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2017年10月30日月曜日

官界にあって東京大学法学部卒の優位は今だに揺るがないものの、出身高校から見た度合いは、明らかに変わってきている。
官界の最高峰の財務官僚のうち、戦後入省で事務次官の椅子を射止めた32人の出身高校を見ると、「昔日比谷、今開成」と言える。
1878年に開咬した東京府立第一中学校は、1943年の都制施行により都立第一中学校に改称し、戦後の1950年に都立日比谷高校となった。
日比谷が、「府立一中」「都立一中」と呼ばれた時代には、「一中→一高→東大」が官界における最高のエリートコースになっていた。
一高とは、第一高等学校の略称で、現在の東京大学教養学部の位置づけだった。
戦後、「一中→一高」に代わってよく語られたのは、「番町小→麹町中→日比谷高」の流れで、最盛時には日比谷から200人近い東大進学者が出ていた。
ところが967年に学校群制度が導入されるとも日比谷高校に進学できる地区が限定されたため、東大合格者数が激減してしまう。
こうした日比谷の凋落に対して、取って変わったのが私立改正学園である。
戦後の大蔵省入省者で開成から事務次官になったのは、1966年入省の武藤敏郎・大和総研理事長が初めである。
開成は戦前から優秀な学生が集まっていたが、戦時中に海軍の一大拠点であった江田島との関係がふかかったため、多くの戦死者を出す不運に見舞われた。
戦後にはGHQの厳しい監視下で、パージされるOBも多く、冬の時代が長く続いた。
大蔵省・財務省を通じて、開成出身者の合計は70人にものぼり、日比谷、灘、麻布を凌駕し、出身高校としては最大となる。
内訳はOBが20人、現役が50人で、現役は年々増えており、新入省者を迎える歓迎会が毎年恒例行事になっているという。
ちなみに、開成学園の教育方針である「開物成務」は人々の知識を開いて事業を成し遂げるという意味である。
キャリアの財務官僚の出世コースは、以下のような流れになる。
入省時のポストは、官房文書課、秘書課、主計局総務課。
課長クラスでは、文書課長、秘書課長、調査企画課長(現総合政策課長)の官房三課長が有力となる。
その後、主計局次長→官房長→主計局長→事務次官と駆け上がるのが、典型的な出世コースと言える。