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2016年8月2日火曜日

集団的自衛権を進める側は、日本を取り巻く安全保障環境の変化という理由と、テロの問題に国際社会が共同して対処する時に日本は何もしなくても良いのか、といった国際義務という理由の2つを振りかざして、集団的自衛権が必要だという議論をしている。
しかし、テロその他の国際的な紛争に国際社会と協働して対処するという話と、日本を取り巻く中国・朝鮮半島情勢への対処するというのは、本来矛盾する。
自衛隊が海外へ行ってしまうのであれば、本土の防衛が手薄になり、限られた戦闘能力をどこに優先的に投入するかを考えると矛盾する。
憲法9条2項をめぐる永田町の議論の展開は衝撃的である。
予算委員会の稲田朋美の質問に答える形で、安倍総理までが9条2項と現実のズレという指摘をして、だから改憲が必要だという。
この現実に合わせるのが立憲主義だという話になってきて、戦後の歴代の自民党政権が引き継いで来た防衛政策は、一体なんだったのかという疑問が出てくる。
冷戦終了と共に、少しずつ日米の同盟協力により自衛隊の海外任務を増やすという流れはあったが、非戦闘地域とか他国の武力行使と一体化しないとか、という概念を使って、憲法の禁止する武力行使には該当しないという説明をしてきた。
自衛隊は武器の使用を極めて抑制してきたし、活動場所も選んできた結果、現に一発も自衛隊は弾を撃ってきていないし、1人も戦死者を出していない。
これまて一発の弾も撃たない範囲で貢献してきたが、それではもうやっていけないと言うのである。
それをやらないと日本にとって、どういう不利益があるのか、やることによってどういう利益があるのか、それに伴うコストはどうか、という議論は全くなされていない。
護憲派側の課題は、憲法があるからそれ以上やってはいけないんだ、という主張に留まっているだけで、これからの21世紀を乗り切るという観点から憲法を変える必要がないと、明確なビジョンを提示できていない事である。
だから、安倍政権はやれないよりやれるに越したことはない、という非常に分かり易い議論で問題提起をしてきているのである。
憲法に違反するからダメだというだけでは、対抗軸としては弱い。
単にけしからんと言って反対するよりも、どういうビジョンを護憲派側が出せるかを考えないと、このまま議論に負けて改憲は現実のものとなる。
植民地では、帝国の植民地統治に協力する人間しか出世できない。
植民地統治に協力しなければ、キャリアパスが開けない。
だから、植民地になって一定の年月が経つと、植民地では政治家も財界人も官僚も学者もジャーナリストも、上から下まで、全てが植民地支配に協力した人間ばかりになる。
今の日本は、敗戦から70年かけて、対米協力をしなければ上に上がっていけない仕組みが作られ、対米従属技術に長けた人達が社会の指導層を占めている。
安倍政権を支持している人達の最大の支持理由は「米国が承認しているから」である。
戦後の日本人が政治家の格付けをする際の基準が、アメリカの信認があるかどうかなのである。
日本の右派やナショナリズムは歪んでいる。
本来ならナショナリストであれば、日米安保は破棄を第一に掲げねばならない。
外国軍が国土の一部を不法占拠している事態に対して、反基地運動を展開するのがナショナリストの最優先すべきである。
本当のナショナリストであれば、国土奪還が真っ先に来るべきなのである。
天皇を崇敬すると共に、米軍基地の撤去を優先課題に掲げる事が正統なナショナリストである。
JR西日本の新快速が、やたらと止まったり遅れたりするという。
理由は、それまで地区毎にバラバラに運行していたのを、相互乗り入れをして、播州赤穂から敦賀まで繋いでしまったからだという。
区間を区切って運行していれば、どこかで車両故障とか人身事故があっても、他のエリアは問題なく運行できる。
しかし、全部一本でつないでしまうと、遥か遠方でトラブルが起きても、全線が一斉に止まってしまう。
区間を区切って運行していると、車両を止めておく場所が必要となるが、電車が全車両、線路の上を動いていれば、車庫が不要となり、その土地を売却できる。
そうやって、効率化と収益増大を見込んでやった結果、交通機関としてのリスクが一気に増大し、システムとして脆弱になっててしまった。
区間を分断していたら、安定的な運行のためのリスクヘッジが可能だったのである。
大衆は常に「目新しいモノ」に惹きつけられる。
そして、全ての流行と同じで、必ず「今の目新しいモノ」も飽きられる。
この「飽きる」という感情は、政治システムの交換としては意味がある。
何か上位の「あるべき政治」という崇高な理念に照らして政権や政策の当否を論じるのではなく、「言っている事は正しいと思うけど、なんか飽きちゃった」という基準てせ、大衆は為政者を選んでいる。
理念の正否りも「飽きたか、飽きないか」の方が、明らかに大衆の政治的選択に対する影響は大きい。
安倍政権は、目新しいモノが無くなり、そろそろ飽きられ、劇的な反動がくることになる。
これまで飽きられなかった政治家は存在しない。
知識をどうやって活性化するかという技術に長けているのがユダヤ人である。
ユダヤ人は非常に知性的な社会集団であり、ノーベル賞の受賞者数でもわかる。
部門によっては、受賞者の25%がユダヤ人である。
ユダヤ人の人口は1350万人と東京都の人口とほぼ同じで、人口比では世界人口の0.2%にすぎないが、統計的にありえない比率で多的なイノベーションを担っている。
ユダヤ人だけが脳の構造が他の民族と異なる訳ではないので、ユダヤ人が集団的に実践している知的訓練の方法があるということになる。
ユダヤ教の根本経典をタルムードと言うが、なぜかエディションが2つある。
タルムードを解釈する律法学院も古代から2つあり、それぞれが異説を立てていて、同時代に必ず二人の大律法学者が登場してきて、聖典の解釈について最終的な結論を出さないように制度そのものが設計されている。
つまり、タルムードには決定版というものがなく、根本経典が現在も新たな注釈が付け加えられて増殖し続けている。
これが、ユダヤ教という宗教の際立った特徴となっている。
ユダヤ的知性は、「ペンディングできる力」によって、物事に結論を付けずに物事を宙吊りにできる点である。
弱い知性は話を片付けたがり、「最終的解決」を求める。
ユダヤ人600万人を虐殺したナチス・ドイツの作戦名が「最終的解決」だったというのは、その意味で極めて示唆的なのである。