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2017年8月15日火曜日

日本とフィリピンの関係は、近年は非常に良好だが、歴史を振り返ると戦後しばらくは、フィリピン国民の反日感情は非常に強かった。
1931年満州事変から1945年の終戦までの期間に、日本が近隣諸国に与えた戦争被害の大きさをみると、犠牲者が一番多かったのは中国だが、フィリピンにおいても100万人以上に上っている。
日本は1942年当時、米国の植民地だったフィリピンの首都マニラを占領し、フィリピン全土に軍政を布告した。
1943年には新日政権が樹立され、日本の占領下でフィリピン共和国の独立が一旦宣言された。
しかし1944年に米国がレイテ島に上陸後は、フィリピン各地において日米両軍の間で本格的な地上戦が繰り広げられ、フィリピンの民間人も戦闘に巻き込まれた。
とりわけ、マニラを巡る日米の攻防「マニラ市街戦」で「東洋の真珠」と呼ばれるほど美しい町だったマニラは廃墟となり、10万人のフィリピン市民が犠牲になった。
厚生労働省の資料のよると、フィリピンでの日本人戦没者は50万人を超えており、日中戦争以降の日本人戦没者310万人の6分の1を占めている。
フィリピン政府は大戦後、自国の戦争被害を算定し、フィリピン全土の犠牲者数を111万人と報告している。
当時の総人口が2000万人程度であったことを考えると、実に多くのフィリピン国民が犠牲になったかが分かる。
フィリピンは中国を脅威として認識し、安全保障の面で米国と連繋強化を図るにしても、経済への影響を考えると、中国との関係を無視する事はできない。
近年のフィリピンの貿易構造をみると、中国からの輸入は輸入総額の15%程度を占めており、相手国ではトップとなっている。
また中国向け輸出は、輸出総額の10%程度を占めており、日本向け米国向けに次ぐ規模となっている。
フィリピンにとって中国は、重要な貿易パートナーであり、インフラ不足に悩むフィリピンは、AIIBへの参加に関して当初、南シナ海の問題を考慮して設立協定への署名を留保していたが、最終的には署名を決定している。
英国のシンクタンク国際戦略研究所の報告書『ミリタリー・パランス2016』によると、フィリピンの軍事予算は215年時点で20億ドル強と規模は非常に小さく、自衛力に乏しい。
ちなみに同報告書によると中国の軍事予算は1500億ドルとなっている。
フィリピンのドゥテルテ政権は、選挙公約通り、麻薬犯罪の容疑者を大量に殺害するなど強権的手法に訴えている。
2016年12月時点で、ドゥテルテ政権が掲げる麻薬撲滅戦争における死者は6000人と、毎月1000人以上の死者が出ている計算となる。
なお6000人の死者のうち、警察の捜査時に殺害されたものが2000名、警察の捜査とは関係なく殺害されたものが4000人としている。
後者には見薬犯罪組織による口封じ目的の殺害が含まれている。
半ば固定化された格差が厳然と存在するフィリピンにおいて、国民を結び付けるアイデンティティは脆弱であり、階層を超えた国民的連帯を難しくし、民主主義の深化を阻んでいる。
フィリピンの最近の国勢調査でも、100種類以上の民族の分類が報告されており、全人口に占める比率が2%以上の民族だけでも9民族に上り、いかに多民族国家であるかが分かる。
フィリピンはタガログ族が過半を占めるというイメージがあが、最大勢力のタガログ族ですら、人口の25%程度を占めるに過ぎない。
その意味では、民族はフィリピン国民の共通のアイデンティティとはなりにくい。
フィリピンではフィリピノ語(実質的にタガログ語)が国語、英語が公用語となっているが、国勢調査で家庭内の使用言語をみると、タガログ語は全体の4割弱を占めているに過ぎない。
タガログ語以外をみると、各民族が別々の言語を持っている状況であり、タガログ語はあくまでも地方言語の一つであるし、英語は外来語であることから、国民を結び付けるアイデンティの源泉とはなりにくい。
