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2016年12月6日火曜日

戦国以前、日本有数の港だった兵庫湊には、北関と南関という2つの税関があり、そのうち北関の税関台帳が残っている。
この税関台帳によると、積み荷の1%が関税として徴収されていたという。
ちなみに、上杉謙信は、柏崎と直江港という2つの港から関税収入だけで、年間4万貫を得ていたという。
4万貫というと、だいたい30万石の大名の収入に匹敵する。
つまり、上杉謙信は、実際の領地に加え、30万石の副収入を持っていたのである。
ポルトガルとの貿易は、当時の戦国大名にとっては非常に魅力的なものだった。
当時の日本とポルトガル防疫の取引額は、1570年代から1630年までに290万~440万クルサドに達していたという。
20クルサドが一人の1年間の生活費とされていたので、「20クルサド=米2石」とすると、29万石から44万石の貿易額があっとことになる。
年貢率4割とすると、100万石の大名の1年分の年貢収入に匹敵するほどの額となった。
フランシスコ・ザビエルは、イエズス会に日本布教の許可を取り付け、ゴアで1年間を過ごし、日本へ行く準備をした。
その際に、ポルトガル国王から1000クルサド以上の援助を受けている。もちろんポルトガルの通貨は日本では通用しないので、その分の商品を積んでいった。
宣教師の記録によると、1年課んの生活費は20クルサドだったとされ、1000クルサドとは50人分の生活費が賄えたことになる。
ザビエルの日本滞在の2年間に、各地で布教し協会設立をしても、表に困ることがなかったのは、この援助のおかげであった。
天徳2(958)年の乾元大宝を最後に、朝廷は銭の鋳造をやめてしまった。
銅不足が原因とされている。
そして、10世紀末には銭の流通が非常に少なくなり、その後150年間に渡って貨幣は流通していなかったという。
なぜかと言うと、土地売買の記録から銭の使用の記載が消えており、米や布を貨幣の代わりに使っていたと思われる。
しかし、九安6(1150)年に、土地売買の記録に再び銭の記録が出てくることから、この頃に銭の流通が再開したと考えられる。
中国から「宋銭」が大量に輸入されたからである。
学問の神様として名高い大宰府天満宮は菅原道真の霊を慰めるために建てられた。
菅原道真は貴族としては名門の出ではないにもかかわらず、230年間でわずか65人しか合格しなかったいう最高国家試験「文章得業生」に合格し、讃岐守などの重要ポストに就き、当時の宇多天皇の信頼を得て、右大臣にまで上り詰めている。
しかし、その直後に無実の罪を着せられ、大宰権帥(大宰府の副指令長官)に左遷され、京都に戻ることなく大宰府で死んでしまう。
この菅原道真の失脚は、古代史の謎の一つとなっている。
実は菅原道真は「寛平、延喜の改革」と呼ばれる国制改革を実行しようとしたことで、有力貴族から反発を受け失脚したという。