的に課長補佐レベルの主計官補佐(主査)が受け持ち、9月末から10月上旬の「第一次局議」に臨むことになる。
第一次局議は局次長が主宰し、厳しい審査が行われる。
課長級である主計官は、重要局議案件は別として、種さの査定作業には殆ど介入せず、もっぱら政治向きの用務を果たす役割を担う。
主査の査定作業は不眠不休で行われる時間との競争であり、中身を主計官に説明している時間はないからである。
主計局内には、主査、主計官、次長、局長という四段階のピラミッドになっているが、そのはしご段の中に、主査と次長、主計官と局長という二人の入れ子のコンビができ、主査・次長組は実務の査定、主計官・局長組は国会関係というように、それぞれが事務と政務とう分担している。
また第一次局議に先行または並行して、「重要局議」が開催される。
これは主計局長が主宰するもので、官邸の了承を必要とするよいな政治案件の重要事項について議論する会議である。
主計局の三人が作った第一次局議の査定案が、年末における予算政府案の原型となるが、内示復活の前にもう一度総ざらいをするために「第二次局議」が行われる。
国際決済銀行(BIS)は3年ごとに調査結果を公表しているが、最新の2013年データによると、外為市場における1日当りの取引高は5.3兆ドルという。
このうち実需に伴うものは1割を切ると考えられる。
また、2013年末のデリバティブの想定元本ベース残高は710兆ドルに上っている。
尚、実物セクターの年間生産量は70兆ドルである。
両者の規模を比較すると、金融セクターは実物セクターの10倍から20倍の規模と、いかに肥大化しているかが分かる。
NPOのタックス・ジャスティス・ネットワーク(TJN)によると、タックス・ヘイブンに秘匿されている資金量は、21兆から32兆ドルと推計されている。
ちなみにOECDが主要国のGDPを合計したデータによると、世界経済の規模は70兆ドルである。
GDPはフローであり、TJNのデータはストックであるので、単純に比較することはできないが、アンダーグラウンド経済の資金量の大きさは理解できる。
無国籍企業の節税と租税回避スキームを考案するために、極めて優秀な頭脳を誇る弁護士や会計士等の多くの専門家が、企業の納税額を減らすために動員されているる。
米国のロー・スクールやビジネス・スクールの租税法の授業では、いきなり節税法の講義から始まるという。
そして全体の講義のうち半分は節税策の話に費やされるという。
霞が関の官庁は、政策官庁と事業官庁とに大別される。
事業官庁とは予算を大量に使用して所管領域の事務を遂行していく官庁で、国交省、農水省、厚労省の三省が代表となる。
近年の予算規模の大きさでいえば、厚労省の社会保障費が圧倒的である。
日本でも戦前には、民政党と政友会との二大政党時代があり、英国スタイルの政権交代があった。
当時の霞が関では、二大政党のそれぞれに付いて省内を二分する派閥抗争もあり、熾烈を極めたという。
年金制度を解説する本に必ず掲載されている「三階建ての年金構造」の図がある。
この三階構造は、既に破綻して持続可能性がなくなっている国民年金の実態を隠すために、作りだしたフィクションであり、日本の年金保険の実態を反映したものではない。
本来、全く別の制度として存在していた厚生年金と共済年金に負担を押し付けて、国民年金に財政補填をしているのが実態である。
公的年金制度には、ビスマルク型とベバリッジ型に2分類される。
ビスマルク型は職域別に年金保険を設けるタイプで、ベバリッジ型は国民を一律に1つの年金制度に組み込むタイプである。
日本の年金制度は、本来、国民年金、厚生年金、共済年金が分立するビスマルク型だった。
しかし国民年金が積立金不足で破綻が明らかになった事に気づいた厚生官僚は、厚生年金と共済年金の積立金を取り崩して国民年金に補填するのを隠す為に、ビスマルク型からベバリッジ型に年金制度が切り替わったこのように見せかけることにしたのである。
新たに「基礎年金」というものを持ち出し、1985年改正前の「国民年金」と変わりがないようなことを言いながら、出して来たのが「三階建ての年金構造」の図で、「国民年金」という名を借りた「基礎年金」というものをベースに、「これを全国民に対する最低保障にし、厚生年金や共済年金は上積みする分」と説明した。
