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2017年3月12日日曜日

関ケ原の戦いは、勝者側から見れば非常に効率の良い戦いだった。
わずか数時間の戦いで、関ケ原で敗れた西軍から没収した石高は630万石にも上った。
徳川家康自身への加増と、身内への加増だけで300万石を越えていた。
没収された630万石の石高が多い大名を順に並べると、1位は豊臣秀頼で222万石から156万石も削られ、66万石になっている。
2位は毛利輝元で120万石から90万石以上削られ、29万8000石になっている。
関ケ原前の石高では、徳川家康が250万石で1位、2位が豊臣秀頼の220万石、3位が毛利輝元だった。
しかし、関ケ原以降は1位の家康は400万石で、2位の前田利家は120万石となっている。
家臣も含めた家康一族の判図は800万石であり、当時の日本の領土の25%に達していた。
寺社勢力の財力を物語る話として、永正5(1508)年に、管領の細川高国が通過に関する新しい命令「撰銭令」を出した。
撰銭令とは、欠けたり焼けた李した粗悪銭の取扱いについて定めた法令で、この撰銭令は当時の日本の8つの金持ち団体に対して発せられている。
この8つの団体は、戦国時代の八大財閥と言える。
大山崎(自治都市)
堺(自治都市)
細川高国
大内義興
山門使節
青蓮院
興福寺
比叡山三塔
これら8つの団体のうち、山門使節、青蓮院、興福寺、比叡山三塔の4つが寺社関係である。
つかも4つのうち3つ(山門使節、青蓮院、比叡山三塔)は比叡山延暦寺関連であり、比叡山延暦寺は日本の八大財閥のうち3つを占める日本最大の財閥だったのである。
信じ難いが、室町時代から戦国時代前半にかけて、日本の資産の大半は寺社が所有していた。
現在分かっているだけで比叡山の荘園の数は285ヶ所あった事が判明している。
現存する記録からみて、近江の荘園の4割、若さの3割は比叡山の延暦寺関係のものだったと推測される。
また、比叡山の荘園は近江や近畿だけでなく、北陸、山陰、九州にまで分布していた。
比叡山は農地だけではなく、京都の五条町に3ヘクタールもの領地を持っていたことが分かっている。
これは後醍醐天皇の二条富小路内裏と足利尊氏邸を合わせた面積よりも広かった。
戦国時代の南蛮船商人は、1回の貿易で莫大な富を得ることができた。
当時の日本とポルトガル貿易の取引額は、1570年代から1630年代までに290万から440万クルサドに達していた。
これは米の代金にして200万石から400万石に相当し、徳川政権の1年分の年貢収入に匹敵するほどの額だった。
戦国時代、日本の流通は関所によって大きく妨げられていた。
関所の数が異様に多かったのである。
例えば、寛正3(1462)年、淀川河口から京都までの間には380ヶ所、伊勢の桑名から日永までに60以上の関所があったという。
織田信長は新しく領地を占領することに、その地域の関所を廃止し、日本の流通の発展に大きく寄与している。
日本で定期的にブームになる血液型占いは似非科学の最たるものである。
ヨーロッパやアメリカでは、血液型を知らない人のほうが多いぐらいで、血液型と正確を結び付けるのは、ナチスの似非科学と近い考え方なので、受け入れられないという。
いわゆるミッションスクールはキリスト教をとおして日本を植民地化することを目的としていた。
これに対して同志社は、ミッションスクールではなく、キリスト教主義大学だという自意識を持っている。
外国人の言いなりにはならない、日本に土着化してキリスト教を形成するという意識が同志社は強い。