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2016年9月27日火曜日

人の思考を知るには、この人かヒイキにしている著者の作品を知るのが一番の近道である。
2014年12月に厚生労働省が発表した「平成26年労働組合基礎調査の結果」(2014年6月30日現在)によると、日本労働組合総連合会の労働組合因数は984万9000人、組織率は17.5%となっている。
2013年と比較すると、労働組合員数は2万6000人ほど減少し、組織率も0.2ポイント低下しており、労働組合員数の減少傾向は止まらない。
2012年の高齢者雇用の「非正規の職員・従業員」は179万人となり、高齢雇用者の69.1%を占めている。
つまり高齢者の働き方は、殆どが非正規雇用であり、働いた分だけ供与が支払われるケースが多い。
日本では失業率と自殺率の因果関係が強く指摘されており、失業率が高い時期は、自殺率も高いという相関関係にある。
2012年の奨学金利用者は大学生の52.5%と半数を超えている。
奨学金は給付型ではなく貸与型のうえに、90年代は8割が無利子貸与だったのが、現在は7割以上が有利子貸与で借りている。
2012年時点で、日本学生支援機構の奨学金返還を延滞した人は33万人を超え、滞納額は900億円にも上っている。
学生が親からもらえる家計からの給付は、この10年間で150万円~160万円だったのが、120万円へと40万円下がっている。
仕送り額は、1990年代半ばは、6割以上が毎月10万円以上だったのが、現在は10万円以上は3割を切っていて、むしろ5万円未満が増えている。
首都圏の私大・短大生を対象にした調査では、仕送り額から家賃を除き、30日で割った「1日当りの生活費」は、1990年の2460円から2014年には897円となっている。
五味川純平の作品では『人間の条件』が有名で小説としてもよくできているが、『戦争と人間』は、註が非常に役に立ち勉強になる。
『戦争と人間』澤地久枝が、五味川の資料集めを担当し、本編が五味川、注釈担当が澤地と分担し、二人の合作のようなところがある。
戦艦大和の最期の出撃での乗組員は3332人で、うち戦死3516人だった。
護衛についていた巡洋艦・駆逐艦の乗組員が約3890人で、うち戦死981人だった。
この「大和」特攻の戦死者の合計は、4037人だった。
ちなみに、特攻と呼ばれた作戦全体で亡くなった人は、海軍の特攻機で戦死した人が2632人、陸軍機では1983人、人間魚雷「回天」特攻隊では80人、その回天訓練中に殉職したのが16人。
人間ロケット「桜花」特攻隊が56人、「桜花」を積んだ一式陸攻が全て撃墜されていて、これで死んだ人が372人。
合計で5139人が、いわゆる特攻隊として亡くなった人のほぼ総数となる。
つまり、特攻の死者全部を合わせた数に匹敵する戦死者が、大和の特攻で出ているのである。
あの非合理な大和の1回の出撃で、いかに多くの無駄死にをさせたかということである。
「敵編隊見ユ」という時に、何万メートルも先の敵編隊に向かって「武蔵」も「大和」も主砲を撃った。
主砲の前方の艦橋の両舷には機関銃隊がフードを下部って並んでいて、主砲が発射されるときには、ピーッと笛が鳴り、機関銃隊は主砲の爆風を避けるために艦内へ退避することになっていた。
ところが武蔵最期の時は、その笛がなぜか聞こえず、艦首の主砲を撃ったらその両舷の機関銃隊が衝撃波で全滅してしまったという。
アメリカ軍にはそれが見えていて、他の艦は狙わずに武蔵だけを狙い、しかも機関銃による反撃がない艦首に集中攻撃をかけたので、武蔵が沈みそうになっている写真は、艦首から沈みそうになっているのである。
第二次世界大戦時に使用された日本独自の兵器で有名なのは、明治38年に開発された「三八式歩兵銃」である。