更には「基礎年金」の原資の半分程度に公的資金である税金が投入されおり、年金の財源は保険料と税金が混在し、負担と給付が正確に紐づけできなくなっている。
日本の社会保障制度が抱えている巨大な簿外債務の全体像は、30兆円という一般会計の社会保障関係費の表面上の数字を見ているだけでは分からない。
一般会計には計上されていない実際の社会保障費は支出ベースで既に100兆円を超えており、これが毎年3~4兆円ずつ増えている。
一般会計以外にも支出があるのは、「年金特別会計」という別の財布があり、保険料や自治体負担分を集めてから給付しているからである。
これは国民年金の破綻を厚生年金と共済年金に負担させるカラクリであり、年金特会を通すことで、国民は自分が支払った年金保険料と自分が受けられる給付との紐づけができなくなる仕組みになっているのである。
また、社会保険全体を積立方式で貫徹した場合の計算結果による推定だと、資金附則の実数は1500兆円ということになる。
公表されている1010兆円の政府長期債務残高とは、別に膨大な簿外債務が存在しており、さらに増えづけているのは間違いない。
日本の社会保険制度は、既に破綻しているのである。
特別会計予算の歳出総額は、2013年度予算で386兆円、
会計間相互の重複計上がくを除いた純計額は185兆円である。
これに対して一般会計の規模は96兆円だから、その2倍にあたる規模になる。
特会のうち大口のものは、国債償還費等が84兆円、社会保障給付費が58兆円、地方交付税交付金等が20兆円、財政融資資金への繰り入れが12兆円と、桁違いに大きな額となっている。
この特会が存在することで、税と対価関係の不明瞭さも歳出入予算制度の複雑さに乗じて、財政の全体像が極めて不透明なものになっている。
日本国憲法は30条において、「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負う」と規定している。
勤労、教育、納税は国民の三大義務と、中学校で学ぶ。
しかし、憲法で納税を義務として規定している国は世界でも珍しい。
かつての帝国憲法の踏襲と考えられるが、この文言は親憲法制定を審議する国会による修正で、わざわざ入れられたことを知っておくべきである。
健忘は、基本的人権を定める部分と統治の気候を定める部分の2つに分かれるが、本来、国民の基本的な権利を規定するはずの憲法の基本的人権の部分において、「国民の義務」として納税の義務が明文化されているのは奇異といわざるを得ない。
更に、国民の権利を守るべき租税法律主義の規定は憲法84条だが、これは統治の機構の部分に収められており、条文の位置取りとしてもおかしい。
源泉徴収制度と年末調整のおかげで、日本人の大多数は納税に伴う煩雑な手続きを免れていて、課税当局との接触を持たなくてよいメリットはある。
しかし、確定申告の手間が省けるメリットと引き替えに納税者としての権利意識を失っている。
1970年12月24日に、最高裁判所第一小法廷は、次の判決を下している。
1.源泉徴収義務者の源泉徴収義務は、法律によって定められた源泉徴収義務者の固有の義務である。
2.国と源泉徴収義務者との間には、権利義務という法律関係が生じるが、これは公法上の法律関係である。
3.源泉徴収義務者が間に入る場合、国と納税義務者(税を実際に負担する担税者)との間には、直接の法律関係は存在しない。
4.したがって、納税義務者(担税者)において、源泉徴収の課税法律関係で何らかの紛争が生じたとしても、国との間では法律上の関係はないのであるから、納税義務者(担税者)は国を相手に訴えを提起することはできない。
5.納税義務者(担税者)と源泉徴収義務者は相互に相手との間で訴訟を提起することができるだけであり、その場合の納税義務者(担税者)と源泉徴収義務者の間は、私法上の関係であって公法上の法律関係ではない。
要するに「税金に関して何か不服があるなら会社と雇い主に文句を言え。国に文句を言うな」ということである。
この最高裁の判例は、1992年2月18日の最高裁判決で一層強化され、現在も判例法理論として有効となっている。