日本とフィリピンの関係は、近年は非常に良好だが、歴史を振り返ると戦後しばらくは、フィリピン国民の反日感情は非常に強かった。
1931年満州事変から1945年の終戦までの期間に、日本が近隣諸国に与えた戦争被害の大きさをみると、犠牲者が一番多かったのは中国だが、フィリピンにおいても100万人以上に上っている。
日本は1942年当時、米国の植民地だったフィリピンの首都マニラを占領し、フィリピン全土に軍政を布告した。
1943年には新日政権が樹立され、日本の占領下でフィリピン共和国の独立が一旦宣言された。
1943年には新日政権が樹立され、日本の占領下でフィリピン共和国の独立が一旦宣言された。
しかし1944年に米国がレイテ島に上陸後は、フィリピン各地において日米両軍の間で本格的な地上戦が繰り広げられ、フィリピンの民間人も戦闘に巻き込まれた。
とりわけ、マニラを巡る日米の攻防「マニラ市街戦」で「東洋の真珠」と呼ばれるほど美しい町だったマニラは廃墟となり、10万人のフィリピン市民が犠牲になった。
とりわけ、マニラを巡る日米の攻防「マニラ市街戦」で「東洋の真珠」と呼ばれるほど美しい町だったマニラは廃墟となり、10万人のフィリピン市民が犠牲になった。
厚生労働省の資料のよると、フィリピンでの日本人戦没者は50万人を超えており、日中戦争以降の日本人戦没者310万人の6分の1を占めている。
フィリピン政府は大戦後、自国の戦争被害を算定し、フィリピン全土の犠牲者数を111万人と報告している。
当時の総人口が2000万人程度であったことを考えると、実に多くのフィリピン国民が犠牲になったかが分かる。
当時の総人口が2000万人程度であったことを考えると、実に多くのフィリピン国民が犠牲になったかが分かる。
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