人の思考を知るには、この人かヒイキにしている著者の作品を知るのが一番の近道である。
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2016年9月27日火曜日
戦艦大和の最期の出撃での乗組員は3332人で、うち戦死3516人だった。
護衛についていた巡洋艦・駆逐艦の乗組員が約3890人で、うち戦死981人だった。
この「大和」特攻の戦死者の合計は、4037人だった。
護衛についていた巡洋艦・駆逐艦の乗組員が約3890人で、うち戦死981人だった。
この「大和」特攻の戦死者の合計は、4037人だった。
ちなみに、特攻と呼ばれた作戦全体で亡くなった人は、海軍の特攻機で戦死した人が2632人、陸軍機では1983人、人間魚雷「回天」特攻隊では80人、その回天訓練中に殉職したのが16人。
人間ロケット「桜花」特攻隊が56人、「桜花」を積んだ一式陸攻が全て撃墜されていて、これで死んだ人が372人。
合計で5139人が、いわゆる特攻隊として亡くなった人のほぼ総数となる。
人間ロケット「桜花」特攻隊が56人、「桜花」を積んだ一式陸攻が全て撃墜されていて、これで死んだ人が372人。
合計で5139人が、いわゆる特攻隊として亡くなった人のほぼ総数となる。
つまり、特攻の死者全部を合わせた数に匹敵する戦死者が、大和の特攻で出ているのである。
あの非合理な大和の1回の出撃で、いかに多くの無駄死にをさせたかということである。
あの非合理な大和の1回の出撃で、いかに多くの無駄死にをさせたかということである。
第二次世界大戦時に使用された日本独自の兵器で有名なのは、明治38年に開発された「三八式歩兵銃」である。
つまり、日露戦争で旅順港が陥落したのが、昭和38年1月、奉天会戦が昭和38年3月で、それ以降、陸軍は殆ど実戦を経験していないため、山ほど製造した銃と銃弾が余っていたので、なくなるまでこの「三八式歩兵銃」を使用したのである。
殺傷能力が低い銃だったので、敵側には戦死者よりも負傷者が沢山出るが、米軍は負傷兵を見捨てないので、後方へ送るために一人の負傷兵に三~四人の兵が付いていくことになり、それだけ戦力を弱める効果があったという。
実際に太平洋戦争中にペニシリンができて、負傷兵が治るので、ますます放置せずに後送することになり、確かに米軍の力をそぐ効果はあったかもしれない。
ちなみに日本には、ペニシリンは無かったので、負傷兵が出たら前線に置きっぱなしだった。
ソ連軍も負傷兵は放置して進んでしまうので、日本の「三八式歩兵銃」の効果は低かった。
陸軍参謀本部は、企画立案から評価まで自分達でやっていたので、「成功」と「大成功」しかなく、失敗はあり得ない組織になってしまった。
失敗を認めない例として、ノモンハン事件の停戦協定が昭和14年9月に結ばれた後、翌昭和15年1月にできた「ノモンハン事件研究委員会」の結論は、火力に対しこれからますます精神力を強くすることを要す、というものだった。
自分達の立案した差郡で非常に苦戦はしたけれども、敵の圧倒的な火力に対して精神力を持って白兵突撃をやって、見事に互角に戦ったという結論だった。
自分達の立案した差郡で非常に苦戦はしたけれども、敵の圧倒的な火力に対して精神力を持って白兵突撃をやって、見事に互角に戦ったという結論だった。
しかも、昭和の日本陸軍の参謀は、負けてもクビにさえならず、どんなに負けても参謀に責任はなかった。
責任を取らせるとうろたえたり、いじけたりして自由な発想ができなくなるからだという。
責任を取らせるとうろたえたり、いじけたりして自由な発想ができなくなるからだという。
斬新な作戦構想を練るのが参謀の任務であって、その作戦を採用した指揮官が全責任を取るシステムだった。
ノモンハンでも、関東軍先任参謀の服部卓四郎と作戦参謀の辻政信は、一度左遷されるが、昭和16年の夏には二人とも参謀本部の作戦かに戻っている。
しかし、植田謙吉関東軍司令官は、責任を取らされて退役になり、現場で直接指揮を執った指揮官は、撤退の責任を負わされ、みんな自決している。
陸軍では、軍法会議で敗因を究明するのではなく、自決を強要したという。
日本陸軍の暗号技術が飛躍的に進んだのは、1923年にポーランドから暗号将校を招聘して研究を始めるようになってからである。
それまでは、ワシントン軍縮会議での日本の主力艦の最大限トン数などが、アメリカ側に筒抜けになっていた。
日本の暗号は、アメリカ陸軍情報部第八課(MI-8、通称ブラック・チェンバー)によって解読されていた。
日本の暗号は、アメリカ陸軍情報部第八課(MI-8、通称ブラック・チェンバー)によって解読されていた。
MI-8の課長のハーバート・O・ヤードリが暴露本『ブラック・チェンバ』を書いたことで、日本はその事を初めて知った。
ヤードリは、この件で国家機密漏えい罪に問われて、アメリカに居づらくなり、重慶へ行って第二次大戦中は日本軍の暗号を解読する仕事をしている。
ヤードリは、この件で国家機密漏えい罪に問われて、アメリカに居づらくなり、重慶へ行って第二次大戦中は日本軍の暗号を解読する仕事をしている。
その後、ソ連の暗号の強度が非常に上がって全然解読できなくなり、日本陸軍はポーランドと提携して暗号を改良し、精度が高くなり、太平洋戦争が始まってから2年くらいの間は、日本の暗号は読み取るのが難しいものになっていた。
ブラック・チェンバ―米国はいかにして外交秘電を盗んだか? (1931年)
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