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2015年6月15日月曜日

「公務員天国」などと言われているが、日本の人口1000人当りの公務員数は42.2人とフランスの半分以下であり、他の先進国に比べて極めて低くなっている。
しかも国家公務員は、1000人当り12.6人とイギリスやフランスの4分の1前後と少ない。
<人口1000人当りの公務員数>
       日本  英国  フランス  アメリカ  ドイツ
国家公務員  12.6人 42.4人  53.1人   9.9人   22.3人
地方公務員  29.6人 35.9人  42.7人   64.0人   47.3人
合計     42.2人 78.3人  95.8人   73.9人   69.6人

公務員数の国際比較に関する調査」2005年11月 野村総研作成
日本の総債務残高は対GDP比で240%を超え、先進国の中で最悪となっている。
これだけの累積財政赤字を抱えながら国債市場が順調に推移しているのは、対GDP比で300%近くに達する家計の金融資産残高が間接的に国債の購入に回っているからである。
しかし、現在の財政赤字は、毎年対GDP比で8%前後、家計の貯蓄率は2%前後である。
このままのGDP比8%の赤字状態が続けば、2020年には累積赤字はGDPの300%に達し、累積赤字残高が金融資産残高を超える可能性がある。
そうなれば、あるいはそれが予測された時点で、国債市場は混乱することになる。
政治は血を流さない戦争であり、戦争は血を流す政治である。
by クラウゼヴィッツ
イスラム教のスンニー派は、4つの法学派に分かれている。
そのうちのハナフィー学派、シャフィイー学派、マリキ学派については、伝統を大切にしたり世の中と折り合いをつけたりしていける存在である。
4つ目のハンバリー学派が原理主義そのもので、その中でも急進的なグループであるワッハーブ派が、サウジアラビアの国教になる。
このワッハーブ派の中の武装闘争派がアルカイダなのである。
だからサウジアラビアとアルカイダは、実はものの考え方かせ一緒なのである。
2014年5月12日に、日本とイスラエルの両首脳が署名した「日本・イスラエル間の新たな包括的パートナーシップの構築に関する共同声明」は、余り注目されなかったが、実は相当大きな出来事である。
「包括的パートナーシップ」とは、お互いに友達だから、こから一緒になって色んなことをやりましょう、という事である。
この共同声明は、日本の安全保障とか、これまでのアラブ寄りだった外交政策を変えるという、大きな転換をしたとうことになる。
ちなみに、武器輸出三原則の緩和のポイントは、イスラエルである。
次期主力戦闘機「F-35」の部品の42~43%は日本で作っている。
イスラエルは戦争で使う可能性が高いので、ここで武器輸出三原則を緩めておかないとイスラエルへの輸出ができなくなる。
断片的に報道されている事が、実は大きな経済的な意味や政治的な意味を持っているのである。
「正教分離原則」とは、近代国家における政治は公共性を有するので、国家は宗教に介入しない、宗教団体は宗教団体独自の教義、儀式、規則などを政治に持ち込まないということである。
しかし、宗教的信仰を持つ者並びに宗教団体が、その信念に基づいて、政治的見解を表明し、行動することを禁止するものではない。
創価学会が、憲法解釈変更による集団的自衛権の行使容認について「本来の手続きは、一内閣だけによる決定ではなく、憲法改正手続きを経るべきだ」という踏み込んだ表明をしたのは、自らの信仰の根幹にかかわる問題であるという危機意識を強く持っているからである。
創価学会名誉会長の池田大作が小説『人間革命』を沖縄で書き始めたのが1964年12月2日だった。その冒頭は以下の言葉で始まっている。
「第1巻 黎明
戦争ほど、残酷なものはない。