一方、フィリピン人の8割がカトリック教徒で、これにプロテスタントを加えると広義のキリスト教信者は人口の9割を占めている。
経済発展のプロセスにおいて、農地改革が重要となる。
東アジアの中で、農地改革の成功例として引き合いに出されることが多いのは、第二次大戦後の日本、韓国、台湾の経験である。
日本は、戦後の米国占領下において、農地改革が財閥解体と並んで重要な改革として位置づけられ、短期間で農村の生活が劇的に変化した。
農地改革実施前の1946年時点では、農家のうち自作農は3割を占めるに過ぎなかったが、1950年には6割以上を占め、自作を主とする自小作農も含めると1950年時点で実に85%の農家が自作農になっている。
一方、小作農および小作を主体とする小自作農は、1946年時点では5割を占めていたが、1950年には1割にまで激減している。
スペインとフィリピンとの出会いは、探検家のマゼランがセブ島に到着した1521年を起源としている。
マゼランはポルトガル人だったが、すべてン国王の信任が強く、スペイン艦隊を率いていた。
マゼランはセブ島到着後、島民との戦闘で戦死したが、スペインはその後、メキシコ総督府のレガスピ率いる遠征隊を派遣し、1565年にセブ島の領有を開始した。
この領有によって、スペインによるフィリピンの植民地化がスタートする。
世界史の教科書では、スペインによる333年のフィリピン支配と説明されている事が多いが、この起算時点は1565年が正しい。
セブ島の領有に成功すたレガスピは、北上し、ルソン島のマニラを陥落させ、1571年にマニラで市政を開始するとフィリピンの植民地化を確立していった。
そもそもフィリピンという国名は、当時のスペインの皇太子で後のフェリペ2世の名前が由来となっている。
世界銀行の定義によると、中所得国は1人当りGNI(国民所得)が1026ドルから1万2475ドルの国を指し、このうち1026ドル~4035ドルの国は低位中所得国、4036ドル~1万2475ドルの国は高位中所得国とされる。
一方で高所得国は、1人当りGNIが1万2475ドル以上の国を指す。
歴史を振り返っても多くの国は、低所得国の段階を抜け出すことができても、中所得国の段階を脱するのは難しい。
東アジアの主要国でついても、「中所得国の罠」を克服したのは、日本とNIEsくらいであり、ASEAN主要4か国はいずれも未だ中所得国のままであり、マレーシアとタイは高位中所得国、インドネシアとフィリピンは低位中所得国に位置づけられる。
フィリピンでは株式の時価総額の大半を財閥系の企業が占めており、財閥の存在はこの国の経済そのものと言える。
スペイン系の代表的な財閥としては、アヤラ財閥とアボイティス財閥、中華系の代表的な財閥としては、シー財閥、ゴコンウェイ財閥、コファンコ財閥などがある。
大半の財閥は広大な土地を所有しているほか、金融業、小売業、蜀今暁、不動産業などの幅広い事業を手掛ける巨大グループとなっている。
多くの国では、政治分野のエリートと経済分野のエリートは別々であるケースが多いが、フィリピンは両者が重なっており、一族の中から国会議員・地方議員を排出している。
時の政権からすると財閥を敵に回す方向での改革を実現することは簡単な事ではない。
〇アヤラ財閥
不動産(アヤラ・ランド)、通信(グローバル・デレコム)、銀行(フィリピン・アイランズ)、水道(マニラウォーター)
〇アボイティス財閥
発電(アボイティス・パワー)、食品(ビルミコ・フーズ)、銀行(ユニオン・バンク)、不動産(アボイティス・ランド)
〇シー財閥
銀行(BDOユニバンク)、小売(SMリテール)、不動産(SMブライム・ホールディングス)
〇ゴコンウェイ財閥
食品(ユニバーサル・ロビナ)、航空(セブ・パシフィック)、不動産(ロビンソン・ランド)、銀行(ロビンソンズ・バンク)
〇コファンコ財閥
飲料(サンミゲル・ブリュワリー)、飲料(ヒネプラ・サンミゲル)、食品(サンミゲル・ピュア・フーズ)、石油(ペトロン)