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2016年9月7日水曜日

明治憲法における政治体制の特徴としては、法律の制定、文武官の任免、軍隊の統率、宣戦・講和など、国家レベルの権限といえるもの全てを天皇に集中(天皇大権)させていた。
この絶大な権限をもつ天皇を補佐するために、多くの国家機関が設置され、それぞれが役割を分担し、天皇のもとに並列する形が取られていた。
代表的な国家機関としても衆議院と貴族院で構成される帝国議会(法律・予算)、内閣(行政)、枢密院(条約・勅令)、参謀本部・海軍軍令部(軍の作戦・用兵)などがあった。
一方で、日常の政治運営においては、「宮中・府中の別」という原則があった。
「府中」とは政治の世界のとを指し、この原則は天皇を中心とする世界と政治の世界との分離を意味する。
つまり、天皇大権を保持しているはずの天皇は、自らの政治的権限を先頭に立って行使しないことになっている存在でもあった。
国家レベルのあらゆる決定は天皇の名でなされるが、現実の政治運営の場面では、諸国家期間が実質的な決定権をそれぞれの役割に応じて握っていた。
結果的に、明治憲法体制では、諸国家期間の判断や決定が多様となり、そこで生じた矛盾や対立を調整し解決していく制度上の仕組みが無かった。
1885年12月23日に内閣制度が採用され、第一次伊藤博文内閣が発足した以降、1889年の大日本帝国憲法発布を経て、1947年5月3日に第一次吉田茂内閣の時に日本国憲法が施行されるまでの61年4ヶ月の間に、同じ人物が連続して組閣した例(第一次・第二次加藤高明内閣と第二次・第三次近衛文麿内閣)もあるが、この2例とも連続する内閣の性格が大きく異なるので、別個のものとして扱うと、内閣の数は46だった。
明治憲法下では、一代の内閣の平均寿命は16ヶ月ほどと短命だった。
そもそも明治憲法には、内閣や総理大臣という言葉はなく、第四章「国務大臣及び枢密院顧問」の第55条に「国務各大臣は天皇を輔弼(ほひつ)し其の責に任ず」という条文が僅かにあるだけだった。
輔弼とは、「天皇を補佐する」という意味で、この規定は国務大臣単独輔弼制と呼ばれている。
明治憲法下において、首相といえども「国務各大臣」の中の一人に過ぎず、他の大臣を指揮し、罷免してでも命令に従わせることができるような明文化された権限がなかった。
国務各大臣とは対等な関係の中にあって、その権限は極めて弱いものだった。
ちなみに日本国憲法では、第68条にて、首相には「任意に国務大臣を罷免する」権限があると明記されており、昭和憲法の下では首相が内閣の指揮官であることが明白である。