戦争ほど、悲惨なものはない。
だが、その戦争はまだ、つづいていた。
愚かな指導者たにち、ひきいられた国民もまた、まことにあわれである。」
2014年は、創価学会にとって、この言葉が記されてから50年の特別な年だった。
創価学会は、集団的自衛権に関して、「慎重の上にも慎重を期した議論によって、歴史の評価に耐えうる賢明な結論を出されることを望みます」という見解を表明した。
2014年7月1日、安倍政権は憲法解釈を変更し、集団的自衛権の行使を容認する閣議決定を行った。
国家安全保障会議(日本版NSC)設立や特定秘密保護法の成立に続き、また一つ、日本が戦争に参加するための枠組みが整った。
しかし、そもそも安倍総理の言う「限定的な集団自衛権」というものは存在しない。
個別的自衛権という従来の制度で、有事には十分対応可能なのに、実質的に何ら意味を持たない制度に、何故かこだわっているのである。
東京の保守派の人は「沖縄で辺野古移転に反対しているのは、本土から行っているプロの新左翼とか、過激な考えを持った活動家じゃないか」というイメージを持っている。
しかし、普天間飛行場の辺野古移設に反対しているのは、地元の沖縄の保守派で、その中には地元の80代、90代の沖縄戦経験者の年寄も多くいる。
沖縄の米軍基地は地元の同意を得て作られたものは一つもない。
そこが原発とは違う。原発は一応、設置する時に地元の同意を得ている。
沖縄の基地は、米軍占領下に無理やり作られたものである。
特定機密保護法の成立によって、インテリジェンス情報や軍事情報は、官僚に独占されるこにとなる。なぜならば、適性評価に適合した者しか特定秘密を取り扱うことができなくなるからである。
適正評価とは、「特定秘密の取扱いの業務を行った場合にこけらを漏らす恐れがないと認められた者」(同法第11条)しか特定秘密に触れることができなくする制度である。
一方、インテリジェンスの世界には「サード・パーティ・ルール」(第三者に関する約束)という掟があり、秘密情報を適用する場合、適性評価に適合した者以外とその情報を共有しないという掟である。
もしサード・パーティ・ルールに違反した場合には、外国のインテリジェンス期間かり機微に触れる情報はその後得られなくなる。
特定秘密保護法の規定では、総理を含む国務大臣、内閣官房副長官、内閣総理大臣補佐官、副大臣、大臣政務官らは、適性評価を受けなくても、特定秘密を取り扱うことができるとしている。
しかし、国際基準では適性評価を受けない者は特定秘密を取り使う資格を持たないので、諸外国から日本政府に提供された秘密情報は、適性評価を受けない総理、官房長官、外務大臣、防衛大臣が目にすることはできなくなる可能性がある。
特定秘密保護法が成立した結果、適性評価を通過したごく一部の官僚が、特定秘密を独占することになる。
特定秘密に該当する情報は、民意のチェックを受けない、国家権力を運営する官僚のものという帰結となる。
「国家安全保障会議(日本版NSC)」の設置により、日本は外交政策の選択肢として、戦争というカードを持てるようになり、それに伴い軍事秘密を保全する必要が生じることとなった。
大日本帝国憲法下では、1937年に抜本的に改正された軍機保護法で軍事技術面の情報、1941年に制定された国防保安法で軍事政策に関する情報を保全す体制を作った。
特定秘密保護法は、この戦前の軍機保護法と国防保安法を合わせた昨日を果たすことになる。
イギリスには、人権保護に関する近代的な成文法はない。
そもそもイギリスには、成文憲法すらないのである。
目に見えない憲法があって、必要な時にそれが判例として出てくるという考え方なのである。
イギリスという国は、エリートが支配してもか構わないという国で、その代わり、戦争になったらエリートが一番先に行く。
だから、外交は下々に触らせないで、国家機密があるのは当たり前という感覚の国なのである。