つまり、日露戦争で旅順港が陥落したのが、昭和38年1月、奉天会戦が昭和38年3月で、それ以降、陸軍は殆ど実戦を経験していないため、山ほど製造した銃と銃弾が余っていたので、なくなるまでこの「三八式歩兵銃」を使用したのである。
殺傷能力が低い銃だったので、敵側には戦死者よりも負傷者が沢山出るが、米軍は負傷兵を見捨てないので、後方へ送るために一人の負傷兵に三~四人の兵が付いていくことになり、それだけ戦力を弱める効果があったという。
実際に太平洋戦争中にペニシリンができて、負傷兵が治るので、ますます放置せずに後送することになり、確かに米軍の力をそぐ効果はあったかもしれない。
ちなみに日本には、ペニシリンは無かったので、負傷兵が出たら前線に置きっぱなしだった。
ソ連軍も負傷兵は放置して進んでしまうので、日本の「三八式歩兵銃」の効果は低かった。
海軍は陸軍と比べて合理主義だと言われたりするが、決して合理的な集団ではなかった。
例えば飛行機のエンジンは光式と寿式、零式戦闘機の機関銃は恵式、軍艦のジャイロコンパスは須式などと記している。
須式はスペリー、毘式はヴィッカース、ホ式はホチキス、光式はライト、寿式はジュピター、恵式はエリコンと、全て外国技術のライセンスの名前だった。
つまり、太平洋戦争というのは、アメリカの技術とアメリカの石油で、アメリカに挑んだ戦いだったのである。
海軍が本当に合理的な考えができるならば、アメリカとは戦争はできないのが分かるはずである。
陸軍参謀本部は、企画立案から評価まで自分達でやっていたので、「成功」と「大成功」しかなく、失敗はあり得ない組織になってしまった。
失敗を認めない例として、ノモンハン事件の停戦協定が昭和14年9月に結ばれた後、翌昭和15年1月にできた「ノモンハン事件研究委員会」の結論は、火力に対しこれからますます精神力を強くすることを要す、というものだった。
自分達の立案した差郡で非常に苦戦はしたけれども、敵の圧倒的な火力に対して精神力を持って白兵突撃をやって、見事に互角に戦ったという結論だった。
しかも、昭和の日本陸軍の参謀は、負けてもクビにさえならず、どんなに負けても参謀に責任はなかった。
責任を取らせるとうろたえたり、いじけたりして自由な発想ができなくなるからだという。
斬新な作戦構想を練るのが参謀の任務であって、その作戦を採用した指揮官が全責任を取るシステムだった。
ノモンハンでも、関東軍先任参謀の服部卓四郎と作戦参謀の辻政信は、一度左遷されるが、昭和16年の夏には二人とも参謀本部の作戦かに戻っている。
しかし、植田謙吉関東軍司令官は、責任を取らされて退役になり、現場で直接指揮を執った指揮官は、撤退の責任を負わされ、みんな自決している。
陸軍では、軍法会議で敗因を究明するのではなく、自決を強要したという。
日本陸軍の暗号技術が飛躍的に進んだのは、1923年にポーランドから暗号将校を招聘して研究を始めるようになってからである。
それまでは、ワシントン軍縮会議での日本の主力艦の最大限トン数などが、アメリカ側に筒抜けになっていた。
日本の暗号は、アメリカ陸軍情報部第八課(MI-8、通称ブラック・チェンバー)によって解読されていた。
MI-8の課長のハーバート・O・ヤードリが暴露本『ブラック・チェンバ』を書いたことで、日本はその事を初めて知った。
ヤードリは、この件で国家機密漏えい罪に問われて、アメリカに居づらくなり、重慶へ行って第二次大戦中は日本軍の暗号を解読する仕事をしている。
その後、ソ連の暗号の強度が非常に上がって全然解読できなくなり、日本陸軍はポーランドと提携して暗号を改良し、精度が高くなり、太平洋戦争が始まってから2年くらいの間は、日本の暗号は読み取るのが難しいものになっていた。

ブラック・チェンバ―米国はいかにして外交秘電を盗んだか? (1931年)