日本版NSC(国家安全保障会議)とは、日本が戦争に参加するか否かについての政治意思決定をする機関」である。
今の日本で進められているのは、憲法9条を改正せずとも、事実上、戦争を可能にする「国家再編」である。
日本には憲法第9条があり、交戦権を放棄しているので戦争はしないことになっている。
だから戦争について決める機関が無かった。今までは、攻めて来られた時にだけ反撃するという事だったので、主体的に判断しなくても良かったのである。
軍隊を指揮する最高の権力である「統帥権」を日本版NSC(国家安全保障会議)が持つことになる。
戦争を想定する以上、それに対応した法律も必要となる。
旧憲法下では「国防安保法」があったが、それに相当するのが「特定秘密保護法」となる。
この特定秘密保護法の主たる適用対象は、防衛官僚、自衛隊員、防衛産業関係者、外務官僚であり、関係者の人物調査と行動確認・摘発を行うのは警察・検察となる。
特定機密保護法を巧みに運用することで、警察の力が飛躍的に強化され、旧憲法下の内務省のような状態になりうる。
北朝鮮の貿易で大きいのは、「トンネル堀り技術」の輸出である。
以前、りびぅのカダフィが逃げ出した時に、ゴルフのカートで移動できる地下室のトンネルの映像があったが、このトンネルは北朝鮮製だった。
シリアで化学兵器を隠しているのがバレなかったのは、北朝鮮の技術で、地下に物凄いトンネルを掘っていたからだった。
独裁国家の連中に、都合の悪いモノを隠す、逃げて姿を隠す時の為の地価の豪華な家を作るというのが、北朝鮮の重要な輸出産品になっている。
ワイマール憲法に代わるナチス憲法など存在しない。
ナチスが成立させたのは、ドイツ国会がヒトラー政府に立法権を委譲した「全権委任法」である。
ヒトラーが自分の判断で勝手に法律を作ることにして、憲法をいつでも乗り越えることができるようにしのである。
つまり、形としては「ワイマール憲法」は生きていた。
憲法を変えない形で国のあり方を完全に変えて、戦争ができるような体制にした例として、ナチスがあるのである。
麻生太郎発言を聞いて「日本は憲法改正はやらずに、実質的に戦争ができるような体制に変えようとしているのか」という深読みをしている人達が世界には出てきている。
集団的自衛権問題には、2つのトラウマが関わっている。
「安倍晋三首相のトラウマ」と「外務官僚のトラウマ」である。
1960年に日米安全保障条約改訂に乗り出した時、安倍首相の祖父である岸信介首相は「アメリカは日本を防衛する。日本の自衛隊も海外に派遣してアメリカを守る」という双務性を担保し、アメリカと対等の関係を目指した。
しかし、アメリカはそれを認めず、片務関係のままとなった。
つまり、日本はアメリカに対する共同防衛の責任を負わず、その代わりに米軍に基地を貸し、経費の一部を負担する仕組みになった。
その結果、岸首相は自らの政治信念を貫けなかったばかりか、不本意な条約を締結したために首相の座を去る事を余儀なくされた。
この岸首相のトラウマを孫の安倍首相は受け継いでいる。
そして1990年の湾岸戦争の際に、130億ドルともそれ以上とも言われるカネを供出したにもかかわらず、アメリカからもクウェートからも監視ゃされなかった、外務官僚の屈辱を経験した。
以後、外務省は「自衛官の紛争地帯への派遣を実現しなければ、日本は国際社会のプレイヤーにはなれない」という強烈なトラウマを抱えることになった。
今回の集団自衛権の行使容認は、この2つのトラウマが組み合わさった結果生まれた、一種の「心の問題」なのである。
しかし、公明党の対応により、実質的には「これまで個別的自衛権と呼ばれていた領域の一部を、集団的自衛権と呼び直すことにした」という、以前と変わらない状況が続いている。
これ以上は憲法改正が必要となり、これまでのような「なし崩し」ができなくなった分、閣議決定を踏み越えない限り、むしろ政府は自衛隊派遣がやり辛くなったと言える。